お話35 一線てなんだ
祭りの喧騒が絶え間ない校舎を抜け、静かになった離れの保健室へ。
中を窺えば校医さんは不在のようで、窓側のベッドのひとつに見慣れた黒髪の女の子が静かな寝息をたてているだけだった。
彼女の前に椅子を引き、とりあえず着席する。
何をするわけでもなく、何をしていいかわからない。
手持ち無沙汰にうるうたんを見つめるだけだった。
彼女の規則正しい寝息に誘われて自然に船を漕ぎ出すお子様。
うつらうつらとしていると、手の甲に柔らかい感触を感じた。
見れば俺の手に重ねて、一目で女の子のものだとわかる綺麗な手が絡めるように置かれていた。
横に寝ながらもこちらに顔を向けたうるうたんが、じっとこちらを見つめている。
目を細めて微笑んでいた。
「相変わらず君は寝ぼすけだな」
「誘われて意識が飛びました」
「ふふっ」
絡めた指に力をこめて、今度こそ嬉しそうに破顔する。
顔色がいつもの様子で安心した。一慎の言葉どおり、もう大丈夫そうだ。
「最近少しばかりつらすぎて」
「……」
「無理に我慢していたが限界だったのか気を失った」
握る力を緩めたり、強くしたりとその手を見つめながらの言葉だが、俺には返答のしようがない。理解できていないからだ。
「心が、どこかにもっていかれそうになったよ」
抽象的なので余計にわからない。話だけでも聞いておこう。
「息は苦しいし、何やっても落ち着かない。もちろんほとんど寝ることはできない」
力強く引き寄せられた。
弾みでベッドの端に腰掛けることになった。
「ときおり君に接触する。そして出会ったときに交える会話の、その少ない時間だけつらさは消えた」
「……」
「もっと近くに」
「まだ寝てないと」
「もっと近くに来て」
逆らわないほうがいいか。
ほぼベッドの中央までずりずりと移動する。
間抜けな姿だが、当人たちしかいないのが救いだ。
そしてうるうたんがとってきた体勢は、対面馬乗りでの力強い抱擁。
そして足でカニバサミしながら、首に腕を巻きつけて頬ずりしてきた。
他に同じような行動をとる女の子をふたりほど知っている。
「……」
長い沈黙が漂った。
ずっと俺は座椅子のままなのか。
彼女の姿を見れば、学園祭のために着たであろうメイド姿だと今初めて気付く。
ワンピース一枚構成のシンプルな服にもかかわらず、フリフリのミニスカートに黒ニーソ。うるうたんほどの美人がそれを着こなす様は、まさに反則を通り越して凶器だ。
「可愛いだろう、このメイド服」
「うるうたんが着ているから」
ぱしっと顔をはさまれた。喜色満面だ。
苦しいとか心がもっていかれるとか、にわかに信じがたい笑顔だった。
「もっと褒めろ」
「こんな綺麗で色っぽいメイドさんは見たことがありません」
「もっとだ」
「……持ち帰りたいくらいです」
褒めるたびに生き生きとした表情に変化する麗しい容貌と、首まで赤くなる初々しさの混在に胸の高まりが収まらない。
距離をとろうとした決心とやらはなんだったのか。
まるで成長していない。
「ちょっ……!」
「逸らすな」
「何のつもりです? チューはだめですよ!」
「ならこれで我慢する」
標的は首元になったようだ。怒涛の接吻攻勢が始まった。
晩夏のうーこちゃんを思い出す。
逃げようにも彼女の感情の昂ぶりを見て、躊躇しつつそれを受けた。
今は拒否できそうにない。いや俺も本音は逃げたくはない。
頬に唇が触れた。
「やっぱり」
行動を継続しながらも彼女が呟いた。
顔が近すぎるので独り言でもはっきりと聞こえる。
「今は息苦しさを感じない。心がもっていかれそうになる不安感もない」
「……」
「やっぱりそうか」
触れた唇を頬につけたまま話し出した。
こそばゆい感触に少し身をよじった。
「愛とか恋とか……それだけではない何かだ。一慎に向けているものとは違うのかもしれない。九介」
「はい」
「私には君が必要だ。そして君は私のモノだ」
「はい?」
なにやら怪しい雲行きに。
何度目かにしてモノ扱いに慣れてだしてきた自分が怖い。
「すぐそばでこうしていてくれないとな、私は半狂乱になってしまう」
上目遣いの可憐さに紅潮する頬を自覚した。
うるうたんが綺麗な黒髪を揺らして、吐息を交えながらかすかに笑う。
「そうさ。相手がどんなに君好みで可愛い女であろうとな、絶対に渡さないよ」
切れ長で大きめの瞳が垂れ下がり、互いの額をくっつけながら目を見合わせたかと思えば、今度はその額にもキスの嵐。
あらゆる部位が密着した体勢でいろいろ生殺し。
ゆえに俺の理性と忍耐は限界点を迎えようとしている。
「ぎゅっとな。今は抱きしめたままじっとしてて」
「はい」
完全なるイエスマン。ほかに行動のとりようがない。
うるうたんのメンタルな部分で不都合があったと推測すれば、ここはひたすら恭順あるのみだ。
「寝ながら抱き合うというのも悪くはないんだけど」
前言撤回。迎合することはできません。
変態が暴走してしまう。
「君だって男だものな。煩悩を起こすのは当たり前だ」
色気を含んで耳元でささやく子悪魔。
抱き合って寝ようという誘いに正気を失いかけたが、外から聞こえてくる足早の靴音で我に返った。
その靴音の持ち主が誰であるかはわかりきっている。
何秒か後の未来は自分にとって確定的なもので、予想ではない。
殴られるか、蹴られるか、どちらにしろアザで済めば上出来だ。
今度は俺がベッドの上で休養になるだろう。
なるべく流血は抑え目にしてくれと願ったそのとき、扉は開いた。
それにしても一線てなんだっけ?




