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昔がたり――平安朝篇――

堤の館にて

作者: 惠美子

      むめ女の場合


 秋の気配が深まるつれ、ここ堤の館の様子は言いようもないほどの趣ある景色を見せてくれる。池の周りの木々や、遣水のほとりの叢など、それぞれに色づいてきている。空が青く澄み渡っているのも快い。

 都大路のはずれにある堤の館と呼ばれる邸宅の、新入りの雑仕女のむめには、何もかもが目新しい。

 庭の掃除をしている弟比(おとひ)()から、炊き付けに使えそうな風で折れた小枝をもらい、厨に持っていく。

「今日は使えそうな柴はあまりありません」

 むめは小枝を決められた場所に置いた。

「解ったわ、あとは米搗きに戻って」

「はあい」

「間延びしした返事はしない」

「はい」

 厨の濱刀自姐さんから言われ、むめは厨の中での米搗き場に行く。

 堤の館は広く、大所帯だ。あるじの、堤中納言と呼ばれた祖父の代から受け継がれてきたという大邸宅である。大邸宅は大まかに四つの殿舎に区切られている。

あるじは遠い国の司をしていたというが、今は無役で、専ら館で過している。あるじは西の殿で後妻とその子供達と暮らしており、南の殿にはあるじの亡くなった長兄の息子家族、東の殿にはあるじの亡くなった次兄の息子家族が住んでいる。西の殿に増築している北西の対にはあるじが先妻との間に儲けた年かさの娘が良人を亡くして幼い娘と一緒に暮らしている。同じく先妻との間のあるじの息子――、若殿というのもおかしな年頃で、三十前らしいのだが、あるじを殿と呼ぶために若殿と区別して呼んでいる――、も北西の対に住んでいることになっているのだが、仕事と遊びに忙しいのか、帰宅は稀だ。

 静かなのは、あるじの娘が住んでいる北西の対くらいで、どこの殿も何やかやと人数が多くて賑やかだ。

 北の殿にはあるじの家族は現在生活しておらず、東西南に住まうあるじの一族の世話をするための大きな厨や縫物処があり、多くの御蔵、厩や牛車、雑舎が建てられている。

 世話をしなければならない、というか、雇い主達の優雅な生活を支える下々の者も自然人数が多くなる。役割もそれぞれ割り振られ、ここは庭の手入れの係、ここは牛馬の世話係、清掃係、衣装の係、賄いの係、水汲み、樋洗(ひすまし)と、全て人の手で行わなければいけない時代、忙しく立ち働いている。それこそ、あるじたちのように、「をかし」とか、「あはれ」なんてしみじみと感じ入ったりするいとまはない。

 むめは若い叔母が良人と共に暮らすようになって堤の館の雑仕女を辞めたので、代わりに勤めに入った。叔母が賄いをしている厨にいたので、そのまま厨に配置され、主に米搗きをしながら、あれこれと指示をされて、動き回っている。

 米搗きは、二人一組で、立杵を使って、籾のまま保存している米を搗き、その後籾殻と米とを篩い分ける。毎日の大事な仕事だ。

 むめにしてみれば、米搗きよりも煮炊きの仕事もしてみたいと思うのだが、如何せん、親の許にいた時と調理する量も違えば、食材も違う。とても新参には近付けない。

 あるじやあるじの兄弟達は、様々な国の司を務めてきたとかで、その地で得た荘園や、その当時からのつてで、かつての任国からの食物が届けられてくる。また、東の市で買い付けられてきた新鮮な食物も持ち込まれる。

 そういった食材を見たり、分け前に与ったりするのも、下々の楽しみだ。

 陽が昇る頃から暗くなるまで、下ごしらえから、調理、配膳、後片付け、と厨は追い回される。上下水道も、ガスも水道もない、気の利いた調理器具もないから、人の手だけが頼りの仕事だ。疲れた雑色達は、酒糟を水や湯で溶いて飲んだり、主たちの残りを有難くいただいたりしながら、一日を終える。

 邸宅の北はそういった下働きの雑色達が寝泊まりする雑舎がある。一応男女別れての棟や、子連れの者に配慮した作りになっている棟が設けられている。しかし、男が女の許に通う習慣の時代、女の雑色の雑舎には男の出入りが頻繁だ。

 残念ながらむめにはそんな相手はいない。むめと一緒に杵搗きをしている夏女(なつめ)には、熱心に通ってくる男がいる。そのうち、むめの叔母のように、子が出来ただの、一緒に暮らしたいだの言い出して、辞めるかも知れない。

 何故、夏女に通う男がいるのをむめが知っているのかというと、雑舎では会話が丸聞こえなのだ。

 雑舎は共同で使われている。共同の入口だけは遣戸で立派だが、あとは各々で、莚を垂らしたり、邸宅での使い古しの襖や布障子を使ったりして仕切り、個室らしくしつらえているが、それだけで、聞きたくなくも周囲の様子が聞こえてくる。

 一々気にしていては、暮らしていけない。はじめの頃は一人で休むのかと、心配になったが、隣の声や物音が聞こえて、寂しくも怖くもない。むめには、たとえ薄い仕切りでも、一人になれる空間があるだけ嬉しい。親許では仕切りも何もない作りの家だった。いや、家ではなく、小舎というものだった。

 堤の館の雑舎で与えられた空間は、寝床と少しばかりの身の回りの物を仕舞うような棚や行李を置く広さしかないが、人の目を気にせず着替えが出来る気安い場所だ。

 堤の館と呼ばれるように、この邸宅は賀茂川に近い。堤を隔てているが、川は邸宅よりも高い位置にある。大雨や野分がくれば、川が氾濫し、邸宅に濁流が流れ込む危険がある。あるじ達の住まいばかりでなく、雑舎もきちんと床は板が張られており、湿気や大水への配慮がされている。

 いい所だ、とむめは今の環境に満足している。日々の遣り繰りに煩わされずに、貴族の屋敷で働いて、時にはおこぼれに与れる。この上、男がどうの、なんてまだまだ自分には早い、関わりのないこと、と決めている。

 明け方、誰かが目覚めて起き出せば、その気配で皆が起き出すという案配で、寝過ごす心配はない。衣服や髪を整えて、雑舎を出て、井戸で順に水を汲んで顔を洗って眠気を飛ばして、仕事の始まりだ。

 貴族サマは陽が高くなってから朝餉を召し上がるが、こちらはそんな事をしていたら、力が入らない。手早く、前日の残りの飯で屯食(とんじき)を握ったり、椀に飯を盛って湯を注いだりと、各々立ち食いやら交代で食べたりしながら、仕事に取り掛かっていく。

