償えないもの
金の鶏亭の風呂は、元宿屋だけあって広く作られている。騎士団の宿舎、それも貴族専用に作られた部屋の風呂には高級感で劣りはするが、メイランによりよく手入れをされた木製の湯船は、暖かな雰囲気を放っている。
「……」
天上から落ちた水滴が湯に波紋を作る。広い湯船だというのに端で膝を抱えたセルミナは、ぼうっと波紋が消えるまで見つめる。
「謝るとは、難しいものだな……」
湯に浸かっているというのに、温かさを感じられない。逆に、ますます体が冷えてゆくような錯覚に陥る。普段であれば広い風呂に足を伸ばし、一緒に入っているイルイラにセイレーンについて質問攻めするくらいはしていただろう。だが、そんな気にはなれない。
「セルミナ様は悪くないよ! 悪いのはルイシャだよ」
「ルイシャを怒ってはいない。むしろ、感謝しているくらいだ」
あのままジルカと話していたら、どのようなことを言われていたのか。そのことを考えるだけで、また体が冷えてゆく。
「……それに、少し懐かしかった」
「卵の白身をかけられたのが?」
「ああ。私が今のルイシャよりも小さいころのことだ」
懐かしい記憶。セルミナにとって、苦くも温かい思い出。
「台所でいつものように摘み食いをしようと戸棚を開けると、なかから卵が落ちてきてな。わけもわからず立ち尽くしていると、『はしたない真似ばかりしているから、バチが当たったのですよお嬢様』と後ろから現れた執事に、服を着たまま風呂に叩き込まれた」
「セルミナ様でも摘み食いなんてするんだ」
「するさ。お腹が減っていればな。あとでわかったことだが、私を懲らしめるために、執事が卵をわざと落ちるようにしていたらしい」
「それで、摘み食いしなくなったの?」
「いいや? 戸棚を開けるときに、罠がないか警戒するようになった」
そしてまた別の罠が仕掛けられ、また失敗したのだとセルミナは楽しげに語る。
「『姫ではなく盗賊になるおつもりですか』などと言われたな。まぁ、姫でも盗賊でもなく、騎士になったのだが」
「その人、セルミナ様が騎士になって怒ったの?」
「……怒らなかった。六年ほど前に、流行り病で急に逝ってしまった。死ぬ間際に『騎士を目指してみてはどうですかな? 盗賊よりはお似合いかもしれまぜんぞ?』などと言われて、悔しかったから本当になってやった」
セルミナの鼻先に、またポツリと水滴が落ちる。
「剣術の手ほどきは、幼い頃からしていた。養成学校で習うようなことも、執事に教えてもらったりしてな。頑張ったんだ……自慢したい相手がいたから。『ほら、私も騎士になったぞ? どうだ凄いだろう』とな。だから私は、そいつに自慢できる騎士でありたい。怖いのも我慢して、神話の騎士を目指して」
けれど失敗してしまった。水面に口をつけたセルミナの懺悔は、泡となって波紋を作る。もう自慢などできない。騎士として、人として、やってはいけないことをしている。
「その人も……騎士なの?」
「わからん。この国にいるのかも、な。執事は色々とコネがあったので、生きていれば探すくらいはさせていたのだが……イルイラ?」
隣に座っていたイルイラの頭が、グラリと水面に落ちる。セルミナが慌てて抱え起こすと、イルイラの顔や体は真っ赤になっている。
「世界が~~……ぐるぐる~~……飛んでるみたい~~……」
「それはノボせているのだ。まったく、長湯が苦手なら先に言えばよかろう……脱衣所まで運ぶぞ」
「うん~~ありがと~~……はね~~しぼらなきゃ~~……」
「私がやるから大人しくしていろ」
セルミナはイルイラを抱え脱衣所に運ぶと、なんとかイルイラに服を着せ、自分も用意された服を手早く着る。
「ふむ……胸回りはきついが、大丈夫か。イルイラは立てそうか?」
「ぐるぐるしてムリ~~……部屋に運んで~~……」
「子供か。まったくしょうがない。――すまない! イルイラがノボせてしまい、部屋に運ぶことになった! 誰か水を持ってきてくれ!」
厨房へ声をかけると、イルイラを背負い階段を上がる。イルイラの示すまま部屋の扉を開ける。
「ここがイルイラの部屋なのか? それにしては男臭いというか……ま、まさかムラサキと一緒の部屋なのか!?」
「ちがう~……けど、こっちの部屋のほうがいいの~~……」
「どういう関係なのだ……」
「べっど~~……ぴぅ……」
背中から降り、ふらふらとベッドに向かっていたイルイラが、ベッドの下からはみ出たなにかに躓く。
「おい、大丈夫なのか?」
「じょぶ~~……う~~ムラサキのにおい~~……」
イルイラがベッドに横になると、水分の抜けきっていない翼からシーツに染みが広がる。
「怒られてもしらんぞ」
ますます言い出せる雰囲気ではなくなってしまった。ベッドで動かなくなったイルイラに溜息を吐きつつ、ベッドの下にある躓いた原因を拾い上げる。乱暴に布で包まれた棒状のモノ。ずしりとした重さから、セルミナは武器の類なのだろうと予想する。
「おっと」
布の隙間から、一枚の朱色の面が床に落ちる。慌てて拾おうと屈むと、次は逆の手に持っていた武器を包んだ布が、適当に巻かれていたためかほどけてゆく。最後には残った布袋から、重い音を立て三界絶刀が床に転がる。
「……やってしまった」
隠していたモノを勝手に見るのはマナーに反する。見つかってしまえば、また気まずくなってしまうだろう。
「これは……剣か?」
見慣れぬ武器に、セルミナはクビを傾げる。ジルカが持っていた両刃の鉄剣よりも細く、反りがある。そして、どこか心に引っかかる。
「剣……ではない。これは……刀だ……」
見たことがないはずなのに、見覚えがある。執事が死ぬ数年前、乗っていた船が難破し、辿りついた先の島で。
『ねぇ、あれはなに? 初めて見る形だわ』
『ぼくのおとうさんが使ってた武器! 刀っていうの!』
頭に浮かぶのは、また過去の思い出。仲良くなった男の子と交わした、大切な約束。
「あ……ああああ……!」
震える喉が、勝手に声を上げる。呼吸が上手くできない。まるでノボせたように世界が回る。なのに、体の芯から冷えてゆく。
「たく、なんで毎度毎度、俺の部屋なんだよ……あっ! セルミナなにして……るんだ……」
水を持ってきたジルカは、床に落ちている鬼神面と三界絶刀を見て声を荒げるが、尻すぼみに声は小さくなってゆく。
「お、おい。セルミナ?」
泣いていた。顔を歪め、セルミナは涙を流している。
「……すまなかった。全て私のせいなのだ、私の……」
「私のせいって……わからないよ。説明してくれセルミナ」
「できない……できないよ」
ただの少女のようにセルミナは泣きじゃくり――
「ごめんなさい、ゲンシン……わたしがゲンシンを苦しめた……! わたしもロージも、こんなこと望んでいなかったのに!」
――ジルカの本当の名を呼んだ。
「セルミナ!」
部屋を飛び出すセルミナを慌てて呼び止めるが、セルミナはとまらない。
「なん……で……」
とっさのことで足が動かない。なぜ泣いていた。なぜゲンシンという名前を、なぜロージという人物を知っていた。
「セルミナが……セラなのか……?」
その答えを知る者は、部屋のなかにいない。
THE 王道
やっぱりこういうのがないとね。




