第一話 現実世界での生活と鍛える理由。
キーンコーンカーンコーン……キーン…コーン…カーン…コーン。
「ふぁ~! 昼飯だー! 今日も俺は勝ったぞー!」
授業終了のチャイムと同時に背伸びをする。体育の後の数学は軽い眠気との戦いである。
今日は学生なら誰もが恐怖する月曜日である。
昨日、日が変わるまで丸一日幻想世界で体を鍛えていたのも、眠気を倍増させた原因だろう。
ああ。眠れる。意識がもうろうとして来た。いいぞ……なんだか幸せな気分だ……このまま夢の世界へ……。
「いっくん! お昼だよー!」
「ぐっ!?」
バチィィィィィン!
そうしてうとうとしていると、目を覚ますような強烈な一撃が背中を襲った。普通ならばありえない音と共に、机にうつ伏せに倒れさせられた。
息が止まった。もう少し力加減を間違われていれば、三途の川を見ただろう。
因みにいっくんと言うのは、俺のあだ名である。
「ここで問題だ。背中を叩く。本来なら可愛いスキンシップのような物だろう。しかし、女子が同い年の男子を悶絶させる事が出来るのか……答えは見ての通りだ」
「えー? 問題出して自己完結してるんじゃない。机にヒビ入ってるし、石頭だよねー」
「そういう問題じゃない。で、何か用か? 蘭」
おでこについた机の破片を手で払いながら蘭を見る。
天真爛漫な女の子と言う表現が一番合うだろうか、栗色のツインテールの髪に悪戯っ子のような笑顔。ニカッと笑うと八重歯が見える。
蘭は幼馴染の俺がひいき目に見ても美少女と呼べるだろう。年相応に見られないのが悩みらしいが、背が少し低くても一般女子と比べると大差ない、一部分は普通より……まあ、これから育つだろう。
「わたしと一緒にお弁当を食べよー! もちろん手作り!」
「お、助かる。今月はバイト削ってるからな、昼は無しで過ごそうかと思ってたんだ」
「そんな事だと思ってたわ! さあ感謝しなさーい!」
「へへ~! ありがとうごぜいやす蘭様~!」
王様に向かって頭を下げる庶民のように、鼻高々の蘭に向かって両手を上げて下げるを繰り返す。
そんなやり取りをしながら、自然の流れで可愛い幼馴染と昼食とるべく、屋上に移動してきたわけだが……。
「ハーハハハッ! 今日こそ貴様に勝って、この高校が誰の物か教えてやるぞ!」
「おーほほほっ! あたくしを差し置いて学校一の美少女なんて笑わせますわー!」
「えー……今日もやるの? これからお昼なんだけどなぁ」
見るからに時代遅れのリーゼント不良と、見るからにテンプレな巻き髪お嬢様。その二名が屋上で蘭と向かい合うのを見て、弁当を広げて揚げを頬張りながら観戦する。……あ。うまい。
他にも生徒達は居るが、普通に観戦中である。毎日あの二人は蘭に喧嘩を吹っ掛けているので、慣れてしまっているのだ。
「ぐふっ……何故だ。この学校は……代々リーゼントを守ってきた俺こそが番長に、ふさわ……」
「先輩が番長なら、いっくんは神になれると思うなー。はい、とどめ」
「おぶらぼえ!? がふっ……」
ピンっと番長を名乗る雑魚……もとい、不良先輩がデコピンをされて後方に吹っ飛ぶ。
地面をバウンドしながら転がっていった不良先輩は網のフェンスに激突してようやく止まった。
見事に気を失って白目を剥いているが、いつもの事なので心配はない。
蘭も流石に手加減をしているだろう……たぶん。
「さて、次は御嬢ね? 勝負の方法は、先輩みたいに単純なバトルかしら?」
「ひっ! あ、あたくしはあなたと違って、かよわい女子で……あわわ」
デコピンの仕草をして向かってきていた蘭を見て、御嬢は涙目でカタカタ震えている。完全に捨てられた子犬の脅え方である。
彼女はその場の勢いで、不良先輩の仲間っぽい立ち位置で挑発していただけである。