「湯はまだ沸かしてないかい?」

「漬物も並べているから、さっさと食べな」

「足りなかったら餅を焼くから言っとくれ!」

「器は洗うんだから、あちこちに置いたままにしちゃ駄目だよう」

 牛飼童の秋丸は伸ばした髪を結わずにぼさぼさのままで厨にやってきて、包丁方の春繁や中知に怒鳴られる。毎度毎度、懲りないのか、飽きないのか。

 裁縫方の結女や苗女達は一つ所にかたまって行儀よく食べて、少しばかり片付けを手伝ってくれる。

 結構口うるさいのが、包丁方の春繁だが、面倒な輩もいる。庭掃除をしている千尋や厩の丈部は、何を勘違いしているのか、女達に受けがいいと思い込んでいる悪戯者だ。

「さきちゃん、松ちゃん、もう一つ握り飯をくれよ。可愛いんだから」 

 などと言いながら、尻を触って、悲鳴を上げさせる。千尋はこれで嫌われているとは思ってもいない浅薄者。

「むめちゃんもあと二、三年したら、いい女になるよ」

 と笑う丈部の言葉を知らぬ振りで聞き流し、余計なお世話だし、いい女になったら、あんたよりずっといい男と懇ろするわよ、むめは胸の内で舌を出す。

 雑色達の慌ただしい腹ごしらえが終わると、厨はその後片付けをしながら、あるじ達やそのお付きの者たちの朝餉の支度に取り掛かる。

 やはり前日、むめや夏女達が搗いた米を、研いで水に浸してある。その米をまとめて布で包んで甑に入れ、竈で炊き上げる。

 この炊き上げ具合が難しい。下々の者達は堅粥でいいかと、研いでそのまま水を入れて火にかけたりするが、やはりきちんと膳を揃えなければならない上つ方は強飯に炊かなくてはならない。加減を間違えると、芯が残ったり、ぱさぱさと糊化がなくなったりとお出しできない代物になる。無駄を出さないようにするのも大事な仕事だ。

 飯炊きや羹の作り方を早く覚えたい、と横目で見つつ、むめは米を搗く。

 朝餉の膳をお出しして、食べ終わる頃を見計らって膳を下げ、その後片付けと並行して、雑色達の食事となる。

 人数と手間のお陰で、ひっきりなしに煮炊きや、配膳、洗い物が繰り返される。季節ごとに仕込みのやり方に変わりはあるが、日々大所帯の食事の世話をするのは同じだ。

 秋の時期には、邸内や近郊の畑で採れる野菜の種類が豊富だ。茄子や瓜が入ってくるし、そろそろ大根に茸の美味しいのが出始める。日々の食事とともに、冬に備えての食料の保存も抜かりなく進めなくてはいけない。荘園からの届け物や、市からの購い物で既に干して保存用になっているものもあるが、それを醤や香りのある菜で風味を付けて加工し直したり、蔬菜や野草を干したり、塩や辛酒で漬け物にしたりする。

 それをまた、蔵の鈎取に頼んで蔵を開けてもらい、保存の食材を積み込んでいく。

 自然、むめ達厨で働く者たちの手は荒れる。荒れたまま仕事は続ける。灯油に使う菜種油を手に擦り込んで手入れするが、なかなか綺麗に治らない。傷になれば塩や酒を染ませたりする。痛いが、それくらいしか知恵がない。荒れた手をさすりさすり仕事をする。

 夕餉は日が暮れる前にお出しする。膳を下げ、特に酒や肴を求められなければ、器の片付けや翌日への仕込みと火の始末で、厨の仕事は終わりとなる。

夕餉の後片付けを終えたあと、むめは夏女や三子と厨でお喋りをしていた。

「この頃は、中の姫君の所に義理の息子がよく便りを寄越すっていうじゃないか」

 中の姫君とは北西の対に暮らす、あるじと先妻との間の娘だ。大君と呼ばれるべき長女は若い頃に亡くなったそうだ。

「義理の息子がどういう用事なんだろう。中の姫さんの背の君が亡くなったのは三、四年も前なんだから、今更形見分けもご機嫌伺いもないだろうに」

 むめはよく解らないながらも、あるじ一家の人間関係を覚え込みたくて、耳を傾けている。むめは三子に尋ねてみた。

「その義理の息子というのは幾つくらいなの? もう冠は付けているの?」

 むめの質問に二人はからからと笑った。

「やだねぇ、義理の息子と言っても中の姫さんと同じくらい。若殿とおっつかっつよ。姫さんの背の君ってのはあるじ様のお友達だったっていうから、親子くらい離れていたのよ」

 むめは目を丸くした。

「ええ、何ですか」

「何ですかって言われても本当のことだわ」

「はあ」

 三子姐さんは婀娜っぽく笑って続けた。

「義理の息子ったって三十そこそこの男盛りがさ、父親の女だったとはいえ、同じ年頃の中の姫さんに何の用があるっていうの」

 むめは三十くらいという中の姫君の顔を見たことはない。

「妹のちい姫様を気に掛けているのじゃないの?」

 また二人は笑った。今度はからからとではなく、くすくすと含み笑い。

「まあ、まだ世の中を素直にみているじゃないか。こっちはすっかりひねくれちまって、恥ずかしいよ」

 三子が言うと、夏女も相槌を打つ。

「見習わなくちゃあ」

 からかわれているのだけは解り、むめは面白くない。

「何ですよう、いくらあたしがまだ子供扱いされるような身だからって、そんなに言うのはひどいですよ」

「悪い悪い」

 と三子が手を振った。

「背の君が亡くなって、喪も明けないうちから言い寄る男がいたんだもの、義理の息子とやらも、うちの中の姫さんの顔を拝みたいと思っているんじゃないかねってね」

 男が気にする女というものか。

「あれまあ、あたしは中の姫君の顔を拝んだことはないけど、お綺麗なんですかね?」

 今度は夏女が手を振る。

「やだわ、わたしらだってよくは知らないわ」

「そうよ。あたしらはあるじ達の目に付かないように勤めているのだから」

 ふと、むめは真剣になって考えた。

「中の姫君は三十くらいなんですよね」

「そうよ」

 庶民で三十くらいとなれば、出産・育児や労働で、くたびれた様子が顔にも体にも出てくる。中の姫君はどうなのだろう。貴族の姫君となれば屋敷の奥にいて、日に当たらなければ、体を痛める労働もしない。生活の疲れが出ることもないのだろう。もしかしたらいつまでも若々しくしていられるのかも知れない。

