第十二話
四章
目を覚ましたユラノが初めに見たのは、リンヤの顔だった。
「ユラノ……!」
薄い翠色の瞳が一瞬で濡れ、揺れる。そのままユラノに抱きついてきた。
「痛っ……!」
「あっ、ごめん! ……大丈夫?」
色々なところが痛んだ。特に左腕――動かない。目を向けると、添え木の上に包帯が幾重にも巻かれて固定されていた。折れているらしい。
「うん。……大丈夫」
リンヤの行動が大事に至らなかったという意味で、そう言う。
痛みが落ち着くと、頭がはっきりとしてきた。ここが何処なのか、自分がどういう状況なのか、すこしずつ情報が浸透してくる。
見慣れた家の医務室だった。窓は開け放たれていて柔らかい陽光が射し、優しい風がカーテンを翻している。窓際のベッドにはプリスとミオの姿があった。あの輸血袋が、またミオの体に繋がっている。
「……隊長、ミオ」
何が起こり、どういう結果になったのかは分からない。けれど、少なくともプリスとミオが怪我をしたということだけは分かった。胸が締め付けられるような想いがする。
プリスが吸血鬼と戦うと言ったときの決然とした態度を思い出す。やはりプリスは、一線を超えてしまったのだろうか。
いや、しかし相手はキララだった。それでもプリスは、魔法を撃ったのだろうか。
「プリスちゃんたちは、大丈夫だって」
ユラノの想いを察してくれたのか、リンヤがそう言った。ひとまずその言葉に安心するが、疑問は晴れない。
「キララは……? どうなったの?」
リンヤの顔が曇る。
「プリスちゃんたちが何とかしてくれたよ」
この話をしたくない、という気持ちが口調に滲んでいた。やや気が引けたが、聞かずにはいられない。
「何とかって……? もしかして――」
リンヤは首を横に振った。
「殺したりはしてないよ。ただ、動けなくしただけだって」
「動けなく……? どういうこと? キララは無事――」
「ねえ」
その声は静かだったのに、不思議と言葉を止めずにはいられなかった。
リンヤはすがるような目付きで、じっとユラノの目を覗き込んでいる。
「……もう、いいじゃない。どうして、あの子のこと心配するの?」
「どうしてって、それは――」
「ユラノをこんな風にしたのは、あの子なのに」
包帯で固められた左腕を、触れるか触れないかという手つきでそっと撫でる。
「プリスちゃんたちだって、もう少しで……」
そしてユラノの目をじっと見る。
「……どうして?」
そのままユラノの返答を待つ――かと思いきや、リンヤはすぐに目を逸らした。
「いい。べつにいい。わかってるから」
「わかってる、って――」
どういうことだ、と思う。ユラノ自身すぐにこれだと言えないのに。
「とにかく。ユラノは怪我人なんだから、寝てればいいの。ここでずっと」
「リンヤ?」
「私、見張りに行かなくちゃだけど。ぜったい、寝てなきゃだめだからね。ぜったいだから!」
何度も釘を刺しながら、リンヤは部屋から出て行った。
「……どうしたんだろう」
妙に必死だった気がする。リンヤのことだから単に心配していただけかもしれない。けれど、それ以上の何かがあるように感じられた。まるで何かを隠しているような。
プリスたちが何とかしてくれた、とリンヤは言った。本当にそうなのだろうか? キララを動けなくした、とはどういう意味なんだろう。元に戻ったわけじゃない?
