お話86 完封負け
どれほど沈黙が続いただろうか。口を開いてはまた閉じ、そして頷く。
この一連の動作を何度も繰り返すうるうたんを見守る間、部屋は静寂に包まれていた。
立ち尽くす一慎と固唾を飲んで見守るうーこちゃんを順に見て、長い黒髪の艶やかな美人が大きく深呼吸した。
「ああ」
わかっている、と唇が動いていた。声はない。
わずかに開いた唇から吐息がもれるが、それは少しだけ震えていた。
「聞かずとも答えはひとつだった」
そう言いながらうるうたんが立ち上がった。
はっとして見上げると、彼女は目を細めて穏やかに微笑していた。
ゆっくりと、慣れた仕草で向かい合う俺の座席に馬乗りしてくる。
「かならずそう言うであろうことがわかっていて、それでも君の言葉を実感したくて」
首に手を回しての抱擁。何回されても落ち着くものではない。
この子ほどの美人に抱きつかれて冷静でいられる男はいない。
「触れてなかったんだ。こうしてなかったから、久々に九介が欲しくなって」
息遣いが近すぎて熱さすら伝わってくる。
凛とした冷静な昂ぶりに、俺のほうがひるんだ。
「……そうだな。素直に、私が感じるままにさせてもらうよ」
面をあげ、テーブルの向こうにいるうーこちゃんと何故か睨みあったうるうたん。
一慎が青ざめた顔のまま彼女を窺っていた。
「それにだ。こんな無理やりの正直者で変態のナルシストが今何を考えていたか、わからないはずがないだろう。私を誰だと思っている」
「理解しなくていいんで、はやく高明で女になってくださいね!」
うるうたんがすっと口角を上げた。
少し当てられた表情をしながらも、不機嫌そうなうーこちゃんがそれを見返す。
それにしてもショートボブの小さい子は放言する内容が大胆すぎる。
女になるって。
「多聞先輩はあいつと、あたしはキューちゃんと恋人同士なりますから」
「……これは私のものだ」
「だめですよ。高明に本気なら、キューちゃんに依存するのは終わりです」
「イヤだ」
「独り立ちしてください。そして先輩もキューちゃんを祝ってあげてくださいね」
「無理。これを手放すことは人としてありえない」
言葉の応酬の冷たさといったらない。
凛々しくも冷静なうるうたんに対し、うーこちゃんは不機嫌な顔を続行中だ。
悪友は先ほどから生気なくうるうたんを見つめていた。
歯をくいしばっているのがわかる。握りしめる拳に力が入りすぎて震えていた。
「朝まで、抱き合って寝る。私は九介の許可が出たから言葉通りそうする」
うるうたんが一慎を見上げてもう一度はっきり言った。
顔は超がつくほど真面目だが、さり気なく対面馬乗りになっているので体勢的には少しお間抜け感が漂っている。
区切って強調するように繰り返した彼女の台詞に、悪友がはっと気付いて言葉を繰り返した。
「朝まで抱き合って寝る」
「そうだ。朝まで抱き合って寝る。本当に私は寝るつもりだ」
「えっ」
「えっ」
うーこちゃんと一慎が間の抜けた返事を同時に返した。
ふたりともがオモロイ顔をして固まるのはめずらしいことだ。
「本当に寝るってその」
「ぐっすりとな、熟睡するんだよ。いいベッドらしいからな!」
「……」
「この私が相手の胸のなかで一晩寝てあげるんだ。高明も本望だろう」
今度こそ返事も出来ないくらいに石になった悪友。
うーこちゃんも声をなくしていた。
そうだろ? 九介、となぜか同意を求めて頬ずりしてくるが、俺もとっくに石化している。
「……一緒に寝て朝を迎えるって、本当に文字通りそのまま?」
怒り気味だったうーこちゃんが、毒気をぬかれた様相で身を乗り出す。
俺に対面馬乗りの彼女は髪をゆらして側面のうーこちゃんに振り返った。
「それ以外に何があるというんだ。高明がそう頼み込むから、彼だから許してやることだ。私にそこまで心を向けさせたご褒美に、一夜を過ごしてやるのさ」
なんといいますか、すさまじい上から目線と何様の態度。