「あたしらと、お姫様は違うものだと思っていればいいんですね」

「そうそう、言い寄られるうちは立派な女」

「あたしらはあたしらの食い扶持だけ考えていればいいのよ」

 三子や夏女の姐さん達とのお喋りは面白い。むめに色々なことを教えてくれたり、お下がりをくれたりと、荒っぽい所もあるが、優しい先輩達だ。

 そこへ、声が掛かった。

「申し訳ないが、白湯をもらえないかい?」

 若い男の声だ。三人して顔を見合わせる。

 遣戸をそっと開けて、若い男が顔をのぞかせていた。

「驚かせて悪い。主人のしのびの供で来たんだ。怪しい者じゃない」

 二十歳前くらいの、精悍な容姿の男だ。

 一番年上の三子が応対した。

「おしのび?」

「そうさ、ここの北の対においでの中の姫君に」

 三子はじっと若い男を観察した。着慣れない水干姿をしている。

(との)殿(もり)のすけ様だったっけ?」

「いや、それは前。今は式部丞様」

 三子は、夏女とむめに肩をすくめながら伝えた。

「義理の息子の隆光様だよ」

 あらまあ、と声が漏れそうになった。女達の好奇の目を無視するように、男は言った。

「大当たり。ところで、白湯を恵んでくれるのかい?」

「火を落としたばかりで、(ぬる)いけど、いいかしらね」

「構わねぇよ。喉が渇いたんだ」

 三子は椀を取って白湯を注いで、若い男に渡した。受け取りながら、男は女達の手元を見回した。

「姐さん達は酒かい?」

「まさか、酒糟を溶いただけ」

「へぇ、いいねぇ」

「お兄さんはどうだい?」

「俺ぁいいよ。主人が帰るときに酒臭いといけねえ」

「お堅いね」

 三子のからかいを適当にあしらって男は白湯を飲み干し、椀を返した。若い男は夏女やむめに視線を向けた。むめは予想もしない無遠慮な目にドキリとした。こいつも千尋や丈部と同類なのか。しかし、男はにやけた愛想を振りまかなかった。ごく真面目に告げた。

「また寄らせてもらうかも知れねぇから、よろしくな」

 若い男は出ていった。

 三子も夏女もむめも、遣戸が閉まるとわっと声を上げた。

「また寄らせてもらうかもだって!」

 恰好を付けた物の言い方に、嬌声を上げたくなるのも無理はない。退屈な日々の中でのちょっとした面白い出来事なのだ。

 長女(おさめ)の濱刀自姐さんが何事かと顔を出した。

「まろうどがいらっしゃっているし、夜なのだから静かにしなさいよ」

 はあい、と三人とも濱刀自に返事をして、後片付けと、もう一度火の始末を確認して、雑舎の各々の寝床に入った。

 次の日も同じようにむめは夏女と米を搗き、米を研いだ。夜の片付けの後、残り物のお下がりをつまみながら、またお喋りをしていた。

「邪魔するぜ」

 と、昨夜の若い男が顔をのぞかせた。

 あら、きのうのお兄さんかい、と三子が声を掛けた。

「入りなよ。また白湯でいいのかい? 水菓子のお下がりがあるけど、嫌いじゃなかったら、一緒に食べようよ」

 夏女が少し驚いたようだが、抗議の声は出さなかった。むめは驚いたのか、期待どおりなのか、自分の胸の内がよく解らなかったが、三子に従った。

「いいのかい?」

 若い男が遠慮がちに近付いてきた。三子は梨を並べた皿を差し出し、男は一切れ梨を取った。

「日が落ちてからの水菓子は腹に悪いと言うけど、まだまだ暑いし、白湯を飲んでいれば体も冷えないよ」

「そうさね」

 女達に囲まれて居心地が良くないのかも知れないが、気にしていないように、男は果物を口にした。

「姐さん達は仲良し組かい?」

 三子が答える。

「まあね、この娘は新入りだから、いろいろと教えてやっているところなのよ」

 三子がむめを顎で指した。むめは急に向けられた男の視線に慌てた。男はじっとむめを見詰めている。

「姐さんはここへ来てどれくらいになるんだい」

「えっ、あたし? まだ一月にもならないわ」

 男の視線が和んだようだった。

「へえ、俺も新入りだけど、主人の馬に気に入られて、馬の口取りだよ。お互い務めに励もうや」

 案外頼りなげな言葉を口にするものだ。むめは微笑んだかも知れない。

「そうね」

 男ははにかんだように見えた。

「俺のことは雀と呼んでくれよ」

 そう言われても、こちらは名乗る気にならない。三子や夏女も同じのようで、これからもよく来るのだろうから、よろしくね、くらいしか答えなかった。

 雀と名乗る男が去ってから、また三人でかしましく喋っていた。

「自分の主人がここによく来るようになったら、自分も馴染みの女を作っておこうとしているのよ。若い男の思い付きそうなこと」

「だからって式部丞様と、うちの中の姫君がどうにかなるなんて有り得ないと思うわ」

「いくら年齢が同じくらいといっても、良人の息子でしょ」

 気が済むまで喋っていると夜が明ける。眠気を感じはじめて、三人は雑舎に入って休んだ。

 それからしばらくして、昼が過ぎ、夕餉の支度の打ち合わせをしていると、北西の対の長女(おさめ)の播磨から、今日は北西の対で殿と若殿が中の姫君と一緒に食事をするので、配膳を間違わないようにと知らせがきた。

