第1話 鍵
野生の草食動物はいつ外敵に襲われてもおかしくない過酷な環境で睡眠を取る。
そのため神経は危険を察知できるよう常に研ぎ澄まされており、万が一の事態にも対処できるそうだ。
それが頭にあったからというわけではないが、目覚めるとすぐオレは草食動物のように身構えた。
ここ数日、起き抜けにバカ明るい声で「おは~」と挨拶されたり、勝手にスマホを操作され、よからぬサイトに登録されていたり、真夜中のブリッジウォークに驚かせられたり、と散々な目に遭ってきただけに、目覚めと共に警戒する癖がすっかり板についてしまったからだ。
しかし、拳を胸の前に構え、「さあ、どこからでもかかって来いよ」と意気込んだものの、いつまで経っても部屋は静寂に包まれたまま。
理想通りの平和すぎる穏やかな朝にどことなく物足りなさを感じながら、体を起こすと、ベッドの脇に背を持たれている真之助の横顔が目に入った。
珍しく眠っているようで、スースーと静かな寝息をたてているから、オレは拍子抜けをしてしまった。
守護霊は寝ないはずではなかったか。となると、これは職務中の居眠りであり、怠慢だ。思わず頬が緩む。
しめた。これは日頃の仕返しをする千載一遇のチャンス!
突然、「わっ!」と大きな声を出して、真之助をビックリさせて起こしてやろうと考えたのだ。あとで真之助に文句を言われても「職務中の怠慢だ、掟破りになるよりマシだろう」と言い返せばいい。
名付けて、「真之助ビックリ大作戦」だ。
しかし、真之助の耳元にそっと忍び寄り、声帯を開く寸前で、作戦は急遽中止になった。
真之助の寝顔を見ているうちに、ひとつの違和感に捉われたからだ。
陶器のような滑らかな肌、長い睫毛、筋が通った鼻、引き締まった口元。
こうして黙っていると真之助は本当に端正の取れた綺麗な顔をしている。全てが一流の芸術家によって手掛けられた美術品のように整っているのだ。
どういうことだ──?
ベッド脇に置いてある小さな手鏡を手に取って覗き込むと、見慣れた自分の顔が写し出される。母さん譲りのどんぐり眼、低い鼻、厚くも薄くもない唇……。
おかしい。
美しくない。
どこにもイケメンの要素がない!
そればかりか、真之助と似ている部分がないのだ。
オレは本当に真之助の子孫なのだろうか?
今になって初めて自分の体の中にイケメンの血が引き継がれているのかどうか疑わしく思えてきた。子孫であるならば、そっくりとはいかないまでも、顔立ちに多少なりとも似た雰囲気を持っているはずだろう。しかし、真之助とオレは似ても似つかない。
もしかすると、オレは病院で取り違えられた子供ではないか。
そんなバカなことを考え始めたところで、真之助の瞼がパチリと開かれた。
「何、人の顔をジロジロ見ているのさ」
「……い、いや、別に」
「真は嘘をつくとき、動揺して言葉をつかえるからすぐにわかるんだよ」
「つ、つかえてなんかねえし。さーて、支度でも始めるかなー」
動揺を誤魔化すために、スマホをチェックし、ベットを降り、窓辺の植木鉢を確認した。
植木鉢は相変わらず芽が出ておらず、落胆しそうになったが、昨日、花屋で液体肥料を買ったことを思い出して、勢いを取り戻した。
早速、アンプル型の容器を逆さにして、説明書通り土に挿し込んでみる。が、なかなか上手くいかない。
「土が固まっていて、全然、挿さらねえんだけど」
「これじゃあ、芽も出ないわけだ。ガーデニングマスターの千代からアドバイスをもらったら?」
「ばあちゃんに聞いたら、土の話にかこつけて、長々と説教されるのがオチだよ。そこは回避するところ!」
思い切り土を強く叩くようにして容器を突き刺してみると、卵にひびが入るかのように、パッカリと土が割れた。割れ目からは朝日を反射させる銀色の何かが顔を覗かせている。隙間に指を入れ、ほじくり出してみるとそれは──。
「「鍵だ」」
何の変哲もないただの鍵だった。
手のひらにすっぽり収まるサイズのスマートな作りは自転車やロッカーの鍵と遜色ないが、オレたちは物珍しい昆虫でも見るように食い入った。
「植木鉢から鍵が出てくるってどういうことだ? じいちゃんは花の種を蒔いたつもりが間違って鍵を埋めたっていうのか?」
「孝志君は真と違って、そんなドジじゃないよ。彼が死ぬ前日に真に植木鉢を託したんだ。ということは」
「わざわざ、植木鉢の中に鍵を入れてオレに預けた……?」
推測を口にしてみたが、どうもしっくりこない。
じいちゃんが植木鉢の中に鍵を仕込むとは考えられなかったのだ。鍵を預けるのならば、直接オレに「ちょっと預かっておいてくれ」と伝えればいいものを、敢えて手の込んだ方法を選び、鍵を手渡そうとした。それを知らず三年間も植木鉢に水をやり続けていたとは滑稽ではないか。
「一体、どこの何を開けるための鍵なんだ?」
疑問符が脳内を埋め尽くし、思考が停止する。まるで、解けない数式の前に立ち尽くした数学者の気持ちだ。白旗を上げて唸るしかない。
