家主とランチボックス
太陽が昇りきる前の、薄紫色に染まる空。日中より冷えた空気が窓の隙間から入り込み、ジルカの鼻をくすぐる。
「……ん」
薄く目を明けたジルカはベッドから起き上がると、軽くノビをし、寝癖のついた頭を掻く。島にいたころから、日の出とともに起きていた。寝覚めが悪いわけでもないので、それだけで意識がはっきりと覚醒してゆく。
洗面所へゆくと、魔具を起動し水を桶に汲み寝癖を大雑把に直す。魔具の使い方がわからず戸惑っていたのも昔のこと。魔具がほとんどなかったヤオズ島とは違い、照明から水汲み、湯沸しまで、世間では多くが魔具で賄われている。
本日の予定は下水道の掃除。とはいえ、前日の夜に大体の準備は終えている。用意しておいた簡素な皮鎧や剣を身に着けるだけで済む。あとは着替えの入ったバックパックを肩にかけ、現場にゆくだけ。
「心配なのは、ダリアスが起きてるかってことだな」
時間にも余裕があるので事務所に寄っていこうか、などと考えながら階段を下りると、一階に野菜の入った籠を運んでいる女性がいた。
「あら、ムラサキさん。おはようございます」
「おはようございます、メイランさん。今日は早いですね」
女性はピンと上を向いた狐耳を震わせ、淡い栗色の長い髪を揺らし、にこやかな笑顔を返してくる。女性の名はメイラン=ステル。ウェアフォックスと呼ばれる亜人の女性で、ジルカが世話になっている店――金の鶏亭という料理店を経営している家主でもある。
「手伝いますよ」
「そうですか? なら、そちらの籠をお願いしますね」
廊下に置かれたもう一つの籠には、沢山の鶏肉が入っていた。店の厨房へ運ぶと、メイランは大量の鶏肉を、手早く捌き始める。今はメイランしかいない店のなかだが、夕方の開店時間になれば、料理とメイラン目当てに満員になることも多い。
「こんな時間に仕込みですか」
「ええ。今日は凝った煮込み料理にしようと思って。手間がかかるから、滅多にしないんですけどね」
「へぇ、初めてみる料理かも」
厨房の棚に並ぶ見たことのない香辛料を眺めながら、ジルカはできあがる料理の味を想像する。どの想像もしっくりとはこなかったが、美味しいモノに違いないだろう、とジルカの腹から答えるように虫が鳴いた。
「ふふっ……! 可愛らしい音」
「……すみません」
笑われた恥ずかしさに、ジルカはまた頭を掻く。
「そこのテーブルに置いてあるの、お弁当です。今日は早いって言ってましたし。多めに入ってるので、余ったらお昼にでも食べてくださいね」
「……ありがとうございます。あの、お金は」
「お金はいいんですよ。昨日の店の残り物ですから、遠慮しないで下さい。食べてもらえれば無駄にならなくて済みます。それに、また倒れられても困りますからね。ふふっ」
「は、ははっ。そうですね」
バツが悪そうに、ジルカが苦笑する。
「そうなのジル兄。あのときは大変だったの」
厨房に女の子が入ってくる。名はルイシャ=ステル。メイランの娘だが、狐耳はなく人間と同じ姿をしている。人間と亜人のハーフなのだが、その場合、どちらの姿で生まれてくるかは半々だという。
「ルイシャにも感謝してるよ」
「ならばよろしい、なの!」
「もう、ルイシャったら」
なぜだか偉そうに胸を張るルイシャに、困った顔をするメイラン。そんな二人を見て、ジルカも思わず微笑む。そして、二人に感謝する。
――約二年前。騎士選抜試合から数日後、逃げるように宿を後にしたジルカは街を彷徨っていた。だが換金した金も底をつき、空腹で行き倒れてしまう。その場所は金の鶏亭の目の前であり、介抱をしてくれたのが、メイランとルイシャの親子だった。
金もなく、家に帰ることもできずに途方に暮れていたジルカに、二人は家に住まないかと言ってくれた。もとは宿屋として造られた店なのだが、夫を亡くしてから料理だけを出す店になっており、部屋は余っているから、と。
サリア大陸で初めて一人で過ごすという寂しさと、失意のなか、ジルカは久々に人の優しさに触れた。そのことに、メイランとルイシャの前で堪らず号泣してしまったのは、ジルカにとって恥ずかしすぎる過去だった。
それから、職を見つけるまで家賃を待ってもらったり、食事を用意してもらったりと、ジルカはどうにも、この親子に頭が上がらないでいる――
「もういくの?」
「時間もちょうどいいし」
事務所に寄る時間はなくなったが、それでも南門に向かう分には問題ない。
「ん、ちゃんと家賃を稼いでくるの! いってらっしゃいなの!」
「こらっ、ルイシャ! ごめんなさいムラサキさん。いってらっしゃい。お仕事、お気をつけて」
いってきます、と二人に告げ、ジルカはメイランの用意してくれたランチボックスを持ち、裏口から外に出る。
「……っと、少し風が強いな。って、今日は地下だから関係ないか」
ランチボックスを開けると、なかに入っていたサンドイッチを二切れだけ取り出し口に咥える。残りは埃が入らないうちにバックパックへしまう。
大通りへ出ても、人通りはまだ少ない。これがあと数時間もすれば、通行人や行商の馬車で込み合うだろう。
「仕事が終わったら、お土産でも買って帰ろうかな」
甘いものがいいか、別の国の珍味がいいか。そんなことを考えながら、青くなりかけの空の下、ジルカは南門へと向かった。