アカリはどうしてるだろう。今も動けなくなったというキララの元にいるのだろうか。どういう気持ちでいるのだろう。妹が吸血鬼になってしまって。
分からなかった。今の状況も、自分が何をすべきなのかも。
リンヤの言う通りにこのまま寝ているだけでいいのだろうか。そう自分に問いかける。
答えは、否だった。
直接行って、自分の目で、どうなったか確かめないといけない。どこに行けばキララやアカリに会えるかは分からない、けれどきっとあの教会か、家にいるだろう。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。ベッドからそっと抜け出して自分の足で立ち、ゆっくりと歩いてみる。何とか動けそうだった。
リンヤには悪いと思う。でも、見つかったらきっと止められると思ったから、声はかけずに出て行くことにした。
「じゃあユラノ、わたし行ってく――」
弓矢その他見張りに必要な準備を整えて戻ってくると、ユラノのベッドが空になっていた。
――抜け出したんだ。あれほど言ったのに。
やっぱり、と思う。そして哀しくなる。どうしてわたしの気持ちはこんなに伝わらないのだろう。いつもユラノは、わたしの話を聞いてくれない。
でも、哀しんでいる場合じゃない。早く追いかけて、連れ戻さないと。まだ遠くには行っていないはずだ。
リンヤは踵を返し、家の出口を目指した。
弓矢は持ったままだった。
「――ユラノ!」
まだ家の敷地からも出ないうちに背後から声をかけられた。思っていたよりも早い。
謝罪の言葉を考えつつ振り向く――と、そこにはさっきと同じ、すがるような表情のリンヤがいた。その顔がユラノに言葉を詰まらせる。
「行っちゃだめ」
「どうして?」
「とにかく、だめなの」
「そんな。理由もなしに、納得できないよ」
リンヤは一歩も引かない態度。だが、それはユラノも一緒だ。
「僕はキララに怪我させられたんだから、彼女がどうなったか、知る権利があるはずだ」
「わたしはユラノに行って欲しくないの! ……どうしても、だめなの?」
「……リンヤ」
「お願い。行かないで」
リンヤは走り寄るとユラノの右手を掴んだ。予想以上の力の強さに、少しだけ怯む。それはリンヤの気持ちの強さそのもののようだった。
「教えてよ、リンヤ。どうしてそんなに、僕を止めようとするの」
「言ったら、行かないって約束してくれる?」
「それは……」
約束することはできなかった。きっと理由が何であれ、自分は行くだろう。……とすれば。
気付いてしまった。自分はどうしても行く。リンヤは行かせたくない。だったら話し合いは、もう――。
「……ごめん、リンヤ。僕行くよ」
繋いだ右手を、引く。
「……あ」
あれほど強く握られていたのに、それはあっさりと抜けて、繋いだ手はほどけた。
リンヤの呆けたような顔が痛い。けれど、決めてしまったのだ。行くと。
背を向けて歩き出す。リンヤが追ってくる気配はない。そのまま、歩く。
「……ユラノ」
異様に静かな声で、再び名を呼ばれた。名状しがたい寒気を感じて振り向く。
ぎょっとした。
鏃が、こちらを向いている。構えているのは――リンヤだ。腕が震えているのが、数歩離れたここからでもはっきりと分かった。
怯えたような、混乱したような――曰く言いがたい瞳が、鏃と一緒にこちらを見ている。
――わたし、何してるんだろう。
自分以外の誰かが勝手に弓を引いた、そうとしか思えなかった。だけどユラノに矢を向けているのは確かに自分の体で、ユラノはそれを、口を半開きにしてぼうっと見ている。きっと驚き過ぎて何が起きたか分かっていないんだろう。
それはそうだよね……。
弓を、引いているんだもの。このまま右手を離したら矢が飛んで、間違いなくユラノの額を貫く。腕が震えているから少しは逸れるかもしれない。いや、きっと貫く。放つ瞬間には震えは止まるだろう。吸血鬼を撃つときはいつもそうだった。分かるんだ。撃つ前から当たるか当たらないか、だいたい分かる。いまは当たる。当たったら困る……。
泣きたい。
なんでこんなことしなきゃならないんだろう。ユラノを守るための弓だった、はずなのに。
吸血鬼と戦うことに決めたとき、ユラノに言われた。
『僕は前に出て、直接吸血鬼と戦う。リンヤは後ろから、弓で援護する。そうすれば僕はリンヤを守れるし、リンヤは安全に戦うことができる――』
自分にはどうやら弓の才能があるらしいと分かったときは、嬉しかった。わたしはユラノの役に立てる。守ってもらうだけじゃなくて、わたしの弓がユラノを守る。それは本当の意味で、一緒に戦えるということ。
そのはずだったのに、今していることは何……?
ユラノに弓を向けている。ユラノを守るはずの弓で、ユラノを撃とうとしている。おかしくなりそう。いや、もうなってるのかな?