「じいちゃんは、ばあちゃんに言えないものを隠していたんじゃねえだろうな。だから、ばあちゃんには内緒でオレに預かってもらおうとした」
「例えば?」
「野暮なことを聞くんじゃねえよ。エロ本に決まってんだろ」
思いついたままを口にする。ばあちゃんに秘密にしたいものと言ったらこれしかない。強く確信する。
「孝志君は持ってないと思うけど。そういうのは真みたいにベッドの下に隠すものなんじゃないの?」
「持ってねえし、そんなもの」
「それじゃあ、ここに隠してあるものは何だろうね。友人A君から借りたくせに」
「あれはあいつに無理やり持たされたんだよ!」
猫じゃらしに飛びつく猫のように柔軟な動作で真之助はベッドの下に上半身を潜り込ませた。必死にやめろと制止するが、暖簾に腕押しするより手応えはない。真之助の体に触れられないからだ。霊力を消費していない幽霊は無敵。
今のオレにはもう一度、真之助をぶん殴る機会に恵まれたいと願うしかなかった……。
※ ※ ※
ひとまず鍵は植木鉢の中に戻すことにした。
故人の遺志を尊重して、ばあちゃんにはまだ話さないでおくと決めたのは真之助と相談の上だ。
身支度を整え、リビングに向かうと、ちょうど父さんと加奈が一緒に家を出るところだった。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おはよう」
加奈の表情は晴れやかで、オレに向けるどんぐり眼に心なしか陽性の色が差しているように見える。
「あたし、夕方は部活があるから朝のうちに警察署に行って、事情聴取を受けることにしたから。お兄ちゃんはどうするの?」
「オレは放課後に行くよ。ホームルーム前にやらなきゃならないことがあるからな」
今日は友人Aが登校するはずなのだ。昨日、友人Aと藤木さんと三人で会ったとき、別れ際、「明日はちゃんと学校に行く」と約束を交わしていたのだった。
いくら孤高の一匹狼を気取っている友人Aであっても、泥棒疑惑をかけられたのだから、教室のドアを潜るには勇気が必要なはず。オレは友人Aを迎えてやらなければならない。できれば、あいつが教室にやって来る前に、クラスメイトたちの誤解も解いておきたい。
加奈は顔の横で小さく手を振った。
「行ってきます」
「おう」
兄妹としてごく自然に笑顔と言葉を交わせるのが、こんなにも嬉しいとは。
「いい兄妹じゃないか」
加奈が玄関ドアを閉めると、オレの心境を最初から見透かしていたような顔をして真之助がからかってきた。
「うるせえな」
オレは耳に熱を感じながら、憎まれ口を叩くことしかできない。兄というものは往々として生物学的に不器用な生き物なのだ。
そして、朝食を取っていたときに、ちょっとした出来事が起こった。いや、起こったというより、すでに起こっていたといった方が正解なのかもしれない。
コーンスープの湯気が躍るのをぼんやり眺めながら、いちごジャムをたっぷり塗ったトーストを齧る。
頭の中はじいちゃんに託された鍵のことでいっぱいであったから、つけっぱなしのニュース番組など眼中になかったし、鼓膜が音を拾うこともなかった。
だから、真之助がオレの腕を揺すり、テレビを指差し、「あの人!」と息を詰めるように言ったときは、思考の世界にどっぷり足を突っ込んだ状態であったから、すぐに反応できなかった。
「ほら、一昨日会ったサラリーマン風の男だよ」
「芸能人? 不倫騒動?」
「違うったら。スウェット姿だけど、間違いない」
容疑者を警察署から検察へ移送する際の映像のようだが、背を丸め、たどたどしい足取りで歩く男は撮影しているカメラに気がつくと、慌てて視線を逸らした。
その表情がどこかで見た顔だと記憶を手繰り寄せている最中に、真之助が正体を暴いた。
「成瀬さんのパパ活の相手だ」
テレビの中の男は髪の毛の乱れが目立つが、確かに一昨日、成瀬さんと待ち合わせていたサラリーマンだった。
軽薄で甘い言葉を紡ぐために生まれてきたような薄い唇と馴れ馴れしい物言いを思い出し、飲み込んだばかりのパンが、湧き起こった不快感によって胃から口の中へと押し戻されてくる。
男の容疑はSNSで知り合った女子高生を都内のホテルに連れ込んだあと、首を絞めて暴力を振るったとのことらしい。女子高生は間一髪のところを逃げ出し、警察に通報して事件が発覚したとアナウンサーは伝えていたが、驚くことに男は桜並木市からほど近い近隣の市議会議員であった。警察は余罪も視野に入れて捜査を続けている──。
もしも、被害者が成瀬さんであったら、どうなっていたのだろうか。
『守護霊は生前の死因で生じたトラウマによって、お付き人を守り切れず、死なせてしまうことがある』
おいねと真之助から聞いた話を思い出した。
ようやく、寿々子さんが真之助に助けを求めた理由が腑に落ちた気がした。