私と社長と私達の選択
一至さんと待ち合わせた後、私達は彼の車に乗り込み、しばらくの間ドライブをした。
一至さんが私の考えがまとまっていないのを見透かして、考える時間をくれたのかも知れない。
お互いにあまり喋らないまま、夜の暗闇の中、流れていく景色を眺めていると、少し気持ちが落ち着いて来るような気がした。
しばらくして、一至さんは夜景の見える場所で車を停めた。
「……気持ちの整理は出来たのか」
一至さんに問われ、私は正直に、
「……答えは出ていませんが、整理は少し出来たように思います」
と答えた。
「今日、瑞穂さんに会って来ました。一至さんとお付き合いしている事、会長が私を好ましく思っていない事を話して、瑞穂さんの話も聞きました」
「……そうか」
一至さんは、いつになく静かに、私の話すのを待って、聞いていてくれた。
「瑞穂さんと話して、周囲がそれを望むなら、本当は仕事を辞めるべきなのかも知れないとも思いました。何かを選択したら、何かを諦めないとバランスが取れない事もあるんだって。でも、瑞穂さんには、一至さんと相談して、ちゃんと2人で考えろと言われました。……だから、私1人で結論を出すのは、やめようと思うんです」
それが、瑞穂さんと話をして、今まで流れて行く景色を見ながら、思った事だった。
「今から、周囲の意見を気にして、自分の意見を何も言えずにいるようなら、一至さんと結婚したとしても苦しくなるだけだと思います。だから、私の本音を言います。私は、出来る事ならいつも一至さんの側で、一至さんを支えていたいです。それは勿論、仕事も。でも、一至さんの子供も、いつか授かりたいし、愛情を注いで育てたいです。そのためには、会長夫人……一至さんのお母様にもご協力いただく事があるかもしれません」
一至さんは、じっと真剣な目で私を見ていた。
「でもこれは、本音です。一至さんや、会長ご夫妻が皆さん反対されるなら、私の希望だけを通したいと言うのは、やっぱり良くないと思います。……私が働き続ける代わりに、例えば一至さんと会長の仲が悪くなったり、会長が真奈美ちゃんの時のようにずっと認めて下さらないようなら、私は円満に一至さんと一緒にいられる方法を……仕事を辞める道を、選びます。私は、さすがに真奈美ちゃんのような行動に出る勇気はないので……」
私が言うと、一至さんはいつものニヤリとした笑いではなく、優しく微笑んだ。
「……本音を言ってくれて助かった」
一至さんは言った。
「お前がそうやって、本心を伝えてくれたから、俺も俺の気持ちを素直に話す。俺も、出来る事ならお前に今のまま仕事を続けてもらいたい。……お前が仕事を辞めて家庭に入りたいと言うなら、その気持ちを尊重するが、お前がそうではないなら、会社に残って欲しい。そのためなら、真奈美のような実力行使だろうが何だろうが出来るものならやってやるが、それではお前が辛い思いをするだろう。……だから、ちゃんと、2人で両親の所に出向いて話をしたいと思うんだが……どうだろうか」
一至さんは、ちゃんと私に自分の考えを伝えた上で、私が納得出来る方法を選んでくれようとしている。
それが、何よりも嬉しい。
「ありがとうございます……。私は、一至さんにそう言ってもらえて、すごく幸せです」
私は答えた。
「……でも、本当に、結婚しても働きたいのは本当ですけど、話し合いをしても会長に了解いただけなかったら、私、仕事を辞める方を選びますから。会長と社長が揉めるのなんて、見たくないですから、カッとならないで下さいね。この間は本当にびっくりしたんですよ」
少し茶化すように言うと、一至さんは、
「……分かった」
と答えた後、また何かを企んでいそうな笑みを浮かべた。
「……でもな美里。実は、この件に関しては勝算があるんだ」
「勝算……ですか?」
「ああ。……だから、お前はもう悩むな。普段通り、俺の側で働いていてくれればいい」
一至さんの言う勝算が何の事なのか、その時の私には全く分からなかった。
でも、自信があるらしい彼の事を、取り敢えず信じていようと思った。
それからしばらく経った、ある週末。
私と一至さんは、会長夫妻と話をするため、2人で会長宅に向かった。