「……いかないで」
ぐちゃぐちゃな声だった。わたし、泣いてるのかな……。
「……ユラノ、いかないで」
ユラノの空気が張り詰めた。何かを言おうとしている。表情はよく見えなかった。けれど。
何を言おうとしているのか、言われる前から分かってしまって――
「ごめん。僕、やっぱり、行くよ」
耳を塞ぎたかったけれど、弓矢のせいで、できなかった。
「……ユラノ……」
手から引き剥がすように弓矢を放って、リンヤは地面に膝をついた。ひとつ、ふたつ、土の上にしずくが落ちる。
ふと、首筋に違和感を覚えた。無意識に手を触れる。
マフラーだ。ユラノに会ってからずっと、片時も放さず身につけていた大切なマフラー。リンヤが初めてユラノにもらったもの。
出会った日は寒くて、ユラノはそのとき身につけていた白いマフラーを、リンヤにそっと巻いてくれたのだ。白い髪だから似合ってるよと言って笑っていたのを忘れない。
温かかった。
それがユラノとの繋がりのような気がして、ずっと身につけていた。吸血鬼と戦うときはもちろん、家の中でもできる限り。
柔らかくて温かかったマフラーなのに、今は、何かがおかしい。
息苦しい。冷たい。気分が悪くなってくる。
たまらなくなってマフラーをほどいた。持っているのにさえ抵抗を感じて地面に取り落とす。落ちる過程で広がって、白い布地が土に汚れた。
違和感が去って、別の感覚がやってくる。首筋にあるべきものがない、ぽっかりと空いたような、うつろな感覚。
でも、それでいいと思った。なにもなくていいんだ、と。
廃教会の入口をくぐった瞬間、ユラノは息を呑んだ。
一面が赤い氷に覆われている。崩れた壁も、瓦礫も、割れた床の隙間から生えた花畑も、何もかもが赤く閉ざされてしまっている。
きっとプリスたちの魔法の結果なのだろうと思ったが、こんな赤い氷など見たことはなかった。不吉な色だ。現実に、プリスもミオも寝込んでしまっている。
ユラノは歩き出した。薄く霧が出ていて視界が悪い。氷の放つ冷気が教会全体に張り詰めている。霧の上に突き出た、一際巨大な赤い氷十字に目を引かれる。
その根元に影があった。
「……アカリ?」
そこはとりわけ氷の浸食が激しいようだった。肌寒く、吐く息が白く煙る。そんな中、アカリはじっと立ち尽くし、氷の中の一点を注視していた。
視線の先には、キララの姿がある。
ユラノは目を瞠った。リンヤが言っていた、動けなくしたという言葉の意味を知る。
完全に静止していた。何本かの氷の柱に身体を貫かれ、宙に浮いたような状態で凍り付いている。右手は何かを掴むようにこちら側に突き出され、髪は乱れて燃え立つようだった。
瞳に灯っていた吸血鬼の証――禍々しい赤い光は、今は消えている。しかし表情はけして安らかではなかった。むしろ逆、深い怒り、憎しみ、哀しみ――目は視線で射殺さんばかりに、口は絶叫するように、限界まで開け放たれていた。
改めて見る豹変したキララの表情に、戦慄を覚える。
「何しにきたんだ」
ふいの言葉は静かな呟き。
「お前、ばかじゃないのか。そんな目にあって、まだ来るなんて」
ユラノを見ない。独り言のように、静かで――霧に溶け込みそうな口調だった。
口調だけではない。アカリの姿そのものが今はとても頼りなくて、霧とひとつになって消えてしまいそうに見えた。頬はこけ、目には色濃い隈があり、手足は今にも倒れてしまいそうに頼りない。
あれからずっと、ここにいたのだろうか。キララのそばで何も食べずに。
そのことについて問い質そうとすると、アカリが先に口を開いた。
「あたしの、せいだったんだよな」
「……え?」
「キララがこうなったのはあたしのせい。あたしが血の恋人だったから、キララは吸血鬼に狙われたんだ。あたしがいなければ、キララはこんな目に遭わずに済んだ……それなのに」
アカリは、笑った。息を吐き出しただけのような乾ききった笑み。
「プリスのやつが言ったとおりだった。あたしが血の恋人だから、キララは病気になった」
「そうと決まったわけじゃ……」
「そうとしか思えないだろ……。キララが病気になったのはあの事件の直後だった。しかも、あたしだけキララに触っても平気だった。おかしいだろ普通。そんなこと、ありえないだろ。……あいつの言った通りだったんだ。あたしは穢れてるんだ。だから周りを不幸にする」
光の欠けた瞳が曖昧に揺れる。
「あたしなんか――いないほうが……」
