第一話
流血表現多めとなっております。苦手な方はご注意ください。
『――愛が二人を、別つまで』
血約の儀式が終わると、プリスはそっとミオを抱きしめた。
「ごめんね、ミオ」
細くて温かいミオの体を感じながら、そう囁く。
「本当はもっとちゃんとした場所で、血約式、するはずだったのに」
「ううん」
ミオは首を振る。すこし蒼くなった顔に、小さく微笑みを浮かべながら。
「いいんですよ、プリス。こうなってしまったからには……仕方ないです」
「……うん」
プリスはミオを抱いたまま、ミオの腕を取る。たった今プリスが自ら傷つけた、大切な血約者のからだ。きれいな白い肌にひとすじの傷が刻まれていて、そこから赤い血が流れ出している。ミオだけではない。プリス自身の腕にも同じ傷があり、同じように、血を流している。
それは二つでひとつの誓いの証。騎士と血約者を繋ぐ、絆のかたち。
「わたしたちは、騎士と、ブリーデになった」
「はい」
「だから、きっと助けられる。……そうだよね」
「そうでなければ……うそです」
プリスはかすかに頷き、ミオから少しだけ体を離した。
「行こう」
壊れた街の中を、二人手を取り合って走り出す。崩れた建物、瓦礫の山、燃え盛る炎、たなびく黒煙――そして、傷を負ってうずくまる人たち。彼らの呻きが耳に入る。炎が爆ぜる音や、狂ったように打ち鳴らされる警鐘――それらを圧倒して届く、苦悶の声。
異臭が鼻をつく。嗅ぎなれない嫌な匂い。炎の中から風に吹かれて漂い出す、死の匂い。
すべては、吸血鬼の王が引き起した災禍。
ミオの言う通り、早く行かなければならない。吸血鬼の手から大切な人を取り戻すために。
不安と焦燥。繋いだミオの手だけが、唯一プリスに安らぎを与えてくれた。
二人は街外れの教会に辿り着く。いくつも並ぶ長椅子の向こう、ステンドグラスから射す壮麗な光の中に、一人の男が膝をついている。彼は女性を胸にかき抱き、首筋に顔を寄せていた。
その女性が誰であるのか気付いたプリスは悲痛な叫び声をあげる。
「おかあさん……!」
男が、顔を上げた。
瞳に灯る血のように赤い光――異様で禍々しい吸血鬼の証が、プリスたちを射る。男の肌は死人よりも白く、面貌は絶望的なまでに整っていて、そこには何の表情も浮かんでいない。
「……騎士か」
吸血鬼の王は悪夢のような声で静かに呟き、立ち上がった。抱えられていた女性――プリスの母は、ごとりと重い音を立てて床に落ちる。
「……あ……」
動かない。何が起きたかは――明らかだ。
手遅れだった。おかあさんは、もう……。
「吸血鬼め……」
激情がプリスを衝く。震える手で、手にした儀式短剣を持ち上げる。母は助けられなかった。ならばせめて、一矢報いなければ。力はこの手にある。敵わないかもしれない。それでも。
誰かが、プリスの腕をそっと掴んだ。振り向く。
ミオだ。悲痛な表情で首を横に振っていた。
その仕草でプリスは冷静さを取り戻す。――騎士は一人ではない。常に血約者と共にある。
「ごめん、ミオ……。大丈夫だから」
「……うん」
プリスは再び儀式短剣を構える。今度は激情からではない、明確な意志の下に。
王の周りには、母の他に何人もの女性が倒れていた。みな一様に動かない。おそらくは母と同じように、血を奪われて殺された人たち。
王はその中の一人、小さな少女の腕を取って無造作に持ち上げた。少女は小さく声をあげ――どうやら気絶していただけだったようだ――自分の腕を掴み上げる者を見上げると、少しの後に細い声で泣き出した。
……あの子はまだ、生きている。だったらせめて、あの子だけでも。
「いくぞ。ミオ」
「はい、プリス」
短い確認の後、プリスは呟く。
「――〈繋 血〉」