御嬢は自分が一番可愛いと思っている。可愛いと評判の蘭に対抗意識を燃やし……。
と、言うのが最初に二人を見て思う一般的答えであるが、その実は違う。
「じゃあ、わたしのお弁当を一口食べて、美味しいって思わなかったら御嬢の勝ちでどうかな?」
「美味しいですわ。蘭様のお弁当が美味しくないわけありませんわ」
「お前らもう結婚したらどうだ」
思わず突っ込んでしまった。お嬢様はうっとりした目で、差し出されたお弁当をしっかり両手で掴んでいた。口の端から垂れている涎は拭いた方がいい。
お嬢様は誰よりも蘭が大好きであり、ファンクラブ会員一桁代の筋金入りである。
しかし、恥ずかしがり屋の彼女が蘭に話しかけるタイミングは、決まって不良先輩に便乗してくるこのお昼である。
恒例である馬鹿騒ぎも終わり、三個用意されていたお弁当は、三人の雑談の中で空になった。
因みに不良先輩は、何時の間にか人知れず保健室へ運ばれて行った。
「でさ……いっくん。よ、よかったら……しない?」
「な、ななな何を言い出しますの蘭様!? こ、こんなところで……」
「わかった。あと言葉は選べ、勘違いして顔真っ赤になってる初心なのがいる」
「……はっ! あ、あたくしは別に勘違いしてませんわ!」
「は、早く……ね? いっくんお願いだから」
上目使いで頬を赤らめながら、モジモジと恥ずかしそうに顔を覗き込んでくるのが見える。
一見、恋する乙女のようだがこれは違う。どうやら不良先輩と闘ったことで付いた火が、不完全炎症を起こしてしまったようだ。
幻想世界において高レベルと呼ばれる存在は、現実世界では力を抑制されている状態である。抑制されている上に、先ほどのデコピンと言う更なる手加減まで重なり、過剰なストレスになる。
これを解消する方法は、蘭のホームグラウンドである泰平妖怪絵巻の世界に戻り、妖怪相手に戦うのが一番手っ取り早い。
「下校時間まで幻想世界へ飛ぶの禁止ってのは、何とかしてほしいよな」
「フー! そ、そうね……フー!」
息も荒く、もうヤル気満々と言った顔、向かい合った瞬間からその眼は獣のような光を放ち、八重歯がキラリと光り、戦闘準備完了である。
「ふにゃぁあああああ!」
「相変わらず変な掛け声だ……な!」
「ぐっ?!」
獣のように飛び掛ってきた蘭の右ストレートを、体の重心を左へ倒す事で重力を利用してかわし、
そのまま流れるように、がら空きになった右の脇腹に膝蹴りを入れる。
蘭の速さに便乗した膝蹴りは、威力が無いまでもその小さな体を三回転させて、勢いよく地面に体ごと叩きつけさせた。
「少しはスッキリしたか?」
「まだまだぁ!」
「そうだろうな!」
蘭はうつ伏せから、両手の力だけで空中に跳び上がり、そのまま空中で体を反転させながら再び右ストレートを放ってくる。
馬鹿の一つ覚えであるそれを見て、先程と同じように左に移動すると、今度は放ってきた右腕のブレザーの袖を両手で掴み、勢いを利用してフェンスの方向へ誘導してやる。
「あぐっ……!? きゃぁ! み、見えちゃう!」
蘭は勢いそのままに空中を飛ぶと、不良先輩が叩きつけられて丸型にくぼんだフェンスに、逆さまになって背中から吸い込まれ、ずり落ちそうになったスカートを、恥ずかしそうに両手で押さえる。
可愛い仕草をもう少し見ていたいが、勝負は非情。例え身動きが取れない、恥ずかしがって戦意喪失している女の子であっても、決着をつけるのが相手への礼儀なのだ。
「とどめ!」
「きゃぁああ!」
蘭は、顔面に飛んで来た蹴りを見て、悲鳴を上げて顔を背けた。
パチンッ。
「あうっ!」
「俺の勝ちだな」
最後はギューと眼を閉じていた蘭に、彼女の得意技であるデコピンをして勝敗は決した。