アカリははっとして、下を向いた。ユラノはアカリの手を、しっかりと掴んでいた。
「だめだよ」
じっとアカリの目を見つめて、ユラノは言う。
「いなくなるなんて、だめだ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
声は震え、掴んだ手は力ない。
「あたしはこんなに周りに迷惑かけて。どうやって生きていけばいいんだよ」
「アカリのせいじゃない」
「何言ってんだよ。人が死んでるんだぞ。キララの病気が伝染ったせいで何人も死んでるんだ。あたしのせいってことじゃんか。あたしのせいじゃないなんて、言えない。それで誰が許してくれるんだよ」
「きっとみんな、分かってくれる。隊長だって謝ろうとしてたじゃないか」
「今までだけじゃない。これからだって同じようなことはきっと起こる。……あたしは、もう、いなくなったほうがいいんだ」
アカリはユラノから視線を外し、床に深く突き刺さる赤い十字架を撫ぜた。
「本当は、プリスがこれを撃ったとき――あたしは、キララの代わりにこれを受けるつもりだった。そうして、あたしは……」
ぽつりと、一言。
「もう死のうって、思ったんだ」
鼓動が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
――嫌だ。
心の底からそう思う。アカリが死ぬのは嫌だ。もう会えなくなるなんて嫌だ。死ぬなんて絶対に駄目だ。生きていてほしい。
伝えたい。アカリにここに居てほしいと、伝えたかった。だけど、言葉ではきっと伝わらない。今までずっとそうだった。アカリに自分の言葉は届かない。
どうすればいい。
アカリのことを大切に思っている。そのことを伝えるには。理解してもらうには。分かってもらうには、何をすればいいのだろう。
色々な想いが湧き起こる。一緒にいたい。触れたい。元気になってほしい。笑っていてほしい。離れていってほしくない。気持ちを通い合わせたい。結びついていたい。絆がほしい……、
……絆。
そうか。絆だ。
その言葉が浮かんだ瞬間、ユラノは腰からそれを引き抜いていた。
「アカリ」
アカリは振り向き――驚いて動きを止めた。かすれた声で言う。
「お前……なに、するつもりなんだ」
「傷つける」
何を。そう問おうとしたアカリの言葉は声にならない。その前に、ユラノが動いたからだ。
「ずっと、隊長とミオのことを見てきた」
手にしたもの――血約の儀式短剣を、ゆっくりと上げ、自分の腕にあてがう。
「二人の血約騎士としての在り様に、憧れてたんだ」
そして、引く。
「傷つけて、傷つけられることが、騎士たちの――隊長とミオの絆の証だった。だから」
一筋の赤い線が生まれ、血が珠になって滲み出す。すぐに零れて腕を包む包帯を赤く染め上げながら、幾滴かは地面に落ちた。
アカリはその様子を、呆然と見ている。
蒼白な表情で、じっと、見つめている。
「だから……僕にとっても、傷は最高の、絆の表現なんだ」
痛みに顔をしかめながら、それでもユラノははっきりと言った。
「……お前」
「アカリ」
名を呼ばれたアカリは、か弱い小動物か叱られた子どものように身体を縮こまらせる。
「前にきみは言ったよね。僕はただ同情してるだけだって。でも、違う。同情なんかじゃない。僕は心の底から、きみにここにいてほしいと思ってる」
アカリは震え、ただ黙ってユラノの言葉を聞いている。
「死ぬって言われてようやくわかった。ぼくは、きみのことが――」
次の言葉を言おうとすると、胸がとつぜん、ものすごい勢いで鼓動を始めた。息苦しくて言葉がつかえる。
それを無理矢理ねじ伏せて、言う。
「――好きなんだ」
アカリの目がいっぱいに見開かれる。
「だから」
伝えたいことがある。
嫌がられるかもしれない。拒絶されるかもしれない。気持ちなど届かなくて、今まで重ねた言葉も自分自身を傷つけたことも、何もかも無意味になってしまうのかもしれない。それはとても怖いこと。それでも。
これしかないと思うから、これが一番気持ちを伝えられる方法だと信じるから。
きっと後悔しない。そんな最高の決心を持って、告白する。
「――僕と、血約しよう」
きれいな赤い色の彼女の瞳。いつも曖昧に濡れて、揺らいでいたはかない瞳。
この泣きそうな瞳を止めてあげられたらいいなと思う。
彼女が心から笑っている顔をこの目で見たいと思う。