血約者たるミオの血を介し、二人の魔力が繋がる。プリスの意識の底から魔法の力を解き放つための呪文が浮かび上がってくる。あとはそれを唱えさえすれば、魔法はこの世に顕れる。
詠唱を開始しようとした、そのとき――プリスの真横を赤い風が吹き抜けた。烈風。それは立ち並ぶ長椅子を破壊しながら激烈な速度で王に迫り、肩を射抜いた。
それは赤血色の細長い矢だ。
王はわずかによろめき、掴んでいた少女の腕を離した。少女は床に落ちて小さく声を上げる。彼女を拾い上げようとする王の動きは、新たに殺到する矢に阻まれた。
あの赤黒い矢は、普通のものではない――プリスは予感のもとに振り向く。
赤い光の糸が目に入る。煌く光の粉を散らして空間を巡るそれは、二人の人間を繋ぐ魔力の路――繋血の証だ。すなわち、彼らは。
「教会の騎士……、王を、狩りに来たのか」
三人の騎士が、プリスたちを押し退け教会内に進入する。彼らの持つ短剣から後方へと、一本ずつ赤い光の糸が伸びている。その先に、さらに何人かの気配。おそらくは彼らの血約者。
騎士たちは無言で短剣を構える。
プリスはぞっとした。彼らの目的はただ一つ。王の破滅、それのみだ。そのために彼らは手段を選ばない――いま王のすぐそばには、少女がいる。まだ無事な少女が。
「やめ――、」
制止は届かない。騎士の魔法が発動し、それを嚆矢として王と騎士たちの戦いが始まった。王と騎士の魔力がぶつかり、弾ける。閃光と轟音、それらを裂いて響く高らかな呪文詠唱。巻き込まれた教会の壁が、ステンドグラスが砕け、破片がばらばらと降り注ぐ。
激戦の中、しかし王は執拗に少女へと手を伸ばし続けた。プリスはその様子にかすかな違和感を覚える。それほどまでに、今の王は弱っているのだろうか――
「あの子を助けましょう!」
ミオの声で我に返る。プリスは無言で頷くと駆け出した。騎士たちの攻撃は続いている。その射線上に入らないよう、可能な限り速く少女に近付く。
「こっちに!」
プリスに気付いた少女が王から離れようと動き始める。しかしその動きはとても鈍い。王は逃げる少女を捕えようと手を伸ばす。
プリスは今度こそ、意識の底から浮かび上がる魔法を解き放つ。
『刹那の氷花、仇を貫き咲き誇れ――、〈氷穿花〉!』
王と少女の間を氷の柱が穿つ。床から生え出したそれは伸びるに従い枝分かれし、広がってゆく――まるで花開くように。
プリスは少女に向けて、力の限りに叫びながら手を伸ばす。
「手を!」
氷の花に王が触れる――どろりとした赤光が漏れると、煌く魔力の残滓を残してそれは消えた。王の魔力――物体も魔法も、そして人の身さえも灰燼に帰す〈塵化〉の魔法。
できた隙はほんの一瞬、しかしそれで十分だった。プリスと少女の手が繋がる。全力でその手を引いた。少女は痛みに顔をしかめながらプリスの胸に飛び込んでくる。相手のほうが身体が大きかったから、受け止め切れずに一緒になってよろめいた。
「大丈夫? 名前は?」
「……アカリ」
乱暴に切られた真っ赤な髪を揺らして、少女は不安そうに、それでもしっかり呟いた。
急に寒気を感じた。プリスの前方。王が――こちらを見ている。執念。欲望。無表情の底から滲み出した、吸血鬼の本質のような……どす黒い感情に燃える双眸がプリスを、いや、プリスの胸の中の赤い少女……アカリを見すえている。
騎士の放った一際巨大な魔法の矢が、横ざまに王を貫いた。それはすぐに塵に帰され、大穴の開いた体だけが残る。普通の人間ならば明らかに致命傷だが、吸血鬼の王にとっては軽傷程度のものなのか、それはすぐに塞がった。初めから穴など無かったかのように。
ふいに王は飛んだ。屋根を分解し、開いた穴から上の階へ。騎士たちもそれを追って階上へと消える。
「プリス!」
ミオが駆け寄ってくる。心配そうな表情。
