私と居場所
「先輩、私、今月末で退職することになりました」
突然後輩の泉に言われて、私は固まった。
私は日野美里。
商社に勤める、28歳のOL。
「……ちょっと待って。何で突然?」
私が尋ねると、彼女は
「私、今度結婚するんです」
と答えた。
「彼、出来れば奥さんになる人には家で待っていて欲しいって言うし、私、どんくさくて仕事してても先輩にご迷惑掛けることも多いし……それもいいかなぁと思って」
私、料理だけは得意なんですよ、彼もおいしいって言ってくれて。
それから、聞いてもいないのに彼女は幸せそうに惚気話を始めてしまう。
いやいやいやいや、まてまてまてまて。
「……いいかなぁ、って、いいの?あなたそれで。まだ、仕事始めて何年も経ってないじゃない。まだ働きたい、とか、思わない?」
納得が行かなくて詰め寄ると、泉は私が何故そんなことを聞くのか分からない、というようにきょとんとした。
「……私、子供好きですし。旦那さんになる人も年上ですし。今結婚退職して早いうちにママになるってのも、アリかと思って……。あ、先輩には、お世話になったのに申し訳ないですけど……」
取って付けたような『申し訳ない』が、余計に私を苛立たせる。
泉は、市内の女子大を卒業して、3年前に新卒でこの会社に入って来た。
私のいる部署で、同じ事務職をしている女性は、その当時彼女を含めて3人。彼女と入れ替わりに1人家庭の事情で辞めてしまったばかりだった。
そんな訳で、彼女にはすぐに仕事を覚えてもらわないといけなくて、彼女の3つ年上の私が、もう1人よりは歳が近いという理由で彼女の教育係になった。
泉は、正直、はっきり言ってあまり仕事が出来る後輩ではなかった。
私達の仕事は、いわゆる営業事務というやつで、営業さんの代わりに彼らが商談で使う資料を作成したり、取引先からの電話に応対したり。
泉は何をするにもどんくさくて、失敗をする度に何度も代わりに謝った。
それでも、3年掛けて、どうにかマトモに1人でも仕事が出来るように仕事を教えて来たつもりだった。
それが、こんなに簡単に、辞めてしまうなんて。
しかも今時、結婚退職?
彼が家で待っていて欲しいって?
それもアリかなぁって?
「私的にはないわよって、思ってしまった私が心が狭いんですかね……。でも、まだ会社に入って3年ですよ?やっと1人で仕事が出来るようになって来たかなって思ったところだったのに……そんな簡単に辞めてしまうって。後悔はないんでしょうか」
私は経緯を説明してから言った。
私の目の前には、無垢な瞳で私を見上げ、こちらに手を伸ばしている小さな存在があった。
「……なんてね。君にはまだ難しいねぇ」
目の前にいるのは、生後3ヶ月の女の子。
勿論、私の言葉が分かるはずがない。
「……私も、妊娠を機会に辞めてしまったから。あんまり人のことを言えないかなぁ……」
私の言葉を聞いて、近くにいた赤ちゃんのお母さんが苦笑する。
赤ちゃんのお母さん、原島瑞穂さんは、彼女の言うように、この赤ちゃんを身籠ったのを機に退職したけれど、元々うちの会社で営業をしていた女性だった。
「瑞穂さんは、うちの会社で10年近く一生懸命頑張って来た人じゃないですか。泉とは全然違いますよ」
泉のことは、正直まだ納得がいっていない。
でも、瑞穂さんのことは、彼女が会社で働いていた頃から憧れていたし、彼女が退職すると聞いた時も泉の時と同じようには思わなかった。
男性に混じって営業職をしていた彼女は、泉とは違って後輩からも頼られる存在で、退職すると聞いた時は寂しくはあった。
でも、営業職で泊まりがけで出張に出ることもあった彼女が、子供が出来れば今までと同じようには働くのは難しいだろうと思ったし、ただ、お母さん業を頑張って欲しいと思ったくらいだった。
でも、泉は違う。
結婚すると言ってもデキ婚という訳ではないみたいだし、別にまだ働こうと思えば働けるはずだ。
1人で仕事をこなせるようになったとは言うものの、まだまだ理解しきれていない仕事も多い。
今退職したら、もしかするともう、社会人として働くことすらないかもしれない。
せっかく仕事を覚えたのに、それで後悔はないんだろうか。
「年齢が違うだけだよ。私が好き勝手やってるうちに婚期を先送りして、歳を取ってただけ。泉ちゃんは泉ちゃんなりに、考えて決めたと思うよ?……多分」
瑞穂さんは苦笑して言ったけれど、私はそうは思えなかった。
何でそんなに簡単に、仕事を辞めるなんて言えるんだろうか。
……正直、理解出来ないし、私が今まで教えて来たことを、無下にされたような思いだった。
「組織変更……ですか?」
そして、泉の退職を契機に、私の環境も変化することになった。
元々、泉が入社して来た時、同じ事務の仕事をしていたのは、部署の中に3人だった。
それが、約1年前にもう1人の人が異動になって、私と泉の2人でどうにか仕事を回すようになっていた。
今回の泉の退職で、私はてっきり、新しい人を入れてくれるものと思っていたのだけれど……。
課長に会議室に呼ばれ、採用の話をされるのかと思っていると、説明されたのは思い掛けないことだった。
「以前から、組織変更の話が出ていてね。簡単に言うと、うちは隣の部に吸収になる」
