異世界は楽園である
異世界転生というものをご存じだろうか。
主に若者に支持された現代の小説の一つの形である、ライトノベルで主題として使われる事象。主人公がこの世界とは異なる世界に転生し、大抵のものがその世界で可愛い異世界美少女を連れて無双していくというものを主軸に扱ったストーリー。
異世界を題材に扱う作品と見るならば、それ自体は和製英語のような響きのライトノベルという言葉が知れ渡る前から存在した。例えば魔法なんかを題材に使うものならばハリー〇ッターなんかの作品を主とした作品など。
だが異世界転生のそれとは違う。大抵駄目な主人公が、異世界に飛んで、美少女ハーレムを築き、はじめから存在したレールを進むようになんやかんやで最強になる物語。もちろんそれがすべてというわけではないのだが、大抵の場合こうだ。現実逃避、という思考がそこへと滲んでいるようにも感じられる。
俺もそう思っていた。異世界転生すれば美少女ハーレムが築けてさいきょーになれるという概念的な考え方。異世界に転生することが出来れば、現代の画期的な知恵を活かして数多の民衆から甲高い歓声を全身に浴び、ぱっとふわっと覚醒したチート能力を使って美少女にモテまくり王様にも認められとにかく凄い存在になる。っていうのが俺の思っていた異世界転生。
しかし実際にはそうではなかった。俺は異世界転生できたことにはできたんだ。夢にまで見た異世界転生。俺は胸に希望を抱いて転生初日をとくになにもせずに空を眺めながら過ごした。なにもしないでも勝手にイベントが起きると、甘い甘い考えを持っていた。しかし今現在。希望していたはずの勇者にはなれずにまさかのスライムと同じレベルとなっていた。
何故そんなことになっているのかって?自分でも聞きたいほど今の状況がわかっていません助けてくださいどこかのだれか。
俺は転生初日、さっき言った通り、なにもせずに空を眺めて過ごした。美少女邂逅イベントが発生するのを延々と木陰の冷たい石階段で延々と尻を冷やしながら座って待っていた。しかし誰一人美少女らしい美少女は現れず、日が暮れ始めてようやく頭も冷えてきたころに気付いた。そもそもなにもせずに美少女が現れるわけないじゃないか、と。
冷静になった俺はその時にはじめて時が動き出したかのように様々なことに気付いた。まず、俺はこの世界に来てからほとんど移動していなくて、現在地は大きな商店街から少し離れたまったく人通りがない裏路地のような場所であること。もはやこの世界で生きれるかどうかすらわからないということ。そしてもう一つ...思いの他空腹状態であるという事だ。
アドレナリンだかなんだか知らないが、転生のことで興奮しているときは、空腹なんて気にもしていなかった。しかし心が落ちついときにはとてつもない空腹に襲われていて、長距離の移動は絶対に無理だろうと確信した。
餓死や物乞い考えたその時、鼠色の高い石造りの建物に囲まれた薄暗い路地の中で、ぽつんと目の前の壁に貼られたいた張り紙に俺の目は釘付けになった。その時の俺は冷静になってはいたものの、過度な空腹状態からか、張り紙の一部分だけに目を通して決断を決めてしまった。張り紙に書かれていた内容はこうだ。
「企業戦士募集。職に困った戦士よ、いまこそ集え。」
不覚にも当時の俺はその一文と、隅に小さく注釈として書かれていた「食事は出ます。」という文章だけでその募集に応じることにしてしまったのだ。その手段しか生きる術が見つからなかったとしても、今現在となっては後悔している。
そして張り紙に記載されてあった地図をもとに募集されていた場所に辿り着いた。幸いそこがもといた場所から近い場所でなんとか体力が尽きる前に辿り着くことが出来たのだが、そこはまるで地獄絵図だった。まるで人間と思える存在がいない、魑魅魍魎だけの世界。大きく開けていて月明りに照らされていたが、余計にそれが不気味でこれまでにないほど鳥肌が立った。竜人に豚人、スライムまで様々な種族が密集していて、8割ぐらい意識がどこかに飛んで行っていた。いや消え去っていたのほうが表現としては正しいのかもしれない。
そこからはよく覚えていない。いつの間にか一人牛なのか馬なのかよくわかない怪物に牽かれる乗り物に乗らされて、全面石レンガ造りの視界に収まらないほど大きい城に連れられていた。うーん。死を覚悟しました、はい。
その後ロビーらしき開けたところで集会のようなものがあった。人数は大分減っていたがやはり多かった。そしてあいかわらず人間の姿はなかった。その場は一瞬にして品の無い笑い声が飛び交う無法地帯と化す。もしかしなくてもさきほどの集合場所の方がまだ静かで落ち着いていただろう。おかげで飛び去っていた意識が一瞬にして戻ってきた。
そこで流れのままに運営らしき亜人の話を聞いていると...周りの喧騒やらなんやらでうまく聞き取れなかったが、どうやら領地警備の話らしい。聞く限り福利厚生は大分整っているようで、生活場所と食料は少なくともあちら側がご丁寧に用意しているらしいです。近年稀に見る優良企業かもしれない。しかしそれでは疑問が生じる。これだけの人数いるっていうのに、大丈夫なのだろうか。なにが心配かって、居住区の心配だ。数百人はいるだろうに、それだけの人数が一斉に住める場所なんて...。まぁそんなこと考えても仕方がないことなのだろう。