相手に負けと思わせれば勝ちである。怖がる女の子の顔面を蹴り飛ばすような酷い男では決してない。……たぶん。
蘭はお嬢様の助けを借りてフェンスから救出されると、目頭に涙を溜めて声を上げた。
「う~! 今日の夜、あっちでリベンジするんだからー! 覚えてなさいよバカーーーー!」
「蘭様! まだ手当てが済んでませんわ! お待ちになってー!」
まるっきり二流悪役の台詞を言い、蘭は泣きながら屋上のドアから廊下へと消えて行った。
何所から出したのか、救急箱を抱えた御嬢がおまけで一緒についていく。
あっちとは泰平妖怪絵巻のことである。十割中、百割の確率で光になる自信がある。是非とも止めていただきたい。
キーンコーンカーンコーン。
そうしている内にお昼休み終了のチャイムが鳴った。
これがいつもと変わらない、少し刺激がある昼休みの風景である。
●○●○●
「蘭に勝つ方法ですか?」
「うむ。剣道部きっての、期待の一年エースであるお前なら知っていると思ってな」
時刻は変わって既に放課後の部活動。剣道部主将である不良先輩が質問してきた。おでこに絆創膏を張っているが、体はもうなんともないらしい、驚異的過ぎる回復力である。
蘭に毎回のように吹っ飛ばされているので、体性がついてしまっているのかも知れない。
それ以前に屋上であんな騒ぎを起こせば、普通は退学どころの騒ぎではないが、そこは理事長の孫娘である御嬢がなんとかしている。
「うーん。確かにこっちで勝負する分には、蘭には負けないと思いますけど」
「その秘策を是非教えてくれ!」
「人を軽く踏み外してる剣の達人と毎日打ち合う……とか?」
首をひねりながら答える。戦闘経験で得る説明しがたい勘のような物は、理屈では説明し難いのだ。
腕力が人の到達できる限界ぎりぎりまで鍛えているとは言え、蘭は特に格闘技などを習っているわけではない、速さや力任せの攻撃は、沖田さんと言う達人と毎日打ち合えば、自然と見切れるようになる。
「なんだそれは?」
「先輩は幻想世界とかでトレーニングしたことは?」
「喧嘩なら、我ら最強番長族で毎日のようにしているぞ」
何所の幻想世界だろうか……。まったく聞いた事が無いのでマイナーなのは確かだ。
しかし、これは困った質問だである。
スポーツをする為に制限をかけている先輩が、蘭に勝てるはずは無い。
「トレーニングにいい幻想世界を教えますよ」
「そこで鍛えれば強くなれるのか?」
「俺が鍛えてる所ですから保障しますよ。あとは当人のやる気の問題ですね」
「やる気ならいつでもあるぞ! ハーハハハ! さて、それは後で聞くとして、時間だ! 部活動を始める!」
高らかに笑いながら竹刀を片手に気合を入れる不良先輩、このやる気の姿勢は好きだ。
不良と言っても別に悪い人ではなく、征服欲が少し強いだけの、頼れる剣道部主将であることは間違いない。
「主将! 今度の一年だけでやる練習試合の団体戦のメンバーなんですけど、意見を聞かせてください!」
丁度、下級生の一人が不良先輩に話しかける。
「ん? おお、そうだったな。どれ見せてみろ……副将は先鋒と逆にしろ。実力では劣るが、こいつは勢いがある。負けてもチームの良い起爆剤になる」
「はい! 流石です主将!」
こうして、実力はまだしも、下級生を大事に思う姿勢も人気の一つである。
「さてと……葵さん」
「ん……? あらあら~いっくん? デートなら日曜が空いるわよ~」
正座して集中力を高めていたのか、瞳を開けると葵さんはにっこり笑って、柔らかな物腰で言ってきた。
清楚可憐な二年生の女子部員であり、男子部員に劣らない腕を持つ剣道部副主将、男子で二番目に実力のある不良先輩よりも強く……つまりは剣道部最強はこの人である。
因みに男子最強は言うまでもなくこの俺だ。別に自慢しているわけではない。