私の働いている部署は、社内でも他の部署とは少し違った商品を扱い、新規ルートを開拓するために作られた部署だった。
「ここ数年、色々と模索をして来たが……会社としては期待した以上の利益は得られなかった、という判断のようだ。勿論、既に取引のある取引先とは継続して取引をするが、今後は独立した部署としてではなく、営業も、隣の部署にそのまま異動し、場合によってはあちらの取引先も引き継ぐことになる。それで、事務なんだが……あちらの部署では、組織変更で取引先が増えたとしても、今の人員で対応可能だそうだ」
回りくどい言い方をされているけれど、それはつまり。
「……私の居場所は、そこにはない、と言うことですか?」
なるべく冷静に言ったつもりだったけれど、声は震えていたかもしれない。
課長は、私の質問に対して肯定も否定もせず、
「いくつか、こちらから提案出来る部署はある」
と答えた。
直接肯定されなくても、つまりそう言うことだ。
私や泉が、今まで一緒に仕事をして来た営業さん達は部署ごと異動になる。
泉は退職するからいいけれど、そこに私はいらない。
そう言えば、1年前に同じ部署にいたもう1人の女性は隣の部署に異動になったんだ。
多分彼女はこちらの仕事のことも覚えているだろうし、彼女の異動自体、こういうことを見越してのことだったのかもしれない。
課長がいくつかの異動候補先を提示してくれたけれど、今までの仕事を続けることは出来ない、そちらでは必要とされていないのだ、というショックが頭を占めて、あまり考えられなかった。
どうしたらいいんだろう。
課長の挙げてくれた候補の中からどれかを選んで、異動するのが1番いいんだろうか。
今まで、泉に仕事を教えながら、それなりに忙しく、でも、自分なりに一生懸命頑張って来たつもりだった。
新しい部署でも、同じようにやって行けるだろうか。
溜め息をつきながら自分の席に戻る。
憂鬱な気持ちのまま終業時間を迎え、携帯電話を確認すると、1件のメールが入っていた。
「美里、こっち」
待ち合わせ先の喫茶店に入ると、すぐに名前を呼ばれ、私は声の主のいる席へと向かった。
「平日に会おうなんて珍しいね。どうかしたの?」
仕事を終えて携帯電話を確認すると、彼からのメールが入っていた。
彼、山本徹哉とは、付き合い出して2年になる。
彼は別の会社に勤めている、会社の同期で同じ部署の男の子の学生時代の友人で、彼の紹介……要するに合コンで出会い、何となくウマが合って付き合い出したのだ。
徹哉は平日は仕事が忙しく、電話やメールはしても、会うのはもっぱら休日。しかも、大抵どこかに行こうと誘うのは私の方からで、今日みたいに向こうから、しかも平日の定時後に会おうと言って来るのは、本当に珍しいことだった。
徹哉は、
「田宮から少し前に連絡があって。その……組織変更があるって話。今日、美里にも話があったみたいだって聞いたから」
と言った。
田宮というのは、私の同期で、徹哉の友人でもある彼のことだ。
徹哉の言葉からすると、知らなかったのは私だけで、田宮くん達、営業の人達は組織変更のことも、私が彼らと一緒の部署には異動しないことも、事前に知らされていたんだろうか。
組織変更は会社の偉い人達が決めた決定事項だし、私が嫌だと言ったところで何もならない話だとは分かっていたけれど、ズキリと心が痛んだ。
そんな話、毎日いろんな人と話をしたのに誰も教えてくれなくて、本当に今日課長に聞くまで私は知らなかったのに。
みんなは、どれ位前から知っていたんだろう。
「それで……俺、考えたんだけど……」
頭が追い付いていかない私を置き去りにしたまま、徹哉が言った。
「俺達、もう付き合って2年になるし、異動するのもアリだけど、この機会に結婚して、退職するのでも……いいよ。そろそろお互いいい歳だし。働かなくてもいい、って言えるほどの収入はないけどさ、パートでも、ちょっと食費くらい稼いでくれたら、全然いいし」
結婚?
突然出た言葉に、私は信じられない思いで徹哉の顔を見た。
この歳になると、大学時代の友人達や、同じ位の年齢の周囲の人達が結婚し出す。
私も徹哉との結婚を、意識したことがない訳じゃない。
このまま付き合って行けば、もしかしたらこの人が私の旦那様になって、この人の子供を産んだりするんだろうか、なんて。
でも。
私にとっては、まだそれは先のことだと思っていた。
少なくとも。
「私……まだ、ちゃんと働いていたい。パートが悪いとは言わないけど、まだ、ちゃんと正社員で頑張りたい。……そんな風に、考えられない」
私が言うと、徹哉は驚いた顔をした。
私が否定するとは思わなかったのかもしれない。
もしかしたら、喜ぶと思っていたんだろうか。
私は、心の中で落胆していた。
2年間付き合っていたけれど、気付かなかった。
きっと、徹哉も泉の結婚相手と同じ。
女は結婚して、家庭を支えてくれればいいと思うタイプなんだ。
別に、バリバリのキャリアウーマンになろうなんて言わないけど、まだ、私働ける。
働きたいのに。
「……ごめん。ちょっと帰って寝る」
私はそれだけ言うと、戸惑い顔の徹哉を置いて、店の外へ出た。




