湖と翼を持つ少女
首都ロンティルトの南門から幅広の街道へ出て十分ほど歩くと、街道の脇に細い道が見えてくる。その先がジルカの目的地。
「はぁ……ついた」
細い道をさらに歩いて二十分。そこには、小さな森が広がっていた。名前も付いていない小さな森。普段から猛獣も魔物も見かけない森だったが、騎士団が定期的に行っている魔物討伐により、余計に静けさ増している。
「おっ! あったあった」
木々の隙間を抜けると、濃い水の香りがしてくる。湧き水によりできた、小さな湖が目の前に出てくる。しばらく前に行商人から逃げ出したペット探しの依頼があり、そのときに見つけた場所。
ジルカは服を脱ぐと、ゆっくりと湖に体を浸す。ピリピリとした冷たさが肌を刺激するが、島育ちのジルカにとって、こういったところで遊ぶのは自然なことであり、懐かしささえある。この森は、ここ最近できたお気に入りの場所になっている。
「はぁ……」
体に流れ落ちる水滴とともに、泥と臭いが落ちてゆく。ついでに汚れた服も洗おうと岸辺に戻ろうとしたジルカの目の前に、ふわり、となにかが落ちてきた。
「なんだこれ……羽?」
水面に浮かぶ白い羽。摘み上げようと手を伸ばした瞬間――そこに大きな影が重なった。
「なっ!?」
上になにかがいる。そして上空から急降下し、近づいてくる羽音。羽音は大きい。ということは小さな鳥ではない。魔物のハーピーか、それとも猛獣のグリフィンか。どちらにしろ危険が迫っている。
「ぶ、武器……っ!?」
腰に手を当てるが、そこにあるのは一糸纏わぬ自分の腰。服も剣も、全て岸辺に置いてある。いくら触ってもペチペチという音しかしない。
もう手遅れ。羽音は慌てるジルカの背後に回り込み、鋭いモノを背中に突きつける。
(俺はこんなところで終わるのか……騎士にもなれず、適当に生きてきただけで……)
サキや幼いセラ、ロージ、そしてサリア大陸で世話になった人々の顔が、走馬灯のように頭を駆け巡る。だが、痛みはいつまでも襲ってこない。その代わり――
「アナタ、そこの街の人間?」
――聞こえてきたのは、少女の声。
「魔物じゃ、ない?」
「むぅ! あんな下品な奴らと一緒にしないで欲しいなっ!」
「ご、ごめん」
魔物に備わっているのは、破壊衝動や食欲といった本能のみ。会話できるような知能はない。会話が成り立っているということは、背後にいるのは人間か亜人ということになる。
「剣が置いてある……この間の兵士がまたきたの?」
「兵士じゃない。俺は体を洗いにきただけだ」
「ふーん。置いてあるのも皮の鎧だし、違うんだ。だったら……」
少女はなにかを呟きながら離れてゆく。それと一緒に背中から鋭いモノが離れてゆくのがわかり、ジルカも息を吐いた。いったい何者なのかと、首を動かし背後を見る。
「……羽だ……」
上から落ちてきた羽。聞こえていた羽音。翼があることはわかっていたが、そういうことではない。視界いっぱいに広がる白い翼に、ジルカは目を奪われてしまった。
その翼の持ち主は、宙に浮かぶ少女。肩口の長さに無造作に揃えられた銀髪。肩に紐をかけているだけの白いワンピース。そして腕の代わりに、木漏れ日を受け、白く輝いているように見える翼。足は太ももの途中から節くれた硬い皮膚のようになっていて、爪先は大きな鉤爪。ジルカの背中に当たっていたのは、その鉤爪なのだろう。
「当たり前だよ。アタシ、セイレーンだもん」
「セイレーン? あの海辺に住んでて、歌で人を惑わす亜人だっていう、あの?」
「惑わしたりなんてしないよ! ……ちょっと悪戯したりはすることあるけど」
「それを惑わすっていうんじゃ……」
ジルカは便利屋をやるようになってから、亜人や大陸の魔物のことなど、サリア大陸で生きる上で必要になりそうな知識を勉強した。セイレーンという亜人がいることも、そのときに調べてある。
