プロローグ 幻想世界で今日も俺は体を鍛えている。
「いち! にっ! いち! にっ!」
清々しい晴れ渡る空の下で、今日も手にした竹刀を振るう。実に充実した幻想日和だ。
そんな事を考えながら、今日も幻想世界の一つである。『御船流剣術道場フィールド』の中に来ていた。
幻想世界。それは大昔に人類が生み出したビジュアルネットゲームを元にした世界だったのだが、何時しか人類はその壁を越える技術を生み出した。
それは誰もが夢見たゲーム世界へ自分の肉体ごと入ってしまう技術であり、今では誰でもどこでも、気軽に自動販売機のボタンを押すように幻想世界へと飛ぶことが出来る。
幻想世界はもはや一つの世界であり、その世界の住人と恋に落ちて子供まで出来たと言う話も、今では普通のことである。
幻想世界で一生を終える人々も少なくはないが、『死する時は現実に戻る』というルールが存在する。
『現実世界があるからこそ幻想世界は存在する』
この世界のルールにより、現実世界に生まれた存在は、幻想世界で死すると、光と共に四散して現実世界へと戻っていくのだ。
ここで、現実世界に人々が居なくなるのではないか? と言う懸念が生まれる。しかし、心配は要らない。
現実世界に人間が一人も居なくなったならば、幻想世界も消えてしまうからである。
現実世界を選び、そこに残る人々が居るからこそ、幻想世界も存在する。
世界はこのルールによって均衡が保たれているのだ。
「ふ~! 今日もいい汗流したな~!」
剣道用の袴の上半身袖の内側へと両手を引っ込めると、そのまま懐から出して上半身裸になる。
自分で言うのもなんだが、しなやかに鍛えられた肉体には無駄が無く、女性が居たなら赤面しているだろう。
それはさて置き、この世界で体を鍛えれば、現実世界に戻った後にもそれは受け継がれる。
「コマンド、おお? 力が二十も上昇してる。この辺で次は素早さを上げようかな」
コマンドにより、他人には見えない宙に浮かぶモニターから、ステータスを見ることが出来る。
自分の状態を簡略的に見ることが出来るのが、幻想世界の良いところだ。
オリンピック選手もジム系のフィールドで鍛えたりする。これは日常的なことなのだ。
ただし気をつけなければならないのは、正式なスポーツの大会にでる選手は、必要以上に幻想世界で力をつけてはならないことになっている。ドーピングと見なされてしまうのだ。
「おお~。今日も精がでるでござるな~」
「ええ、もうすぐ国で試合がありますから」
のんびりとした様子で話しかけてきたのは、無精髭を生やした貫禄ある年配の男性。名前は沖田 宗司朗。この幻想世界に住む住人である。
と言っても、彼にとっての現実はこの世界であり、しっかりと生きている。怪我をするし、寿命で亡くなることもある。
もし借り、この世界が現実世界とは違うからと、軽い気持ちで彼を亡き者にしたとする。
『幻想世界での罪はその世界のルールで裁かれる』
この世界のルールにより、幻想世界からログアウトが出来なくなり、罪人となってしまうだ。
現実世界で刑になるような罪を犯した者も同一であり、幻想世界へのログインが出来なくなる。
簡単に言うなら逃亡が不可能になるのである。
「と、ところで異国の剣士殿? 今日は蘭殿は一緒ではないでござるか?」
「異国でいいですよ沖田さん」
異国の剣士とは、この幻想世界での俺の名前である。
『泰平妖怪絵巻』
戦国の世が終わり泰平の世は訪れた。しかし、この世には妖怪という人々の敵が存在していた。人々は妖怪と戦い、誠の泰平の世を築く為……と、こんな世界観の幻想世界である。
「蘭なら風神城で猫娘を捕まえるとか言い残して出て行きましたよ。なんでも店の看板娘として働かせるらしいです」
「ぬわにぁい!? それは誠でござるかー!?」
風神城とはこの世界にあるフィールドの一つで、妖怪の住む城である。
蘭と言うのは現実世界での幼馴染の女の子であり、この世界ではくノ一として生活している。
そして、唯今絶賛大混乱中である沖田さんの思い人である。
「風神城と言えば、高段位を持つ妖怪が居ることで有名でござるぞ! ど、どうしてそのような所に麗しい蘭殿が!」
「少し落ち着いて。猫娘は一階の妖怪ですから蘭の段位なら余裕です」
「し、しかし! もし何かあれば死んでしまうではござらんか! 妖怪の巣なのでござるよ!」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
幻想世界での死は現実世界での死と同じ。これに恐怖しない現実世界の人間は一人として居ない。
しかし、数多ある幻想世界での生活は、生きる上では当然のことであり、しっかりとその世界でのルールに従っていれば命を落とすことはまずない。
因みに俺がその一階で猫娘パンチを食らったならば、余裕で光となって消える自信がある。
力を必要以上につけられないスポーツ選手の辛い頃だ。
「もし何かあれば俺に連絡が来ますから」
「う、ううむ。異国の技術、ツウシンでござるか……」
ツウシンとは大昔の言葉で表すと、ボイスチャットの事である。
心配そうにしている沖田さんだが、俺はそうでもない。
蘭の段位は百段。つまり最上段であり、力のステータスは上限に達している上に、素早さは限界突破で文字は真っ赤である。
そんな状態で現実世界に戻れば、超人が出来上がるのではないのかと疑問に思う者もいるだろうが、それは不可能。
幻想世界で鍛えることで実現する身体能力は、現実世界では現実に在り得るレベルにしかならないのだ。
例えばこの世界では片手で大岩を持ち上げる怪力無双の蘭であっても、現実世界では今時の女子高校生でしかない。
まあそれでも、現実の世界で同じように鍛えていればムキムキの筋肉女になるレベルではある。
しかし、幻想世界で鍛えた肉体はあくまで幻想であり、筋肉が巨大化する事は無い、現実世界でログインした時のままなのだ。
よって、現実世界に戻っても見た目はそのまま。力だけは男並という馬鹿力女子高校生の出来上がりである。
現実世界で蘭にちょっかいを出した不良が、一瞬でボコボコにされてしまったのは、校内の軽い語り草になっている。
「蘭が戻るまで、沖田さんに手合わせをお願いします」
「む。しかし拙者は蘭殿の助太刀に行きたいのでござるが……」
「それは残念。異国の剣士秘蔵絵巻の一つ、コーヒーを飲んだら苦くて小さな舌を出して半ベソになっている瞬間の蘭。これをお礼として譲ろうと思っていたのですが」
「さあ異国殿、すぐに始めるでござるよ」
沖田さんは差し出された竹刀を取って即座に構えた。実に扱いやすい人である。
必要以上に力をつけることが禁止ではあっても、達人と呼べる相手と戦うことで経験を詰むのは禁止されていない。
魔法がある幻想世界も魅力的ではあるが、今の目標は全国高等学校剣道選手権、男子個人の部制覇。
ここは最高の修行場なのだ。
こうして、幻想世界で今日も俺は体を鍛えている。