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願いと決意

 部屋のなかにガラスの砕ける音が響く。酒瓶が当たった壁には茶色い染みができ、絨毯に散らばるガラス片と凹んだ壁が衝撃を物語っている。


「連絡はまだなのか! あと五分だぞ!」

「も、申し訳ありません……連絡を取っていた大臣によると、第一、第三、第四騎士団からは返答があったのですが……」

「黙れよッ! デゼンが進軍するはずの国境線は、第二騎士団が守ってるんだろ? だったら第二騎士団が動かなきゃ意味ないじゃないか!」


 ロムナスは酔いと怒りが混ざり合った赤い顔で、報告にきていた樹林騎士のあたまに真新しい酒瓶を叩きつける。頭蓋は無事でも、衝撃は相当なもの。そして隙間から入り込んだアルコール度数の高い酒は鎧のなかで瞬く間に蒸発し、酒気で目は開けられず呼吸もままならない。それでも冑を脱がないのは、脱げば余計にロムナスを刺激してしまい、もっと酷い目に合うことをわかっているからに他ならない。


「……ッッゴホ……! も、申し訳……ありません……もう一度、確認にいってまいります……」


 フラフラと部屋を出てゆく騎士を見もせず、ロムナスは三本目の酒の封を開けようとするが、ラウグに瓶を押さえられ舌打ちをする。そして庶民では手が出ないような値段の酒が、また壁に染みを作る。


「クソッ、クソッ!」


 苛立ちからロムナスの足が細かく床を打つ。ここまでは予定通りにことが進んだ。ゴブリンとオークも、まだ全滅はしていない。だというのに、失敗するはずのない最後の詰めで立ち往生している。このままではマズい。このままでは王になれない。どうにかしなければいけない。


「ロムナス……可哀想な人ですね」


 ロムナスの揺れる足が、ピタリと止まった。


「かわいそう……だと? 僕に……僕に言ったのか!! 弟と同じことを!!」


 ミリオーラの視線に、ロムナスは焦りを忘れ激昂する。哀れみのこもった目で見られた。それはロムナスにとって、大きな傷に直接触れる行為に等しい。


「かわいそうなのはお前のほうだろうが! お前があの生ゴミどもの慰み者になるのに、あと五分もない! お前が待ち望む皇帝や皇姫を助けにくる奴はどこにいる! なのに、僕が可哀想だって!?」


 机に置いてあった剣を手に取ると、そのままミリオーラへと近づく。ロムナスの目には冷酷な怒りの炎が灯っている。


「おいラウグ、その女を押さえろ。僕直々に、立場をわからせてやる。腕の一本くらいなくても、あの生ゴミどもなら関係ないだろうからな。皇姫がどんな目に合ったかを聞かされれば、騎士団も動くだろう」

「はっ……」


 床に押さえつけられ、ミリオーラの右腕に血の通わぬ冷たい鉄が触れる。どこを斬るか悩んでいるのか、それともわざと怖がらせているのか。何度も、何度も。最後に剣が当てられたのは、肘から少し下の部分。剣を振り上げるロムナスを睨み、それでもミリオーラは、決して悲鳴は上げまいと口を固く閉じる。


 襲いくる激痛をミリオーラが覚悟した、そのとき。


『ろ、ロムナス様はおりますか!』


 扉の外から聞こえてきた声が、ロムナスの暴挙を中断させた。


「チッ! 誰だ! いいところだったのに!」

『す、すみません! ですが、ミリオーラ様にどうしても会いたいと、その……』

「ああ? ミリオーラに会いたいだ? ……あー、そうか。皇帝か。時間になる前に、娘に会いたいとでも言い出したんだな? ならダメだ。却下だ。三十分後に会わせてやるとでも言っておけ」


 そちらのほうが楽しい光景が見れるだろうと、ロムナスはほくそ笑む。


『いえ、違います。会いたいと言っているのは……セルミナ様です』

「せ、セルミナだって!? セルミナは城の外にいたはずだ! まさか……!」


 城へ入るときに、背後で戦っているのをロムナスも見ていた。もしや結界が消えたのかと窓から外を見るが、結界の色は二時間前と変わっていない。


「なら、隠し通路か……警備していた騎士はなにをしていた!」

『それが、大臣も知らない通路があったようで……で、ですが、なんとか捕縛に成功しました! 仲間らしき奴らもいたのですが、そちらは別の騎士が追っております。始末するのも時間の問題かと』