「大丈夫、わたしも、この子も怪我してない」言ってから不安になる。「……よね?」
「……大丈夫」
アカリは、腕をさするように抱きかかえながら、自力で立ち上がった。
「ここはもう危険です……彼らの戦闘に巻き込まれる前に、逃げたほうが」
「……いや、まだだよ」
教会の中は、あのわずかな戦闘のうちに変わり果ててしまった。
壁は割れ、長椅子は木片の山と化した。美しかったステンドグラスも、あらかた無残に砕けてしまっている。倒れていた人々はそれらの破片の中に埋もれてしまっていた。
「まだ、生きてる人がいるかもしれない」
プリスの言葉にアカリが顔を上げた。そして辺りを見回し、つぶやく。
「……おかあさん」
この子も母親を攫われたのだろうか、とプリスは思った。わたしと同じように。
「探そう」
「……うん」
プリスはミオと手分けして、瓦礫に埋もれた生き残りがいないか探し始めた。
天井に空いた大穴からは、王と騎士たちが争う音が聞こえてくる。破砕――詠唱――絶叫――苦鳴。ぱらぱらと降る建物の欠片。やがて――
階上から強烈な赤光が射し込んで来た。見上げるプリスの目に、おそるべきものが映る。
直径五メルは超えようかという、巨大な、しかも多重に展開された、魔法陣。
(大魔法の展開式……!)
騎士たちは王を挟んでプリスたちの向こう側にいる。もし今、魔法が完成すれば……
「ミオっ! アカリっ! いますぐ――!」
騎士の詠唱は破滅への秒読み。それが唐突に、途切れた。プリスは頭上を振り仰いで叫ぶ。
「やめろ――っ!!」
それは届かない。
天井が裂けた。視界の上から下へ、奇妙にゆっくりと裂け目が入っていく。そこから漏れ出る赤血色の、どこか不吉な光。続いて姿を現したのは巨大な刃。魔法で産み出された殺傷力そのもの、王を破滅させるため、ただそのためだけに紡がれた魔力の神髄――。
巨大な刃はプリスの真横を通過した。
轟音。教会全体が真っ二つに割れた。そして、そのまま、滑落する。刃を挟んだ向こう側が下へとずれて落ちていく。壁が。散らばった瓦礫が。視界にあるもの何もかもが、冗談のように下方へとずり落ちる。まるでプリスだけが動いている世界から取り残されてしまったような錯覚。
滑落する視界はしかし、唐突に消し飛んだ。
青空が目に入る。向こう岸に、街並みが見える。
プリスと向こう岸の間には、何も無かった。
この街に「岸」などというものはなかった。たった今、騎士の魔法によって、創られたのだ。
プリスは呆然と生まれたばかりの奈落を覗き込んだ。ありえない程の破壊の力。騎士の振るう魔法の極み。
これが、血に宿る魔力。
大きな震動。こちら側まで崩落が及び始めたと知り、プリスは慌てて奈落の縁から離れた。
「プリス……!」
ミオが必死の形相でプリスのことを呼んでいた。アカリも一緒だった。三人ともが無事であった幸運に、プリスはほっとする。
彼女たちのもとへ辿りついたのと殆ど同時に、本格的な崩落が始まった。崩れかけた柱に必死にすがりついて、ミオの名を呼んで、皆が助かるようにと必死で祈った。
地面と建物が擦れる轟音。不規則に体を打ち据える激震。悪夢のような滑落。
耐え切れなくなって、プリスは声の限りに叫んだ――。
崩落が止まった後で、改めてプリスとアカリは自分たちの母を探した。
しかし結局、二人とも見つけることができなかった。
プリスの母も、アカリの母も、騎士が創りだした奈落に飲まれて消えてしまったのだ。
――三年経った、現在。
プリスたちが遭ったこの災禍は、中心となった吸血鬼の王の名から取って、〈ロード・レーヴァの禍〉と呼ばれるようになった。
それは人にも、物にも、そして大地にさえも消えない傷痕を残した大災禍として、恐怖と共に人々の記憶に刻まれている。