曰く、サリア大陸の北方にある島にセイレーンの国を造り、そこで生活をしている。近くにある国とは羽を使った飾り物で交易などしているが、歌で人を惑す能力があるためかなるべく人と関わらず生活しており、生活圏外で出会うのは稀である。
「そのセイレーンが、なんでこんなところに」
「旅だよ、たーびー。アタシ、旅をしてるの。それだけなのに酷いんだー。この間ここにきた兵士ったら、アタシが木の上で休んでたらハーピーがいるって矢を撃ってきたの!」
ハーピーはセイレーンと同じように女面鳥身なのだが、こちらは亜人ではなく魔物。ハーピーの体躯は成長しても人の子供くらい小さく、体の割合も頭が人なだけで体はほぼ鳥の姿。そしてなにより、ハーピーは全て醜い老婆の顔をしている。海辺に住むセイレーンとは違い、出現するのも山間部が多い。
「翼に人の顔だからな……遠目に見て、間違った可能性もあるけど」
「それでも、矢なんて撃つことないじゃない。アタシ、慌てて逃げ……に、げ……」
セイレーンの少女は口を何度もぱくぱくさせながら、顔を青くしている。なにを見て顔色を変えたのかと視線を追うと、先はジルカの下半身に向いていた。どうやら少女と話しているうちに、自然と正面を向いていたらしい。
鉤爪のついた足が、ゆっくりと持ち上がる。少女はワンピースな上に宙に浮いているので、ジルカの目の前には可愛らしい下着が露になっている。が、少女はそんなことは気のも留めていない。そんな余裕など少女にはない。
少女は精一杯振り上げた足を天敵へ――
「ヘェェェェェビィィィィィィィ!!!!! ピャァァァァァァァァ!!」
――ジルカの下半身へと振り下ろした。
「ほおぅっふッ!?!?」
とっさに腰を引き、ジルカは少女の鉤爪を避ける。黒い毛が数本、水面に落ちてゆく。あと一瞬避けるのが遅ければ、水面に落ちたのはジルカのなかにある生命の源を作り出す宝玉だったろう。
「あ、あぶ!! あぶなっ!! なにするんだよっ!?」
「だ、だってそこにヘビが!」
「ヘビじゃないから! これヘビじゃないからな!?」
両手で自分の下半身を守りながら、ジルカは少女へ懸命に説明する。説明を聞きながら、少女の顔は青から赤へと変わり、ジルカの顔はますます青くなってゆく。そして、物理的にも距離が離れてゆく。
「俺、なんでこんなこと説明してるんだ……」
「ご、ごめんね? その……は、初めて見たから……」
「いや、俺のほうこそ……なんか、ごめん……」
不可抗力でありジルカの責任ではないのだろうが、なぜか木の陰に隠れた少女へ謝ってしまう。急いで岸辺に上がり服を着替えるが、気まずい空気は二人の間に流れたまま。
「…………あぅ」
「………………………………弁当でも食べようかな」
目が合うたびに逸らされる。さっさと逃げてしまいたい気持ちもあったのだが、ここはジルカにとってもお気に入りの場所。逃げたら負けな気がしたジルカは、バックパックからランチボックスを取り出す。蓋を開ければ、朝に二切れ食べただけのサンドイッチ。
「……それ、食べ物?」
「そうだけど」
木の陰に隠れていたはずの少女が、近づいてくる。「へー」や「美味しそうね」などと言いながら、徐々に徐々に。
「もしかして、腹減ってるのか?」
「……ピィ」
「図星か……ほら」
ジルカは適当に何切れかサンドイッチを取り出すと、残りを少女に差し出す。
「いいの!?」
「どうぞ」
少女はジルカの近くまで寄ると、ランチボックスを受け取り、勢いよく食べ始める。
「よっぽど腹が空いてたんだな」
翼を器用に使いサンドイッチを食べる少女を見ながら、ジルカは作ってくれたメイランに感謝しつつサンドイッチに齧り付いた。