 捕縛し、仲間も追われている。その報告に、ロムナスは胸を撫で下ろす。


「くそ、役に立たない大臣め! 僕が王になったら、まっさきに処刑してやる。それで、捕まったセルミナがミリオーラに会いたいと言ってきたわけか」

『はい。どうすればいいか、ロムナス様のご指示を仰ぎたいと思いまして。それに、実はもう』

『姉上! そこにおられるのですか!!』


 扉の外から聞こえてくる二人目の声に驚き、ロムナスが落とした剣が絨毯を切り裂く。驚いたのはロムナスだけではなく、ミリオーラも同じ。


「セルミナ! 本当にセルミナなの!?」

『はい! 私はここにいます!』


 聞こえてくる家族の声に、ミリオーラの頬に一筋の涙が流れる。


「こ、ここに連れてきたのか!?」

『ど、どうしても会いたいと言われまして……ご、ご安心ください。剣は取り上げ、しっかりとロープで縛ってあります』


 その騎士の言葉に、ロムナスは少し悩み、ラウグを見る。


「まさか、入れるおつもりですか?」

「……最後の余興には丁度いいだろう。どうせ新しい生贄も必要だったんだ。ただし、ラウグはなにがあっても絶対に僕から離れるな。――よし、入れ!」


 ロムナスとラウグがミリオーラを連れ部屋の後ろに下がると、ドアがゆっくりと開く。深緑色の鎧の騎士に引き連れられ入ってきたセルミナは、騎士が言っていたように後ろ手に縛られており、ロープもしっかりと握られている。ロムナスはその様子に緊張を少しだけ緩める。


「やぁセルミナちゃん。ミリオーラに話とは、いったいなにかな? それとも僕に、ミリオーラや皇帝を解放しろとかいう、バカなことを言いにきたわけじゃないよね?」

「この状況で、そこまで暢気なことを言うつもりはない。……姉上、私は姉上が亜人の慰み者になることなど、耐えられません。私が姉上に言えることは一つだけなのです」


 セルミナはミリオーラを見つめ、しっかりと言葉を発する。


「お願いです、姉上。どうか、ご自身の名誉を、ご自身の手でお守りください」


 セルミナの言う『自分の手で名誉を守れ』とは、この状況でなにを意味するのか。慰み者にならず、助ける者が現れない今、名誉を守る方法など一つしかない。その思わぬ願いに、ロムナスは虚を突かれる。


「は、はぁ? それってつまり、ミリオーラに“死ね”って言ってるのかい? 名誉を守るために死ねって?」

「姉上は生きる! ここはグラウリースの皇族が代々守ってきた城、どうかその地に身を投げてください。そうすれば、姉上は生き続けることができる!」


 真剣に、姉に向って城から飛び降りろと言うセルミナに、ロムナスは思わず笑いが込み上げてくる。どうにか我慢しようとするが、喉を震わせ吹き出してしまう。


「くひっ、はははッ! と、飛び降りろだって? 姉に向かって、と、飛び降りろだとはね! あっはっはっはっは!! お、面白いじゃないか! ミリオーラ、妹に死ねと言われた気分はどうだい? これでも僕のほうがかわいそうかい!?」


 ロムナスは目に浮かんだ涙を拭いながら、ミリオーラを連れテラスへと続くガラス扉を開ける。


「ロムナス様!」

「黙れラウグ。どうせ皇帝はこちらの手の内だ。――セルミナちゃん、次に人質になって僕を楽しませるのがキミだってことは、覚悟の上だよね?」

「姉上を解放してくれるならば、いかようにも好きにするがいい」

「くくくッ……! 解放ね。ああ、望み通り、解放してやろう!」


 五人はテラスに出ると、ロムナスは楽しそうにミリオーラを、テラスの手すりの前に立たせる。


「さぁ! あとはキミが飛び降りるだけだよミリオーラ! 僕を恨まないでくれよ? 僕はキミの妹のお願いを、叶えてあげるだけなんだからさぁ!」


 グラウリース城の上空に吹く風が、ミリオーラの髪を横になびかせる。


「セルミナ……」

「私を信じてください、姉上。姉上はこの地で“生きる”のです。これからも、ずっと……!」


 姉妹の視線が絡み合う。その視線を先に解いたのは、ミリオーラだった。手すりに手をかけ、破裂しそうな鼓動を我慢し、ゆっくりと手すりの上に立つ。


「はっ! あははははははッ! た、立ったよ! 本当に飛び降りるのかい? 怖いんじゃないの? なぁミリオーラ! あはははははッ!!」


 煽るようなロムナスの声は、もはやミリオーラの耳に入ってこない。見ているだけで平衡感覚が狂いそうな高さに目を閉じ、白い花を模ったネックレスを両手で握り、妹を思う。


「セルミナ……!」


 一歩、ミリオーラが足を踏み出す。


「姉上にグラウリースの加護あらんことを!」


 セルミナが叫び、足場のない空中にミリオーラの体が音もなく吸い込まれ――落ちた。


「と、飛び降りた! 本当に飛び降りたぞ! 人が飛び降りる瞬間なんて、僕も初めて見たよ! どうなった!? もう潰れたか!?」


 手すりから身を乗り出し、ロムナスは下を見る。見たい光景は、地面に咲いた紅い花。


 ――だが、その望みは叶わない。


「な……なんだよアレ! なんなんだよ、アレは!」


 見えたのは、白く、大きな翼だった。

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