 あるじがよく昼間に、中の姫君と孫娘の顔を見に行き、世間話や学問の話をしているのは下仕えの者達もよく知っているが、若殿を交えての夕餉となると、久しくなかった。

 珍しいこともあるものだ、と厨で皆が言い合いながら支度をした。

「何の集まりだろうね」

「ほら、若殿が賀茂の斎院の女房の許に通おうとして、咎められたことじゃないか」

「そんなことならあるじ様の小言だけでいいじゃないか。中の姫君が一緒にいる必要がないよ」

「義理の息子のことかしら」

「さあ」

「それなら確かに親兄弟が出てきてもおかしくないよなあ」

 若殿や中の姫君にはお(こわ)でいいが、あるじやちい姫様には堅粥を出すことになっている。膳の運び先を間違えないようにと、対屋ごとに膳を並べ直して、盛り付けていく。

 翌々日には、また北西の対であるじと若殿と、お客様が中の姫君と夕餉を共にされるので、献立は少し立派に整えておくようにと、沙汰された。

「中の姫君の所で宴などするのかね」

「よく文の遣り取りしている女のお友達がお客様かしら」

「それなら若殿は遠慮するだろう」

「あら、それでは義理の息子さん?」

 手を休めないようにしながら、夕餉の支度を進めた。

 日が隠れそうな頃合い、膳を下げ後片付けをしていると、また厨に雀が顔を出した。牛飼童の秋丸と一緒だ。

「忙しくて、二人とも飯の食いはぐれだ。何か残っているかい?」

 雀の顔を見て三子が声を上げた。

「あら、今日のお客様って式部丞様なの?」

 雀は三子の調子に面食らったようだったが、ぼそぼそと答えた。

「そうさ。いつもより早く出ると言うものだから、こっちの腹ごしらえが出来なかった。厩で会った秋丸さんも飯がまだだというから、連れてきてもらったんだ」

 濱刀自や春繁がこちらへと手招きした。

「式部丞様がお客様なら、お供のあんたも客だよ。あり合わせになるけど、秋丸と一緒に食べていって」

 勿論、厨の者達に反対はなかった。

 框に座り込んだ二人に、飯と茸汁をよそった椀と箸を渡した。雀は申し訳なさそうに食べ始めた。

 これも渡してやりな、と春繁から焼き魚を盛った皿を渡され、むめは框ににじり寄った。

「それだけでは食べた気にならないでしょう」

 声を掛けて、むめは皿を二人の前に置いた。旨そうだ、と秋丸が早速箸でつつく。雀がむめにぼそりと言った。

「済まねえな」

「あんたも客なんだから、一応もてなさないとね」

 雀は悪びれたふうもなく、むめに笑いかけた。

「なによ」

「いや、何でもない」

 変な奴、とそっぽを向くように、むめは濱刀自の側に戻った。

 その夜は、後片付けを一通り終えたあとも、酒などの追加の指示がくるかと厨で待機していたが、その沙汰もなく、客人のいとまが告げられた。

 雀は美味かった、有難う、と言って去っていた。

「はて、義理の息子の隆光様が中の姫君と、親兄弟を交えて何の話をしていったのだろう」

 皆気になって仕方がない。あれこれと詮索して喋っていたが、解らないので、それぞれ雑舎に引き上げた。

 むめも今宵のことが気になった。これからもあの雀という男が度々ここへ来るようになるのだろうか。

 日中はまだ暑さが残るが、朝晩は秋らしい冷えを感じる。冷えで眠れなくなっては明日に差支えが出る。むめは寝衾代わりの古着をひっ被った。

 その日は、午の刻前の仕事が早めに終わり、次の仕事までの時間が空いたので、むめは館をでて、川原へ行ってみた。館は賀茂川の上流の方だから、近くの川原に見苦しい物が少ない。夏の盛りには、雑仕達が連れ立って水浴びをしに行ったりするのだから、物騒でもないだろう、と一人合点して、土手を上った。一人で川原に出るのは初めてだ。今までは、いつも誰かと一緒に出ていた。たまに一人になるのも冒険だ。

 雑草が茂った土手を上り、川に向かって下りていこうとすると、ガサガサと草の揺れるような音がする。

 むめは肝を潰さんばかりに驚いた。都大路と違って人通りがないと思って油断していた。怪しい奴や、腹を空かせた野犬ではありませんように、と目をやると、馬を連れた雀だった。

「よお」

「やあ」

 と、言葉少なに挨拶をした。雀は馬の手綱を離して、草でも()んでろと、体を撫でた。馬は雀に顔を寄せたりしていたが、もくもくと草を食べはじめた。

「いいの?」

「いいさ。馬も腹が減っているし、あとで体を洗ってやる。あんたは?」

「一休みよ」

 雀は腰を下ろした。

「あんたのとこの姫さんはなかなか難しい人らしいなぁ」

 むめも側に腰を下ろした。

「どうして?」

「いやあ、主人はいつも簀に座らせられて、中の姫さんは奥に入ったまま出てこないんだっていうんだ。必ず廂の間に取り次ぎがいて、直に話してもくれない。やっと親兄弟と一緒に廂の間で夕餉を摂りながら話が出来ると思ったら、やっぱり姫さんは奥に籠もって、取り次ぎや親兄弟を通じて話を伝えてくるだけで、声も聞かせてくれない。

 主人は嘆いていたよ。困ったなぁって」

「だいたい、何の為に式部丞様が父親の後妻さんに足繁く通ってくるの」

「主人はそこまで俺には話さないが、親兄弟も交えての話となれば、多少は中の姫さんに気があるのか、もしくは紹介したい男がいるのかのどっちかだろう」

「妹がいるのだもの、自分が新しい良人になろうとはしないでしょう」

「男と女の仲は解らない」

 知ったようなことを言う。

「奥に籠もって顔どころか、声も聞かせてくれないようでは、脈は無いんじゃないの?」

「それもそうだ」

 むめと雀は顔を見合わせて笑った。

 おや、この男と話していて、はじめて面白いと感じた。

 あまり話をしすぎてはいけないと思った。むめは立ち上がった。

「そろそろ館に戻って仕事をしなくちゃ。あんたも馬をほったらかしにしちゃだめでしょう」

「ああ、左様なら」

「左様なら」

 むめは駆け足でその場を去った。走り出す前から、胸がどきどきしていた。

 邸内に入り、厨に入る前にふと好奇心が起きて、遠回りをして、北西の対の庭の近くを通ってみた。

 また驚いた。簀に幼い女の子と、大人の女性が出てきていた。女の子は汗衫に切袴のこざっぱりしているが、仕立ての綺麗な衣装で、この姿はちい姫様に違いない。側の小袿姿の女性は乳母なのだろう。

「あのはなは? あのはなは?」

 簀から飛び出しかねない様子に、乳母はちい姫様を抱き留めながら、月草ですよ、と教えている。

 むめは急ぎ足で美しく咲いている月花を一輪手折って、簀に近付き、跪いた。

「恐れながら、出過ぎたことと思いますが」

 むめは月草を簀に端に置いた。

「つきくさ!」

 大喜びでちい姫様が花を取った。柔らかそうなぷっくりした可愛い手。

「気が利きますね。礼を言います」

 乳母は言ったが、ちい姫様を抑えるのに大変そうだ。

「さあ、ちい姫様、姫君が端近に出るものではありませんよ。花を持って中へ入りましょう」

 御簾ごしに、廂の間から涼やかな声が掛かった。

「姫、乳母を困らせないで。お花を取ってきてもらって良かったわね」

 乳母もむめも慌てた。

「中の君様、申し訳ございません」

 むめは廂の間にいるのが、北西の対の主人である中の姫君と知って、跪いたまま後ずさって、その場を去ろうとした。

「そこな者、待ちなさい」

 むめはその声に動きを止めた。

「こちらからも礼を言います。そなたの名は?」

 とっさに声が出なかった。

「中の君様からのご下問ですよ」

 乳母が促した。

「厨に勤めるむめと申します」

「厨で勤めているむめと申す者だそうです」

 中の姫君にむめの声は聞こえているだろうが、乳母は直答にならぬように言葉を添えた。おはな、とちい姫様がはしゃいだ声を上げた。

「そう。良い娘ね、これからもよく勤めておくれ」

「有難うございます」

 むめは深く頭を下げた。御簾の動く微かな音に、いけないと思いつつ、顔を上げた。膝行している中の姫君が丁度ちい姫様を抱き寄せようとしていた。乳母がそっと御簾を押さえている。はっきりとは見えなかったが、中の姫君は痩せた体形をしているようだった。三十前後には見えない色の白さ、少しも節くれだったところのない、ほっそりとした手指。