ともかく、部活の中で練習相手になるのはこの人だけなのだ。
しかし、このまま練習を申し込んでも葵さんは本気にはならない。普段の彼女とは互角に打ち合えてしまう。それでは困る。
葵さんですら、全国大会の優勝経験はない。本気のこの人に勝てなければ話にもならない。
だから今日も、あの言葉を口にすることにした。
「デートも魅力的ですけど。今日は俺と……死合いしましょう」
「わかりました」
言葉のニュアンスが違うことに気が付いたのか、葵さんから放たれる柔らかな雰囲気が一転する。
鋭く裂くような視線に射抜かれて、体中から汗が自然と噴出してくる、手にした竹刀が真剣になったかのように感じる。
真剣勝負。負ければ死あるのみ。竹刀での戦いであるのに、葵さんの気迫はそれを連想させる。
こうして竹刀を向け合うだけで膝がガクガクと震えるのが分かる。
「手加減は……?」
「そりゃ……当然なしで! メェェァァァァァアン!」
その言葉を合図として、向かい合った葵さん目掛けて最初の一撃を放った。
●○●○●
「はぁ……また負けた」
辺りは既に薄暗くなった帰り道、交差点の横断歩道の信号待ちをしながら溜息を付いた。
これでも男子である。試合で一本もとれずに女子に負ければ落ち込みもするのだ。
それにしてもやはり葵さんは強い。剣道をしていれば分かる事だが、相手の攻撃を見て即座に反応し対応、つまり反射神経は最も大事な能力の一つである。
しかし、それは多くの試合を経験していればカバー出来る。そして相手の目から視線を外さないのが最も重要だと俺はいつも思っている。
どんな格闘技においても攻撃の瞬間、人間はわずかに目を見開くのだ。
見極める事を鍛えてきた。相手の僅かな変化を見逃さない訓練を毎日のようにしてきた。
しかし、葵さんは見極められない訓練をしてきた人なのだ。安定した呼吸、疲れを相手に感じさせない姿勢、一切変化しない氷の表情。
どんなに絶望的な状況に置かれたとしても、彼女は動揺など一切しないだろう。
「それを考えると、スカートが捲れそうになって、隙だらけになる蘭は可愛いな」
「ブーッ! ごほごほっ……。告白? ねぇねぇいっくん、いっくんってばぁ~!」
「袖を摘んで引っ張るな。告白じゃない、そしてハンカチを貸せ」
顔面にコーラを吹きかけられた。犯人は言うまでもなく隣に居た蘭である。
蘭から強制的に奪ったハンカチを顔を拭い、丁度信号が変わった横断歩道を歩く。
「あう~! わたしのハンカチがコーラでベトベトに~!」
「自業自得だ」
「……今日も葵さんに負けたんだね」
半ベソになっていた蘭が思い出すようにふと足を止めた。振り向いてみると、暗い顔をしている。次に何を言おうとしているか、容易に想像できた。
抑えろ……。今日こそは怒鳴るんじゃない。
「いっくんさ……もう剣道にこだわらなくていいと思う、だって! あれからもう二年も経ったんだよ! りっくんだって、りっくんだってもうきっと!」
「きっと……? きっとってなんだよ? もう許してくれてるとでも? そんなわけないだろっ!」
「うっ……ごめん」
「あ。いや……俺の方こそごめん」
やってしまった。女の子の胸倉掴むとか、最低だ。この話になると冷静さを失う癖は何時までも治らない。
蘭のブラウスから手を離して深呼吸、落ち着きを取り戻す。
りっくん。俺達にはそう呼んでいたもう一人の幼馴染が居た。そう……居た。
剣道が大好きな奴だった。そんな大事な親友は、俺を助ける為に命を落とした。
初めて行った幻想世界エターナルでの、あの日の出来事を俺達は忘れる事はない。
「剣道の世界選手権で優勝するのはりっくんの夢だ。だから高校の全国大会なんかでつまずけない。俺が、俺がりっくんの夢を叶えるんだ……ログイン」