もう二度と、死ぬなんて言わせたくない。
だから、届け。そう強く願った。
――長い沈黙があった。
「……ばかじゃ、ないのか」
アカリは俯いて、搾り出すように言った。
「お前のその怪我だって……あたしのせいなのに……」
小さく震える、弱々しい声。
「アカリのせいじゃない」
「あたしの何が、そんなにいいんだ。こんなにひねくれた、嫌な奴なのに」
「そうは思わない」
「みんなに無視されてる、血の恋人なんだ」
「僕は無視したりしないよ」
「ずっと無視されてきたから、普通の暮らしなんてわからない」
「これから少しずつ一緒に覚えていけばいい」
「ちょっと怪我しただけで、血がたくさん出て大変なんだ」
「大丈夫だよ。チウ爺だっているし」
「そのせいで、お前はプリスみたいに魔法を使えないかもしれない」
「魔法なんか使えなくたっていい。血約したいっていうのは、きみへの気持ちの証明だから。魔法が使いたいからじゃない。きみと一緒にいたいから、血約するんだ」
「……お前……」
声が詰まり、途切れる。そしてまた長い沈黙があって――アカリが、顔をあげた。
「本当に、……ばかなやつ」
地面に雫が落ちて、跳ねる。ユラノはそれを見て微笑んだ。
「やっぱり、あれはうそだったね」
「……なにが」
「『血の恋人は、涙のかわりに血を流す』」
アカリは今気がついたかのように、乱暴に目元を拭った。もうそれくらいでは隠しきれないほど涙は彼女の顔を濡らし尽くしている。目は真っ赤で、桃色に染まった頬はぐちゃぐちゃだった。
「ばかやろ……。あたしがうそ、言うわけ、ないだ……ろ」
「じゃあ……これ」
ユラノは儀式短剣をしまって、代わりにもう片方の血約具を取り出した。
「最初の一回だけ。ほんの少しだけ、血を流せばいい。……キララの薬、まだ、あるんだよね?」
差し出された血約指輪を、アカリは涙まみれの目で見ている。
「涙のかわりに、血を流して、くれるんだよ……ね?」
あまりに動かないアカリの様子に、不安になる。けれど。
アカリはそっと、手を伸ばしてくれた。
今まで感じたことがないような、温かい気持ちが胸に広がる。指輪に――自分の手に近付くアカリの手を、早く受け取って欲しいような、ずっとそのままでいて欲しいような気持ちで見つめる。
やがて、彼女の指が、触れそうになって――。
「――お姉ちゃん」
二人、弾かれたように振り向いた。
氷のゆりかごから赤い光の粒が散っている。粒子が降り落ちるごとに少しずつ、氷のかさが減っている。溶けている――否。
分解されているのだ。
ちりちりと氷の戒めはほどかれてゆき、やがて――キララがその中から、顔を出した。
一層区に続く道の上をリンヤとカイが歩いている。
「ねえリンヤ、お願いだから考え直してよ」
「しつこいよ……。わたしは何て言われたって絶対いく。カイは早く戻りなよ」
「リンヤが戻るって言うまで、ぼくも戻らない」
リンヤは諦めたような、胡乱な目つきでカイを見た。
「……もう知らない。勝手にしたら」
何度同じようなやりとりをしたことか。
リンヤにはカイの制止を聞く気はない。今にもユラノが危険な目に遭うかもしれないのに、立ち止まって押し問答をしている余裕などないのだ。
カイはカイであまり強く出られない性格なので、結果的にリンヤの後をついていくような形になっている。もう一層区も近い。
「待ってよ、リンヤ」
カイはついに堪りかねたのか、リンヤの腕を掴んだ。
「放してよっ」
乱暴に振り払う。
「早く行かないと、ユラノが!」
「ぼくだってリンヤのことが心配なんだ!」
突然の大声に驚く。カイがこんなに大きな声を出したのを初めて聞いた。
「プリス隊長やミオみたいに大怪我したら、どうしようって……本当はスレイヴをやっつけに行くのだって止めたいくらいなのに……王だなんて。騎士でもないのに、危なすぎるよ」
気弱そうな印象そのままに、薄く涙を浮かべて、カイは懇願する。
「行かないでよ、リンヤ。ぼくは」
口ごもったのは、一瞬。
「……きみのことが、好きなんだ」
リンヤは立ち止まり、カイの姿をじっと見ている。しかし体は前を向いたままだ。
「カイの言いたいことは、よく、わかった」
「じゃあ!」カイの表情が明るくなり、
「でもね」すぐに、固まる。
「わたし、ずっと前から知ってた。カイの気持ち。……ごめん」
そう言うと、リンヤは踵を返して再び歩き始めた。