 むめはもう一度頭を下げて、勤めに戻ります、とその場から厨へ向かった。

 むめは一日不思議な想いが胸から離れなかった。

 年齢よりは若々しい中の姫君、愛くるしいちい姫様。ほんの一瞬だったが、心に焼き付いた。

 中の姫君が継息子に言い寄られたとしても、少しもおかしくないように思えた。まだ充分に女らしい瑞々しさを湛えているようだ。あの白く、花車(きゃしゃ)な手。何といってもあの可愛らしいちい姫様の母親だ。きっと美しいに違いない。

 一人娘の成長を楽しみにつれづれを過す若い未亡人に、同じ年頃の継息子。

 下らぬそらごとを妄想している自らに呆れながらも、恋物語を夢見てしまう。

 自分も恋してみたいのだろうか。

 はて。

 男女の睦言なら雑舎でしょっちゅう聞こえてくるからどんなものかは想像がつくが、口説きや語らいは、どんなものだろう。

 むめにはいまいちピンと来ない。両親の話しぶりに甘いもやさしいも感じたことがない。好きで一緒になったって、十年一日、今更好きだのなんだの言う必要がないのかしら。浮気や稼ぎのことで喧嘩ばかりして過ごすより、それが一番いいことなんだろう。

 翌朝、また夏女と米を搗き、(みの)で籾殻と米を選り分ける仕事をしていると、包丁方の中知から急に呼ばれた。

「むめ、危ねぇから早く来てくれ。米の仕事は他の奴を回すから」

 そこまで言われたのでは戸惑っている間もない。夏女に断って急いで厨の奥へと入った。

「おはな!」

 ちい姫様が、むめを見付けて歓声を上げた。

 乳母が困ったような顔をしてむめに言った。

「昨日のねえやに会いたいと駄々をこねられたのです」

「はあ」

 ちい姫様は可愛らしいし、あるじの家族だが、甲高い声を上げて騒ぐ姿は、庶民の幼児と変わらない。むめも困った。

「つきくさがこわれちゃったの」

 当然だ。月草は朝咲いて、夕方にはしぼむ花だ。それに幼子のこととて、乱暴に振り回したり、捨てておいたりしていただろう。

「つきくさ、おはな」

 はなではなく、こちらは梅なのだか、ちい姫様は覚えられないらしい。

「むめがまた月草を摘んでお持ちしますから、ひとまずご在所にお戻りください。ここは刃物や火を使う場所ですから、危ないです」

 むめは諦めるように伝えると、乳母はほっとしたようだ。

「さあさ、ちい姫様、むめにも会えましたし、また月草を持ってきてもらえるから、戻りましょう」

 乳母がちい姫様の手を引いた。ちい姫様は唇を尖らせた。

「ここで!」

「ここに月草はありませんよ」

 乳母はちい姫様をよいしょと抱き上げ、むめにお願いね、と言って、厨から出ていった。

 厨の中でむめは皆から視線を向けられた。

「昨日もちょっと言ってたでしょう。庭に飛び出さんばかりにはしゃいていたところに居合わせたから、花を摘んで渡して差し上げたって」

 清刀自が吹き出しそうになっている。

「気に入られたんだよ、羨ましい」

 年が近いから、と付け加えて、堪え切れずに笑った。

「また飛び出してこられるとこっちも差し支えるから、早く行ってきなよ」

「今日は大丈夫だから、慌てて粗相だけはしないようにね」

 濱刀自や春繁にまで言われて、むめは行ってきます、と厨を出た。北西の対の庭に回った。これがいいことなのか、運の悪いことなのか、解らないが、とにかく、ちい姫様を静かにさせなくてはならない。叢の中の月草がひとかたまりになっているところをさぐって、月草の花束を作って、簀に近付いた。

 (きざはし)の側に跪いて、人を呼んだ。

「厨女のむめでございます。月草をお持ちしましたので、こちらに置いて参ります」

 少し間を置いて、返事があった。

「花を持って簀にお上がり」

 むめは目をしばたたいた。

「いいのですか?」

「お上がりと申しつけている」

 返事は廂の間からだ。そこで花束を手渡しせよとのことだろうか。むめは怖々履物を脱いで階を上った。

「こちらへ」

 と、声がして、御簾が少し上げられた。むめはそこへ花束を差し出す。

「そなたもお入り」

 どうしたものかとまごついていると、

「疾く」

 と厳しい声が掛かり、むめは慌てて御簾をくぐった。廂の間には乳母とは違う若々しい小袿姿の女性がいた。

「中の姫君の乳姉妹の()()といいます。特別に直答を許すゆえ、そこに控えていなさい」

 ちい姫様の遊び相手でもさせられるのかと思ったが、直答とは何だろう。むめは怖くなってきた。讃容が続けた。

「中の姫君はことのほか他人(ひと)(さま)のお話を聞くのがお好きなのです。相手の身分の上下に拘らず。だから、そなたも、そこで尋ねられたことに正直に答えなさい」

 衣擦れの音がして、廂の間と奥を隔てている御簾の前で止まった。むめの知らないよい香りが漂ってくる。

「讃容、ご苦労でした。月草は?」

「はい」

 むめは讃容に花束を渡し、讃容は御簾を少し上げて、中の姫君に差し出した。

(あした)に咲き、(ゆうべ)に枯れる花なれど、今を限りと咲くいのちのうつくしさよ」

 中の姫君は扇で巧みに顔を隠しつつ、呟いた。花束は側にいるお付きの者に渡されたようだ。

「ところでむめは厨で勤めているのでしたね」

 中の姫君の言葉にかしこまりつつ、むめは讃容に向かって答えた。

「新参です。ここを辞めた叔母の櫻女に代わって入りました」

「新参ということでございます。先々月に辞めた厨の雑仕女が、この者の叔母だそうです」

 中の姫君は可笑しそうに告げた。

「直答でよいと申し付けたはずです」

 讃容は心配そうだ。

「不慣れな者のようですが、よろしいのですか」

「よい。この娘は、増長しまい」

 中の姫君は言い切った。

「桜に梅、床しい名を名付けるものよ。自らを桃の花になぞらえて歌を詠み、あの方もやさしい歌を返したくれたことも、今は昔」

 中の姫君は溜息を洩らされたようだ。これは独り言なのだろう。あの方とは亡くなった良人を指すのだろうから、この様子では再婚する気は無さそうだ。

 気を取り直したように、中の姫君はむめに話し掛けた。

「むめとやら」

「はい」

 むめはかしこまって頭を下げた。廂の間に上げられ身を置くことさえ、むめの身分からすれば有り得ぬのに、あるじの家族から直に声を掛けられ、それに答えるとは驚天動地の出来事だ。縮こまってしまう。