うるうたんしかありえないこの言動だが、さすがにうーこちゃんも一慎も引きまくってまともな反応ができないようで、黒髪の美人さん以外皆石になっていた。
「ああそうだ。彼がどうしても夜景を見ながらキスしたいと懇願してたから、それは本当に約束してあげたよ?」
「なっ」
我にかえった一慎が驚愕して裏返った声を出した。
「ふふ」
いたずらっぽく俺と悪友を見比べる。
自分としては少なくとも上面は平然そのものだ。苦笑してはいたが。
「約束したことは必ず守る。私としては最大限の譲歩をしてあげたんだ。好きだからな高明も。ほっぺにチューするほどには」
「ええ!?」
うーこちゃんが勢いよく立ち上がった。何いってんの、と表情が語っている。
悪友はまたもえっと間抜けな返答をしていた。
「夜景を見ながら頬にチュー、そのあと朝まで高明の胸の中で本当に熟睡するんですか……」
「そうだ」
ちゅっちゅがはじまった。俺はずっと休止状態。
一慎は目の前の桃色空間に突っ込むことさえ忘れて呆然としていた。
「えーっと……あいつは先輩を抱くって、本当に最後までの意味で抱くつもりでしょうね」
「そうなのか?」
跡がつくほどの強い接触から唇を離して、うるうたんはもう一度うーこちゃんに振り向いた。
「もし彼がそのつもりなら、私に嫌われて殴られる覚悟でしてくるがいいさ。その瞬間にさよならだ」
「その前に高明に嫌われますよ? 振られるのは多聞先輩のほうです。あいつ女に不自由してませんから、そんなすげない対応されておとなしくしてる性格じゃないですし」
「ほほう、私は振られるのか。悲しいし残念だが、そうなったら仕方がないな。元気でと送り出してあげるよ」
「……」
冷淡にも程がある高言にうーこちゃんがぷっと吹いた。
あまりにも突き抜けた幼馴染の悲惨な扱いに、同情どころか笑いがこみ上げてきたらしい。
「んーとその、高明ってハンサムだし女の扱いにそつがないし基本的に優しいし、かなり上等な男と思うんですけど」
「当然だな。彼ほどのいい男はそうは見ない」
うーこちゃんの質問の意図を測りかねて、うるうたんが少し困り顔で答えた。
だよねと俺に同意を求めてくるショートボブの小さい子だが、俺も困り顔だ。
「そんなあいつでさえ残念の一言で終わるんですね」
「他の男とは雲泥の違いだよ? 彼には私の出来る最大限の迎合をしているつもりだ」
「……」
一慎がげっそりしている。うーこちゃんもさすがにひるんで口を閉ざした。
「上戸の奴でさえチューすらままならんのか」
肩を落として長いため息をつく悪友。
ふるぼっこの幼馴染をさすがに可哀想に思ったのか、うーこちゃんはコーメー君との対比を質問し始めた。
「高明とキューちゃんの外見ではどちらが好み?」
「高明だな」
「会話や行動の意思疎通とか、それから感じ取れる相性とかは?」
「高明」
「一緒にいてどきどきしたり、楽しいと思うのは?」
「高明かな」
「女として、魅力を感じる相手って」
「高明だ」
「……」
完封負けだ。すべての点において俺はコーメー君に及ばないようだ。
あとで泣こう。
「……キューちゃん、どこにもいいとこないじゃないですか」
何故かうーこちゃんが笑いを堪えきれないように震えている。
一慎は人事ではないのか、その面持ちは神妙だった。
「ふふっ」
俺の鼻先を指で突く。うーこちゃんと一慎の視線がこちらに向いた。
「男として比べるならな。だけど」
「八方九介と上戸高明なら?」
「……聞きたいか?」
質問者のうーこちゃんにではなく、対面馬乗りの俺に聞いてきた。
いやもう結構。心がもたないので。
一慎の拳骨を食らう。うーこちゃんが近寄ってきて背中を叩く。
心身双方で痛い。
「わかりきったこと聞いちゃった。もういいです!」
「聞きたくねえ。初めて上戸に同情したよ」
「なんだ、つまらん」
昼休みが終わりに近い。時間にして5分前だ。教室に戻らないと。
俺の許可が下りて嬉しそうにするうるうたんが、そっと身を起こした。