一至さんも真奈美ちゃんも既に実家を出ているので、住んでいるのは会長夫妻2人だけのはずだけれど、そのお宅は想像通り立派で、圧倒されてしまう。
「一至と美里さんが一緒に尋ねて来てくれるなんて嬉しいわ。いいお話が聞けるのかしら」
会長が私達の関係に反対している事を知らないらしい会長夫人は、嬉しそうにお茶を出してくれた。
一至さんは、いつもの猫被りの笑顔を浮かべる。
「お母さんの期待する話ではないかも知れません。でも、僕達の意思を伝えておきたくて」
一至さんが言うと、会長夫人は
「あら、何かしら」
と驚いたような顔をし、会長は、私達の話を聞きたくはないというように、そっぽを向く。
「ちゃんと、聞いて下さい」
念を押すように一至さんが言った。
今日の話は、自分に考えがあるから、任せておいて欲しいと事前に言われている。
どうか、上手く行きますように。
一至さんの事は勿論信じているけれど、不安は押し寄せて来る。
私は祈るような気持ちで、事の成り行きを見守った。
一至さんは言った。
「いつか、お母さんが美里に聞いていましたね。結婚しても仕事は続けるのかと。あの時、美里は明確な答えは出さなかったと思いますが、最近になって僕達は、その事について真剣に考えました。そして、彼女は僕の事を仕事面でも支えたいと言ってくれました。僕も、彼女が秘書として僕の仕事を補助してくれる事は心強いと思っています。それを、認めていただきたい」
一至さんは、会長に反対された事を、直接には言わなかった。
ただ、ずっと真っ直ぐに会長の事を見ていただけ。
会長は、一至さんが話している間、ずっと息子である一至さんと視線を合わさず、下を向いていた。
「……私は、反対だよ」
静かに、会長が言った。
「君達2人の時はどうとでもなるだろう。だが、子供が出来たらどうする?一至も真奈美も、子供の頃から興味を持った習い事はいくつもやらせた。それは、お前のお母さんが家でいつでもお前達の側にいて、お前達を見ていてくれたから出来た事だと私は思っているし、感謝しているよ。一至に子供が出来ると言う事は、私達の孫が出来ると言う事だ。何不自由なく育って欲しい。共働きをしなければならない経済状況と言う訳でもないだろう。私には賛成出来ない。それとも、子供は作らないつもりかね?」
会長夫人は、初めて会長の意見を聞いたはずだ。
驚いた顔で、それでも今横槍を入れるべきではないと感じたのか、黙っていた。
「子供については、いつか僕の子供を産みたいと美里も言ってくれました。勿論2人共経験のない事ですから、思っている以上の苦労があるかも知れません。思い通りに行かず、悩む事もあるかも知れません。でも、今から無理だろうと決め付けて諦める事はしたくないんです。どうしても困った時は、勝手かも知れませんがお母さんやお父さんの力もお借りして、頑張らせてもらえませんか?お願いします」
そう言って一至さんが会長夫妻に頭を下げたので、私は驚きながら、慌てて一緒に頭を下げる。
普段、こんな風に謙虚に人にお願いをするなんて事はしない人だ。
それだけ真剣に、一至さんも会長と向き合おうとしているんだと思った。
「……彼女は、どうしても働きたいと言うのかね。子供が犠牲になるかも知れないと言うのに」
会長は、私に直接ではなく、一至さんに向かって言った。
犠牲、と言う言葉が、私の胸に刺さる。
会長にとっては、私が働く事はきっと私のエゴとしか思えないんだろう。
私は違う、と言いたかった。
でも、言おうとした私を、一至さんが制す。
「美里は、お父さんやお母さんが反対するのなら、僕と2人が争う事になる位なら、その時は退職を選ぶと言いました。でも、僕が出来る限りそれを選択させたくないのです。だから、美里は悪くありません」
一至さんは、私を庇うようにして言ってくれた。
違うのに。
一至さんが悪い訳じゃないのに。
会長はそれでも、表情を変えなかった。
この緊迫が続く位なら。
それで丸く収まるなら。
やっぱり私が退職するのが1番いいんじゃないか。
そう思い始めた時だった。
「……あなた、私の話を聞いてもらっていいかしら」
今まで黙って話を聞いていた会長夫人が、ついに口を開いた。