「新参と聞くが、初めて家族以外の許で過ごすのはいかなる心持ちであろう。心細くはないか?」

「いえ、母が口やかましい(さが)ですから、良い折に家を出られたと思っております。雑舎に休み処もいただけて、嬉しいです」

「ふむ、ともに勤める者どもとは仲ようしているか?」

「はい」

「意地悪な者はおらぬか」

 中の姫君は心配性なのだろうか。それとも悪い方に考えが傾きがちの人柄なのだろうか。むめは中の姫君の問を聞きつつ、ふと疑問を持った。

「皆、新参の者と、色々と仕事を教えてくれ、面倒を見てくれます」

「そなたはどのような役をしている?」

「米を搗いております」

 中の姫君は質問を変えた。

「雑舎で休むといっても、そなたへの割り当てはそう広くはないと思うが、不都合はないか?」

「莚や襖のお古で仕切っていますから、お隣同士、何をしているか筒抜けですけれど、それは今まで育った場所と変わりませんから、困ったなんてありません」

「何もかも聞こえる所で育ったか」

 中の姫君は感嘆したようだ。むめは讃容へ顔を向けた。失礼なことを申し上げてばかりかと、不安になってきた。

 讃容はむめの育った家のことなど説明するように促した。そんなことまで、貴族が聞いて面白い話だろうか。百姓屋だから、広い土間に竈があって、一応の上り框があって、簡単な遣戸や突き出し窓があるという説明をした。都の中の庶民の家々よりは少しは手間がかかっているのでは、むめが言うと、中の姫君はその差はどこからくると考えるのかと尋ねてきた。

「それは、実家の周りは畑や田で、雨風に負けないように建ててありますけど、都の町屋はごった返していて、きちんと建てる手間が掛けられないのでしょうし、小家が並んでいるから、多少の風も、畑の真ん中と違って平気だと思っているのでしょう」

 中の姫君は破顔なさったようだ。扇で顔を押さえるようにしている。御簾ごしにも動作や笑い声が窺える。

「讃容、愉しい娘でしょう」

 讃容は愉しくなさそうに返事をした。

「まことに」

 中の姫君は続けて、町屋の暮らしを知っているかと訊いてきた。町屋で暮らしたことはないが、町屋の出の三子姐さんから話は聞いているので、伝聞で、板の壁一枚なので、大きな声を出せばお隣同士お話が出来るから、何処に行けば旨い仕事にありつけるとか、食物の融通など相談し合うのだとか、話をした。

 中の姫君は退屈するどころか、興味津々といった様子なので、讃容がしわぶきをしてたしなめようとする。調子に乗り過ぎたかとむめは身をすくめた。中の姫君は讃容に顔を向けている。興をそがれたといった体だ。御簾ごしにも若々しいほっそりとした姿が解る。ただ顔立ちは扇の所為でむめには見えない。

「中の君様がこの者から訊きたい仰せでしたことは、下々の暮らしようではなかったのではございませんか」

 中の姫君は無言で讃容に肯いたようだった。

「勤めの手を休ませて悪かった。礼を言います」

 中の姫君はむめにそう言うと、衣擦れの音をさせ、膝行で奥の方へと下がっていった。

 むめが呆けたように見送っていると、讃容に声を掛けられた。

「厨に戻りなさい。中の姫君のこと、余計なお喋りは禁物ですからね」

「はい?」

「中の姫君とのお話はぺらぺらと喋らないこと! 解りましたか」

「はい!」

 もう沢山、と言い返したいのを堪えて、むめは讃容に頭を下げ、廂の間から抜け出し、簀を下りた。履物を履き、急いで厨に戻った。

「ようどうだった?」

 と、中知に声を掛けられたが、むめは讃容の怖い顔を思い出した。

「疲れた。上つ方って面倒臭い」

「そりゃそうだ」

 三子が言った。

「何のご褒美もなかつたの?」

「あら、そういやそうだわ」

「おねだりしてくりゃよかったのに」

 むめは溜息を吐いた。

「今更言っても駄目だよね」

「お気の毒さまだ」

「全くご苦労さん」

 口々に言い合って、むめは仕事に戻った。

 中の姫君と讃容は乳姉妹というから、二人とも同じ年頃なのだろう。御簾や、扇や袖のお陰ではっきりと中の姫君の表情が見えなかった。はじめは、どことなく物憂わしげな貴婦人かと思えば、下仕えの者への気安さから好奇心旺盛の印象を受けた。

 若いむめには、中の姫君は上品なだけでなく、下々の心を知ろうとするお優しい方だと、記憶に残った。

 夕餉の片付けが終わると、むめは今日は早々に休む、と、小梨をもらって、雑舎に戻ることにした。雑舎に向かう途中で、雀に会った。

「よお」

「やあ」

 むめは素気なく返事をして通り過ぎようとした。

「今日はもう上がりかい?」

「そうよ。姐さん達はまだ厨にいるし、包丁方が酒のお余りを飲んでいるわ」

「あんたも揃っていないと、楽しくないなぁ」

 どう答えたらいいものだろう。愛想よくするのは何だか癪に障る。

「あたしがいつも夜の片付けをしているとは限らないわ」

 左様なら、とむめは雑舎に足を向けた。こういう時の気の利いた言葉とはどんなものだろうと、迷いがあった。

 四半刻ほどして、隣の夏女が入ってきた。仕切りごしにむめに言葉を掛けた。

「むめ、まだ起きているでしょう」

 小さな灯はまだ消していない。

「ええ、どうしたの」

「雀って子、今晩も来たわよ。あんたのこと気に入っているみたい」

 むめは頬に手を当てた。

「満更でもないでしょう」

「考えてもみなかったわ」

 誤魔化しているみたい。むめは灯を消した。

「もう寝るわ」

「おやすみ」

 様々な出来事のあった一日だった。むめは仕合せな気持ちで眠りに落ちた。

 すっかり秋が深まり、月草はもう咲く時節ではなくなった。柿を干したり、栗を剥いて保存用に加工したり、甘みの物の保存の作業が続いている。

 中の姫君の許には、ちょくちょく文使いの者が訪れる。文使いの者も、決まった相手の使いではないらしい。中の姫君には文の遣り取りをしている女友達が大勢いると聞く。そんな何人かの姫君達のお使いで、色々な者が来る。

