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私と社長と会長の望むもの

「美里、ここだが……」

 仕事中に話し掛けられて、私は

「……社長、日野、とお呼び下さい、とお願いしたはずです」

 と答えた。

 梶山社長は、

「……別にいいだろう。ここにいるのは2人だけなんだから」

 と不満気にしている。


 梶山社長と正式にお付き合いをすることになり、プライベートでの私達は、偽装の恋人同士を演じていた時と同じように、ファーストネームで呼び合う仲になった。

 でも、まだ具体的に結婚、という段階な訳ではないし、社内でもオープンにはしていない。

 何より、いつか私達の関係が社内で公になった時に、何もしていないのに社長に上手く取り入った、なんて思われないように、しっかり仕事はしていたい。


「公私はしっかり分けたいと申し上げたでしょう。いくら2人でいる時でも、いつ人が入って来るかも分かりませんし、油断して外でも同じように呼んでしまないとも限りません。せめて仕事中は、今まで通りにさせて下さい」

「……まぁいい。そういう所が気に入っているんだ」

 梶山社長は、さらりと言った。

 お互いの気持ちを確認し合ってから、彼はこんな人だっただろうかと思う位、普段から甘い言葉を囁いて来る。

 公私を分けたいと思う理由の1つは、せめて、仕事をしている時は今まで通りの態度でいないと、私もつい甘えて、仕事が疎かになってしまいそうで怖いからだ、というのは、彼には秘密だ。