「あ……」
幻想世界へと飛ぶための言葉を口にして、世界を心に念じる。体はそれに答えるように光りとなって世界へと飛ぶ。
――それじゃあいっくんの夢はどうなるの――。
飛ぶ瞬間、空にも届きそうな叫び声が耳に届いた。
●○●○●
泰平妖怪絵巻。初心者フィールド。主な妖怪、一つ目尾僧。ヌリ女。
御船流剣術道場があるトコシエ村の外にある戦闘エリアである。
「はぁぁああああ! 御船流一の型! 烈っっっ空っっっ突きぃいいいいい!」
「ウギャァアアアア!」
飛び掛ってきた一つ目尾僧の尻尾の先端に付いた、一つ目を突き刺す。目を抉り取られた一つ目尾僧は、体を地面に倒してのた打ち回った後、ビクビクと尻尾から血を吹き出させて絶命した。
それを見ても休憩することなく、次の目標を探す。見つけたのはヌリ女。胸を開くように着崩した浴衣に、外見は人間と代わりない綺麗な西洋風お姉さんである。
しかし、その肌に塗りこまれた汚死炉異には強力な毒があり、その美貌に惑わされて抱きつき攻撃を受けると、肌がかぶれて一週間は地獄を見る。
「ガォオオオオ!」
「いくら美人でも知能がないんじゃな!」
ヌリ女は虚ろな目で大きく口を開けて飛び掛ってくる。その美貌を武器に、言葉巧みに誘惑してくるなら、健全な男子なら少しは魅了されたかもしれない。
再び構えて烈空突きの構えを取ると、見えそうで見えない胸の谷間に、竹刀の先を突きたててやる。
竹刀とは言っても切れ味は刀と変わりない。一つ目尾僧の目を突き刺しように、竹刀は鋭く鍛えられた刀のように、ヌリ女の心臓を突き貫いた。
「ふぅ……」
竹刀を振るい血を振り払う。二匹の妖怪はしばらくした後に、体から光りを出して人魂になる。
本来ならこの人魂を吸収する事で段位を上げていくのだが、段位は十五段で止めてある。
例え初級段であっても、このフィールドにおいて死ぬ事はないが、油断すると酷い目に合う十五段が丁度いいのだ。
「ありがとうございました」
吸収されずに薄れていく二つの魂に手を合わせ、頭を下げて成仏を祈る。
「いやぁ~。妖怪とはいえ、おなごにも容赦ないでござるな」
「俺は襲ってくる者には容赦しませんよ。その甘さが命取りになりますから」
「侍の鑑でござるな、拙者ならあのような色気を見せられたら、抱きついてしまうでござるよ」
「ははっ、逃げ出そうとするヌリ女まで、脳天からまっぷたつする人が何を言いますか」
「ちゃんと手加減して一番弱い武器でやっていたでござるよ。直ぐにくっついて逃げて行ったでござろう? ああしておけば暫くは人間を襲わないでござるからな」
沖田さんが言うように、一見致命傷に見える攻撃も生命力が尽きなければ死ぬ事はない。
これは全ての幻想世界に言えることであるが、この世界の場合、妖怪にも人間にも生命力というステータスが存在する。
生命力は数字で表され、段位によって増えていく。攻撃を受けると減少し、零になると死亡扱い、逆に言えば腕を切り落とされるような攻撃を受けても、生命力が減少するだけあり、基本的には無傷で済む。
他の幻想世界によってはこの生命力を、ヒットポイントやライフと名称を変えるが、中身は同じである。
「しかし、何時もならば拙者のように手加減する異国殿が、今日はどうしたでござるか?」
「いえ……国での勝負に備えて甘さを消しておこうかと思いましてね」
笑って返すが当然嘘である。
俺は蘭に理不尽に怒ってしまったうっぷんを、妖怪相手に晴らしていただけなのだ。
敵に対し甘さを消す意味も当然あるが、今回に関しては前者である。
我ながら弱い妖怪を相手に八つ当たりとは情けない限りだが、人間はストレスを溜め込んで置けるほど頑丈には作られてはいないのだ。
「…………くそ」