ある程度の説明が終わると、次に警備体制に沿った分隊を組むことになった。一つの分隊につき5人という少人数編成で広範囲をカバーするというあくまで保守的な姿勢の警備だという。それにしても警備だけにこれだけの人数を短期で雇うというのはどういうことなのだろうか。なにかしら特別な理由があるのだろうが、周りを見る限りそんな考え事をしているのは俺だけだし、これも考えても仕方がないこと、なのだろう。
そして今に至る。あらかじめ説明された城から少し離れた自然を何一つ感じさせない茶色い荒地が地平線まで続くところにぽつんと建っているこれまた石レンガ造りの小さな正方形の建物へと向かった。さきほどまで待機させたれていた集会場とはまた違った雰囲気で、どちらかというと少しの休息をとるだけの休息地点のようなものだった。その建物の中には俺よりも先に四人、いや三人と一匹がいた。一匹というのは、それが人型のものではなく、いわゆる雑魚キャラのスライムだったのだ。透き通ったもち肌に弾力のある全身は、どことなく可愛らしさと懐かしさを感じさせるものがあった。
他の三人はというと、饒舌な話しぶりをみるに全員知り合いどうしのようで、それも相当仲がいいように見える。えっと、これはボッチフラグがビンビンですな。まぁ慣れてるからなんとかなるだろう。
何も喋らないまま他三人が部屋の中心に陣取ってわいわいと楽しそうに話しているさまを一時見ていると、きっかけもなく俺と同じようにずっと黙って部屋の隅の方の椅子に座っていたスライムが口だけ動かして話し始めた。
「貴様ら、任務中ぐらいは静かにできないのか。」
予想外すぎる声質に思わず乾いた口からなにかを吹きそうになるがぐっと堪える。ゆっくりと発せられたその声は、可愛らしいスライムのイメージとはかんっぜんに反対のもので、爽やかでさっぱりとした中性の高めの声、しかしその中には重みと圧力を感じる。スライムというよりは戦士のような声だ。
その声とどこか煽っているような口調に、言葉を発せられた張本人達は目に見えて怒っていた。
「スライム風情が竜人の俺らに生意気な態度とってんじゃねぇよ。」
三人のうち一番筋骨隆々としていて、体の要所を守るぴかぴかの鉄鎧を着たやつがスライムに食って掛かる。彼の言い方からすると、やはりモンスターでも種族によって順位のようなものがあるのだろうか。彼が言った通り、彼らは竜人だとすると名称的に圧倒的にスライムより強そうだ。強い。
一人目を糸切りに、二人目三人目と隅のスライムに向かう。全員2m以上はある高身長さんたちだから、俺から対角線上にいた0.5mちょっとのスライムは一瞬にして俺の視界からフェードアウトする。
「これはまずいのでは...?」脳裏にそんな言葉がよぎる。スライムは言葉遣いこそ強そうだったが、あの体格差と人数差では厳しいのではないだろうか。
いや普通に考えてまずいだろうこの状況は。分隊内で問題が発生したらこいつらだけでなく、間違いなく俺にも火の粉が飛んでくる。せっかく見つけた安寧の地、はじまる前に壊されるのは絶対に避けたい。
動け足、止めろ俺。なんども自分に呼びかけるが、潜在的なチキンハートがそれを厚い壁が如く阻止してくる。残念ながら俺は無力のようだ。さらば安寧の地。ごめんなさいスライム。
しかしそんな考えは、一瞬にして消え去る。鈍い破裂音と共に、目の前に並んでいたはずの三人が消え去り、代わりに赤黒い血肉と内臓が飛び交っている。視界一面が赤く染まったそのようすはまるで蝶が舞い散る幻想のように美しく、淡く儚く感じる。
視界一面に広がっていた血肉が地面にびちゃびちゃと落ちるが、俺の時間はまるで静止したように動かない。というか、脳がこの状況を理解できなかった。理解しようとしなかった。ありえない現実を前に、思考を停止していた。
「おい。」
だが、飛びかかっていた意識も恐怖の声によって戻ってくる。おそらく彼らをただの肉塊にした張本人、スライム様の声だ。いまとなっては爽やかな声ではなく、100パーセント圧力の塊のような声に息を飲む。
意識が正常に戻ると同時に、むせ返るような死臭と生々しく凄惨な光景に、食道を何かが通ってくるような感覚になる。次の瞬間、
「おぇっ...」
空腹状態もあって腹になにも入ってなかったこともあってか、ところどころ鮮血に彩られた鼠色の床に黄色いねばっとした液体が垂れ落ちる。胃酸が逆流したせいか、口の中がピリピリと痺れる。気分の悪さにうなだれたくなるが、スライムの声かけを無視することもできず、耐えて前を向く。
前を見ると、あいかわらず可愛らしい風貌のスライムがちょこんと俺の対角線上の椅子に鎮座していた。まるでなにもなかったかのように。しかし俺にはそれが恐ろしく思え、今にも逃げ出したいが、死の恐怖に足ががくがくと震えて使い物にならない。
「君は...」
スライムは平然とした口調で淡々と話す。
「運営にこの状況について聞かれたらどう答える?」
問われたが、そもそも質問の意味を理解できない。激しく揺さぶられたように混乱している頭に、もう難しいことを考える余力は残っていない。精一杯声を振り絞ろうとするが、恐怖のあまり口が震えて上手く言葉が出ない。
だんまりする俺の様子を見てか、スライムがこちらに近づいて、足元まで来る。目先三寸の距離。手を伸ばせば容易に手が届く距離。先程の三人の散り様を思い出して、恐怖が最高潮に達する。
スライムがまるで俺の心情がわかっているかのように、ゆっくりと口を開く。
「敵にやられました、だ。」
スライムが初めて感情を乗せた言葉を発する。この世の全てを舐めているような軽快な口調。
残念ながら俺の転生生活は楽なものにはならないようだ。
頑張った気