 いつか、会長夫人に結婚しても仕事は続けるのかと問われたけれど、今は出来ることなら続けたいと思っている。

 彼の側で、彼をずっと支えて行きたい。

 まだ胸の中にしまったままで、彼にも言っていないけれど、もしそう告げたら、彼はどんな顔をするんだろうか。

 偽装の恋人として一緒に植物園に行った時は、私の意思を尊重して考えると言ってくれたはずだけれど、本心は分からない。

 勿論、お付き合いを始めたばかりで、結婚がいつになるかもまだ分からないけれど……何となく、それは遠くない日のような気がしていた。



 ある日、社長室でいつものように仕事をしていると、珍しい来客があった。

「やぁ、2人共。今日もご苦労様だね」

「会長。一体どうされたんですか」

 何ヶ月も会社に姿を見せていなかった会長の突然の来訪に、社長も驚いて立ち上がる。

 会長は

「近くまで来る予定があったから、ついでに渡したいものがあってね」

 と何でもない事のように言って、社長に茶封筒を手渡した。

 何かの書類だろうか。

「……何ですか、これは?」

 怪訝そうな社長の様子を見ると、彼も心当たりはないようだ。

 会長は人の良さそうな笑みを浮かべたまま、

「後で、2人で見るといい。じゃあ、私は用事があるので失礼させてもらうよ」

 と言って、部屋を出て行ってしまった。


「突然何だったんだ……」

 会長が出て行った後、梶山社長は封筒の中身を確認して、動きを止めた。

「……何を考えてるんだ……!あのクソ親父……!」

 そして、そう言うと、社長室を飛び出して行ってしまった。

「えっ……」

 私は、突然のことに驚いて、慌てて社長の後を追った。

 慌てていたから封筒の中身は見ないで社長を追い掛けて来てしまったけれど、そんなにまずいものがあの中に入っていたんだろうか。


 程なく、会長に追い付き、何がしか非難しているらしい社長が見えた。

 走って来たせいで、息が上がっている。

 近寄り難い雰囲気に、少し離れた所から2人のやり取りを見守ると、信じられない言葉が聞こえて来た。


「あんなものを渡して……美里が見たらどうするんですか!」

「先程言っただろう。2人で見るといい、と」

「あなたは僕達を別れさせたいんですか?」

「……そもそも、付き合っていないんじゃないかと、思っていたんだけどね。本当にちゃんとお付き合いをしているなら、尚更、反対しなければいけないな」

 ドクリ、と心臓の音がやけに大きく聞こえた。


「先程渡した写真のお嬢さんは、きっとお前とも話が合うはずだ。お前と結婚したら、家庭に入り、お前を支えてくれるだろう。……だが、あの秘書さんはどうかな」

 さっき、会長が社長に渡したのは。

 社長があれだけ怒ったのは。

 会長が渡したのが、お見合い写真だったからなのだと、その時私は気付いた。

 勿論、私と社長との仲を歓迎してくれているのなら、今更そんなものを用意する訳がない。

 会長が、私が社長の恋人だと紹介されてからも私のことを『秘書さん』と呼んだ、あの違和感は本物だったんだ。


「ああ、秘書さんも来たようだ。私は失礼するよ」

 私に気付いた会長は、ちらり、とこちらに視線を向けてから、その場を離れて行った。

 そう言われて初めて私が追い掛けて来ていた事に気付いたらしい社長が、驚いた目でこちらを見る。


「美里、気にするな。俺は……」

「……ここでは、みんなに見られてしまいます」

 弁解しようとしてくれた社長に、私は答えた。

 社長が会長を捕まえたのは、梶山コーポレーションの社屋を出てすぐの場所だった。

 今話していた会話の内容は聞こえていないと思うけれど、社長が会長を追い掛けて行った末に何か揉めていた、という事には気付いた人もいるだろう。

 これ以上、ここにいない方がいい。

「……分かった。ひとまず社長室に戻ろう」

 社長は何か言いたそうにしたけれど、何も言わず、社長室に戻ってくれた。



「……日野。少し、休憩時間にしよう。プライベートに戻って構わないか」

 社長室に戻ると、梶山社長は言った。

 私が黙ったままでいると、それを肯定と取り、彼が話し始める。


「さっきも言ったが、俺はもうお前以外と結婚する気はない。それは信じてくれ」

 一至さん、は、真剣な目で言った。

 彼の真っ直ぐな気持ちは、心から嬉しいと思う。

 でも。

「……会長は、そうは思っていらっしゃらないようです。以前から、気にはなっていたんです。会長は私の事を、ずっと『秘書さん』と呼んでいらっしゃいました。私が一至さんの恋人として紹介されてからも。あれはやっぱり、私のことを一至さんの恋人として認めていなかったからだと思います」

 それに多分、会長は今まで私達の関係が偽装されたものだった事に気付いていた。

 きっと、今回私達が本当に恋人同士になった事にも気付いたはずだ。

 今後、本当に私達を結婚させないために、更に会長は行動に出て来るかもしれない。


「会長は、お見合いされる方なら家庭に入って一至さんを支えてくれるだろうと仰っていました。他にもあるのかもしれませんが、会長が1番ネックに思っていらっしゃるのは、私が結婚後も仕事を続けるだろうこと……なのでしょうか」

 確かに、私はもし結婚したとしても、出来る限り一至さんの側で働いていたいと思い始めていた。

 会長は、私がそう考えるだろうことを見抜いて、好ましくないと思ったのだろうか。


「……親父は、母を溺愛していると言っても過言ではない。母は元々社長令嬢で、家庭に入って子供の面倒を見て、夫を支えることしか教えられずに育ったような人だった。嫁は、そうあるべきだと思っているのかもしれない。だが、母もお前が働き続けても文句は言わないだろう。俺も反対する気はない」

「……でも、会長はやはり、それでは駄目なんだと思います」


 一至さんは、私にどうしても家庭に入って欲しいなんて言わないのは分かっている。

 会長夫人も同じ。

 でも、梶山コーポレーションにとって、会長と社長の意見が異なる事で揉め事が起こるなんて、マイナスにしかならないと思う。

 それも、揉め事の原因が、私の事だなんて、絶対に嫌だ。


「私が、結婚を機に仕事を辞めて家庭に入る事になれば……会長は私達の仲を認めて下さるのでしょうか」

 私が言うと、一至さんは苦しそうな顔をした。

「……お前は本当に、それでいいのか」

 一至さんは、きっと分かっている。

 私が本当は、ずっと側で働いていたいこと。

 でも、それが望まれていない事ならば。

 けれどそれは……。本当にそれで?

 ……分からない。


「……社長、申し訳ありません。頭を整理したいので、突然でご迷惑お掛けしますが、明日お休みをいただいてもよろしいですか?」

 結論が出せずに、私が言うと、梶山社長は溜め息をついて、

「……分かった」

 と答えた。

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