「異国殿……?」
懐に手入れて再び背を向ける。沖田さんがそれを見て、不思議な声を出しているのが聞こえる。
そう……頭では分かっている。相手は敵である妖怪だと……。
甘い思考に苦笑いしながら、消えそうになっているヌリ女の魂の前で、懐から小さな箱を取り出す。
「一つ目尾僧なら余裕で斬り捨てておくんだけどな」
「魂を封じ、この世に止める魂手箱でござるが……。異国殿、お主はやはり鬼にはなれぬようでござるな」
「言葉もないです。沖田さん、これを洗い場へお願いできますか? あとで蘭のお店に引き取って貰いますから」
「うむ。心得た」
沖田さんにヌリ女の魂が入った魂手箱を渡す。ついでに竹刀の変わりに一番弱い武器である脇差も借りた。
人間にしか見えない相手には如何しても甘さが出てしまう。何時までたっても治らない悪い癖だ。
「りっくん……」
ふと瞳を閉じる。ああ……これは何時ものあれか……。この瞬間、俺は過去へと戻る。
りっくん。それは蘭と同じもう一人の幼馴染。大事な親友だった。そう……親友だった。
蘭とりっくんを連れてあの世界へ旅行に行ったのは二年前。まだ中学生の頃。
幻想世界エターナル。そこは平和を絵に描いたような楽園だった。
人類に敵は存在せず。生い茂る森の中には美味しい果物が生る。豊富な資源と、綺麗な飲み水。現実世界とのバランスを保つ為に、旅行目的で数日しか滞在できない制限を受けていた世界だった。
世界の強制力により天使の翼を与えられる現実世界の人間は、自由に飛ぶことが出来できた。
翼を持つ天使と呼ばれる人々が住む世界エターナル。まさに楽園に相応しい世界だった。
「うぇぇ……ん。おかあさ~ん!」
「にげ、にげ……はやく、にげろ、ランつ、れて……はや、く……」
泣き叫ぶ蘭の声と、瓦礫に潰されたりっくんの消えそうな声。
『ラグナロク』
幻想世界において、数億年に一度起きると言われる伝説の災害だった。
何所からともなく世界に現れた怪物達は、一瞬で多くの命を奪い、世界を崩壊させた。
敵が……全部あんな化け物なら、どんなに楽か……。
「はぁ……。でも、奴らはエターナルと共に全部消えたんだ。復讐はもう出来ないけど、見ててくれ、りっくん。この竹刀で体を鍛えて、絶対に世界を制覇するからな」
最期までりっくんが手に握り締めていた竹刀を見る。
絶対に折れないように、この世界で鍛え上げたりっくんの形見。もう現実の世界へは持っていけないが、それでいい。どの世界にあるとしても、りっくんが生きていた証明が永遠に残る方がいい。
竹刀を見て瞳を閉じると、りっくんの笑顔がそこにある。俺は自然と話しかけていた。
「りっくん、あれから一ヶ月も引きこもりになった蘭が、急にこの世界で馬鹿みたいに体を鍛え始めたんだ。りっくんを助け出せる力をつけるんだー! とか言ってさ。蘭の奴、まだ記憶が混乱してて――」
――いっくんの夢は――。
言葉が止まる。脳裏によぎった言葉。蘭の悲しそうな顔……。
ああそうだ。お前は何時も、もう止めて、とでも言うかのように、俺を現実へと引き戻す。
蘭が居なければ、とっくにこの心は壊れてしまっているだろう。
人間の心は弱い。時には現実を放棄したくなる。蘭はもう立ち直ったのに……俺はまだりっくんを諦められない。
分かっているんだ。こんなことじゃ駄目だって、俺がりっくんの変わりに夢を果しても意味ないってことぐらい、とっくに知ってる。
「……でも、進めないんだよ、りっくん。俺、どんなに鍛えても進めないんだ……」
竹刀を抱き締め、俺は弱く泣き声を上げた。
鍛えるよ。俺、誰よりも、誰よりも強くなるよ。……りっくん。ごめんね、りっくん。
あの日、りっくんの墓の前で誓った言葉……もう一度その言葉を深く心に刻んでいた。