 だが、時々明らかに物持ちか権勢家の使いと思しき使いの者がやって来る。仕立てのいい、小綺麗な水干を身に付けて、勿体ぶった態度でいるから、この館のあるじよりは豊かな家に仕える家人ではと思わせる。

 配膳の係の清刀自やさき女が館中を歩き回っているので、厨の者相手にそんな話をしてくる。そんな恰好をしているから、義理の息子の所の使いじゃないよ、と。

 むめは、中の姫君が様々な話を聞き集めるのが好きな方だと知っているが、それと関わりがあるのだろうか、解らない。

 遊び人と言われる若殿が、近ごろ神妙に館に帰ってきては中の姫君と話し込んでいると、これも清刀自が面白そうに話している。ただ、何を話しているのかは聞こえないんだけど、と付け加えるのを忘れない。

 噂ばかりが流れて、むめは何故だかじれったい。下仕えの者は、あるじが落ちぶれさえしなければ何をしようと差し支えないのだが、むめは中の姫君と言葉を交わし、良い印象を抱いている。憧れている。その憧れの姫君が変な噂の種なっているのが悔しいのだ。だが、讃容から口止めされているし、中の姫君との会話を皆に伝えたところで、皆にむめの気持ちが伝わりそうにない。中の姫君の声、御簾ごしに見えた姿、香り、そこから感じ取ったお人柄をどう説明したらいいのか、むめはそのような言葉を知らない。

 また、夕方に継息子の藤原隆光が訪れてきたという。

 むめは気が塞いできた。今晩は早く引き上げよう。雑舎に急ぐと、雀にまた会った。

「良かった。あんたに会えた」

「やあ」

 むめは複雑な気分だった。

「今晩も早く上がるのかい?」

「そうよ」

「少し話をしないか」

「話すことはないわ」

「はっきりと言うなぁ」

 傷付いたような顔をするので、むめは何の話をしたいのよ、と言った。雀はあっさりと告げた。

「俺、あんたが好きなんだ」

 むめは雀の顔を見直した。

「はっきりと言うのね」

「こういうことははっきり言わないと。で、あんたは俺をどう思う?」

 むめは小首を傾げた。

「好きと言ったって、あんたのご主人がここへ来る時の暇つぶしのつもりじゃないの? あんたのご主人がここに訪ねて来なくなれば、あんたもあたしの所に来なくなる。違う?」

 雀は自信ありげに答えた。

「違うね」

 信じられるかしらね、とむめは今までの雀の言葉を反芻する。

「こればっかりは、証がどうとか言っても、先のことは解らないわね」

「先より今だよ」

 思わず、頰が緩んだ。むめは自分の心が弾んでいるのを感じた。誰も知らない先のことより、今のこの心を大切にしようと決めた。だって、自らも憎からず思っている男から言い寄られるのが、この先もあるかどうか、それこそ解らない。何といっても雀といると気持ちが和む。

「腹の足しになるものは何も置いていないけど、一緒に来るかい?」

 少し間を置いて、雀が答えた。

「ああ、是非とも」

 雀を雑舎の自らの割り当て場所に入れ、むめは二人で並んで座った。板間に蓆を敷いただけの居所だ。一人だと充分だと思っていたが、二人並ぶとやはり狭いか。よく夏女は気にもせずに男を迎え入れるものだとつくづく思う。雀もそれなりに緊張しているようだ。

「何もないだろう」

「独り者がもらう小部屋なんてどこも同じようなものさ。雑魚寝でないだけましだよ」

 むめはそっと雀を見る。気付いて雀もむめを見た。

「また名乗ってなかったね」

「ああ、教えてもらってなかった」

「むめ女というの」

「俺は、今の主人のところでは雀と呼ばれているが、もともとは次郎と呼ばれてた」

「次郎ってことは兄さんがいるの?」

「解らねぇ。物心ついた頃には他人様のお屋敷で働かされていて、親兄弟がいなかったから」

「まあ」

 作り話かはともかく、雀の時折見せる、はにかんだような表情が、そういった事情も込みで、むめには好もしく感じられた。

「あたしは近在の百姓の娘さ。叔母がここを辞めたから、代わりに来たの」

「きょうだいはあるのかい?」

「兄と姉が一人ずつ。去年虫にやられて、出来が悪くて蓄えが乏しいから、ふた親は、あたしを早く他所に出したがっていたみたい」

「家族が揃っているのも色々ありそうだな」

「そりゃあね」

 微笑し合って、手を取り、と言うところまできて、遠くから声が響いた。

「おおい! 式部丞様のお帰りだ。馬の口取り役は居るか!」

 雀は実に残念そうだ。むめはくすくす笑いが止まらなくなった。なんて間の悪い。

「あんたはやめとけって、神様が言っているのよ」

「ひでぇなぁ」

「呼ばれない時に来ればいいのよ」

 雀は真剣だ。

「来てもいいのか?」

「ええ、来てちょうだい」

 また、馬の口取りを呼ぶ声がした。雀はむめを抱き締めた。

「また来る」

「ええ、左様なら」

「左様なら」

 名残惜しそうに雀は出ていった。

 貴族の姫君なら、物憂げに一日千秋の想いで三十一文字など書き付けるのだろうが、あいにくとむめは姫君ではない。次の日も、そのまた次の日も、米を搗いて籾殻と米を箕で選り分け、他の厨の仕事をこなして日中を過し、夕方になれば仲間内で残り物をつまみながら、気晴らしのお喋りをする。やっと雑舎に入って、今晩、雀は来るかしらと、想い人を思い出す。

 涼しさが日に日に勝って、冷えでかじかみ、かさかさとしている手を温めようと擦りあわせる。

 今日は来ない。神様がやめとけって本気にしたのかしら。

 寂しいな、と誰にも聞こえないよう、胸の中で呟いた。

 次の日の夜、雑舎に入ると雀がいた。

「よお、待たせてもらっていた」

「驚いた」

「上つ方と違って、文も出せなきゃ、先触れもないからな」

「文をもらったって、字が読めない」

 むめは雀の横に座った。

「今日は式部丞様様が来ているとは聞いていないわ。休みなの?」

「そうさ。だから飛んできた」

 嬉しい、と声に出さず、むめは微笑んだ。呼び出されない時を選んで来てくれた。

 雀は真面目な顔つきだ。

「主人は中の姫さんからよい返事をもらったと言っていたんだが、お屋敷で酒を飲みはじめるだけで、お出掛けは無しなんだ。今日は出番はないよと、言われた」

「おや、お通いになる訳ではないの。それとも紹介が上手くいったってことかしら。配膳の者から、北西の対ではお客様は無く、殿と若殿がしんみりと中の姫君とお話しているようだと、聞いたわ」

「色々と準備があるんじゃないか?」

「そうね」

 若い二人はあるじ達の話をやめて、二人の夜を温かく過した。

 雀が通うようになって、冬が近づくこの頃、寒くても、温め合って過すのがささやかな仕合せと、むめは感じている。

 朝起きるが辛く、井戸から汲む水も凍みつくようだ。

 そんな中、中の姫君が近く宮廷にお仕えすると、館中の者達に伝えられた。

 左大臣家の大姫君が今上のお后になっていて、そのお后にお仕えするのだという。

「やけに立派な(なり)をしたお使いが来ていたのは、その為なのかしら」

 あれこれと噂話に花が咲く。

「中の姫君は若殿より学問が出来るっていうから」

「今は物語を書いていて、貴族の姫君連中の話題になっているそうだよ」

「お后のお側に、お伽で面白い話を聞かせる女房がいるとなれば、帝がお后の許にお渡りになられるのも多くなるだろうって、左大臣様が踏んだのだろうよ」

「確かに。今のお后様にはお子がないから」

「結局さ、義理の息子が頻繁に来ていたのって何だったのさ」

 中の姫君は左大臣家からの宮仕えの誘いを断り続けてきた。左大臣藤原道長は埒が明かぬと、ついには、亡き良人の息子や、父親や弟にまで圧力を掛けて、中の姫君への説得を続けさせた。

 家族や縁戚からも日夜言われ通しでは、中の姫君は拒み通せなかった。

 それがこの秋から冬にかけての北西の対での出来事だった。

 色めいた話題は一切なかった訳だ。

 中の姫君が新参のむめに慣れない環境に出て働く気持ちはどうかと尋ねてみたのは、宮仕えをするかどうか、迷っていたからなのだが、むめはそんな中の姫君の心の内など露知らない。

 むめは憧れの中の姫君が、帝やお后の側でお勤めをすると聞いただけで有頂天だ。晴れがましいと、誇らしい気持ちになる。

 堤の館は、途端に華やいで、まるで中の姫君がお后になるかのような騒ぎで、準備を始めた。

 中の姫君やそのお付きに者、裁縫方が大忙しで、宮仕えに相応しい衣装を整えていく。食事に顔を出す、裁縫方の結女や苗女、糸町は忙しいったらありしゃしない、指抜きをしていても手指が荒れる、とこぼしていく。同時にお付きの者や、東の殿や南の殿の親戚達も、空薫物や持参する化粧道具、扇や畳紙などの小物を新調したり、綾や唐衣などの良いものを蔵から出して、広げて見せたりと慌ただしい。

 冬の寒さが一番勝る頃、雑舎でむめは結女に声を掛けられた。結女は何やら荷物を抱えている。

「みんなには、ひとまず内緒にしていてね」

 結女はむめの在所に上がり込んで荷物を見せた。見事な縫取りや飾り紐の付いた寝衾だった。

「結ちゃん、これどうしたの?」

「中の姫君が、月草のお礼ですって。今、寒いからよかったね」

「でもどうして? 内緒って言われても困るわ」

「今、色々と新調しているから、お古をお下がりしているのよ。そのうちの一つよ。お付きの人達の分が終われば、雑色達にも回ってくるけど、これは讃容さんが他の者に取られないうちにむめちゃんに渡してやれって、怖い顔して言うから持ってきたの。みんなにある程度お下がりが回るまで、内緒ってこと」

「それなら有難くいただくけど、結ちゃんは何かもらってるの?」

「役得ってものがあるからね」

 そうか、布地や真綿を扱う仕事だから、厨とは違ったお余りに与れるのか。むめは納得した。むめの目からすれば、まだ充分に新しい寝衾があればこの冬は楽に過ごせるだろう。これを見たら雀は何と言うかしら。

 むめと結女は小娘同士のお喋りを続けた。

「雲の上の人達はどんな暮らしをなさっているのかしら」

「きっと夢のように楽しいに違いないわ」

 下々は下々の苦労があるが、上つ方には上つ方の憂鬱がある。互いに解り合うことはない。むめはただ、中の姫君の心遣いを喜び、雀との将来が良いものなるよう願うばかりであった。


中の姫君は藤原為時の二女で、本名は伝わっていない。父の姓と、父の以前の官職、式部丞から、藤式部という候名(さぶらいな)で、帝の中宮に仕えた。

 中の姫君はむめとは違い、宮仕えでの暮らしを憂きことと嘆きながらの生活だった。中の姫君の仕えたお后は、藤原道長の長女で一条天皇の中宮であり、後一条天皇、後朱雀天皇の母となった、上東門院彰子である。中の姫君は、千年のちにも残る『源氏物語』を書き綴って、女主人や帝を楽しませた。物語の登場人物の紫の上にちなみ、中の姫君は後に紫式部と呼ばれるようになった。これもむめ達、堤の館の下働きがあずかり知らぬことである。


            了


出版社の新人賞に応募して落ちた作品です。


全面改稿となると時間が掛かるので、改稿なしで投稿しました。


参考文献


『紫式部日記 紫式部集』  新潮日本古典集成

『紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集』 岩波文庫

『源氏物語』 新潮日本古典集成

『枕草子』 小学館日本古典文学全集

『竹取物語』 新編日本古典文学全集 小学館

『源氏物語』 大塚ひかり全訳 ちくま文庫


『紫式部伝』 角田文衛 法蔵館

『源氏物語 六條院の生活』 監修五島邦治 光琳社出版

『紫式部』 今井源衛 吉川弘文館

『平安朝の生活と文学』 池田亀鑑 角川文庫

『室内と家具の歴史』 小泉和子 中公文庫

『服装の歴史』 高田倭男 中公文庫

『建築の歴史』 藤井恵介 玉井哲雄 中公文庫

『奈良朝食生活の研究』 関根真隆 吉川弘文館

『平安京の暮らしと行政』 中村修也 山川出版社

『紫式部と平安の都』 倉本一宏 吉川弘文館

『「食いもの」の神語り』 木村紀子 角川選書

『庶民たちの平安京』 繁田信一 角川選書

『紫式部の父親たち』 繁田信一 笠間書院

『紫式部』 清水好子 岩波新書

『平安京のニオイ』 安田政彦 吉川弘文館

『古典植物辞典』 松田修 講談社学術文庫

『日本の食と酒』 吉田元 講談社学術文庫

『塩の道』 宮本常一  講談社学術文庫

『王朝貴族社会の女性と言語』 森野宗明 有精堂

『卑弥呼は何を食べていたか』 廣野卓 新潮新書

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― 新着の感想 ―
[良い点] 全体を通してとても丁寧で細やかな文章でした。平安朝、貴族の館での下働きの細部まで、丹念に知ることが出来て楽しかったです。むめさんのささやかな幸福を、九藤も願いながら拝読しました。 [一言]…
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