失恋した俺が義妹の悪口を参考に自分磨きしたら、なぜか義妹の様子がおかしい
好きだった女の子に振られた。
人生が終わったわけではない。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが、だからといって明日から元気に生きられるほど、人間は便利にできていないらしい。
「……はあ」
本日何度目か分からないため息が出た。
俺は現在、自宅のリビングでテーブルに突っ伏している。
帰宅してから、かれこれ三十分ほどこの姿勢だ。
首が痛い。腕もしびれてきた。
「……何してんの、悠真」
不意に声がした。
顔を上げると、義妹の涼音が立っていた。
佐伯涼音。高校一年生。
親同士の再婚によって、二年前から一緒に暮らしている一つ下の妹だ。
頭の回転が速く、言いたいことを遠慮なく口にする。
控えめに言って、傷心の人間が最も会いたくない部類の人物である。
「……失恋した」
「は?」
「振られたんだよ」
「……え、悠真って好きな人いたの?」
そこからなのか。
まあ、家で恋愛の話なんてしたことがなかったし、知らなくても無理はない。
「いたんだよ。今日、告白してきた」
「……で、振られたんだ」
「そう言ってるだろ」
「そっか……」
涼音は珍しく、すぐには何も言わなかった。
そのまま俺の向かいに座る。
「……大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「全然」
「そういうことだ」
「……まあ、元気出しなよ」
意外なことに、普通に慰められた。
こいつにも人の心があったらしい。
失恋した日に新たな発見をしてしまった。
「で、誰に告白したの?」
「それは言いたくない」
「ふーん。ま、いいけど」
それ以上は聞いてこなかった。
こういうところは、意外とあっさりしている。
ありがたい。
今は失恋相手の名前を口にするだけでも、余計な傷を負いそうだった。
「……ていうかさ」
涼音がこちらを見た。
「何だ」
「あんた、もしかしてその服で告白したの?」
「……そうだが」
「うわ」
うわ、とは何だ。
人が勇気を振り絞って告白してきたというのに。
「よくその格好で告白する気になったね」
「……そんなにひどいか?」
「ひどいっていうか、毛玉だらけじゃん」
言われて、自分のパーカーを見下ろす。
確かに毛玉がついていた。
胸元にも、袖にも。
言われるまで気にも留めていなかった。
「好きな子に告白するんだったら、もうちょっと服装くらい気にしなよ」
「…………」
「まあ、服だけが原因じゃないと思うけど」
「……追い打ちをかけるな」
「いや、変に期待させるのも違うでしょ」
それはそうだが。
今の俺に必要なのは、正論よりも慰めなのではないだろうか。
もっとも、涼音にそれを期待した俺が間違っていたのかもしれない。
「……今日はもう勘弁してくれ」
「はいはい」
涼音はそれ以上何も言わなかった。
俺も再びテーブルに突っ伏す。
しばらくすると、向かいの椅子が引かれる音がした。
「……悠真」
「何だ」
「……まあ、あんまり気にしすぎないほうがいいんじゃない」
「……ああ」
「じゃ、私、部屋戻るから」
足音が遠ざかっていく。
俺はしばらく、そのまま動かなかった。
やがて首の痛みに負けて、ようやく体を起こした。
失恋したうえに寝違えるのは、さすがに割に合わない。
*
自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
一人になると、また今日の出来事を思い出してしまう。
告白する直前の緊張も、相手が少し困ったように笑ったことも、妙にはっきり覚えている。
「……はあ」
寝返りを打つと、椅子にかけたパーカーが目に入った。
……毛玉だらけ、か。
言われてみれば、確かにひどい。
普段なら何とも思わない服だが、今日は好きな女の子に告白しに行ったのだ。
少しくらい格好をつけてもよかったんじゃないだろうか。
いや、そもそも格好をつけようとすらしていなかった。
髪もいつもどおり。服も適当。出かける前に鏡だってろくに見ていない。
……何をやっていたんだ、俺は。
もちろん、身だしなみを整えていれば付き合えた、なんて思わない。
ただ、好きになってもらいたかったのなら、自分にできることくらいはやっておくべきだった。
今さら気づいても遅いのだが。
そう考えると、涼音の指摘もあながち間違っていない。
あいつは普段から、髪がどうだの服がどうだの、俺の身だしなみにいちいち文句をつけてくる。
いつもは適当に聞き流していたが、少なくとも今日の毛玉については正しかった。
言い方が悪いことと、指摘が間違っていることは別だ。
……ひょっとして、今まで少々もったいないことをしていたのかもしれない。
天井を見上げる。
いつかまた、誰かを好きになる日が来るだろうか。
今は正直、考えたくもない。
それでも、もしそんな日が来たら。
今度はもう少し、自分に自信を持って告白できる男でいたい。
……まあ、今日はいいか。
せめて今夜くらいは、失恋した男でいさせてほしい。
*
失恋から数日後、俺は毛玉取り器を買った。
失恋そのものは依然として解決していないが、パーカーの問題だけは解決した。
千円ちょっとでこれだけ綺麗になるなら、もっと早く買っておけばよかったと思う。
もっとも、毛玉がなくなったところで、急に格好よくなるわけではない。
それは数日後、涼音によって嫌というほど思い知らされた。
「……悠真、その髪どうしたの?」
休日の昼。
リビングでくつろいでいると、涼音が俺の頭を見て顔をしかめた。
「髪?」
「うん。寝癖ついてるし、前髪も伸びすぎじゃない?」
「まあ、そろそろ切ろうとは思ってたけど」
「その『そろそろ』、先月も聞いた気がするんだけど」
そうだっただろうか。
「ていうか、毎朝ちゃんと鏡見てる?」
「見てるぞ。歯磨きするときに」
「歯しか見てないじゃん」
確かに。
言われてみれば、俺は鏡の中の自分をまともに観察したことがない。
歯に何か挟まっていないかは確認するが、髪型については特に気にしていなかった。
「……何?」
「いや、何でもない」
「まあ、別に私には関係ないけど。もうちょっとどうにかしたら?」
涼音はそれだけ言うと、スマホに視線を戻した。
俺も何事もなかったように自室へ戻る。
そして、鏡の前に立った。
……なるほど。
確かに、ひどい。
前髪は目にかかっているし、横も妙に膨らんでいる。
寝癖に至っては、直そうとした形跡すらない。
これまで特に困ったことはなかったが、他人からどう見えるかは別の話だ。
前回の毛玉といい、涼音の指摘は案外的確なのかもしれない。
俺はスマホを取り出し、似合う髪型について調べ始めた。
まず、検索結果に出てくる髪型の種類が多すぎた。
マッシュ、センターパート、アップバング。
名前だけは何となく聞いたことがある。
しかし、どれが自分に似合うのかさっぱり分からない。
しかも、参考画像の男性は揃いも揃って顔がいい。
これでは髪型の効果が判別できないではないか。
俺は髪型を比較したいのであって、イケメンの品評会を開きたいわけではない。
しばらく調べた末、一つの結論に達した。
……これ、美容師に聞けばよくないか?
考えてみれば、向こうは髪を切るプロである。
素人が一人で悩むより、詳しい人間に相談したほうが確実だろう。
俺は早速、近所の美容室を予約した。
*
数日後。
美容室から帰ってきた俺は、玄関の鏡を覗き込んでいた。
……うん。
悪くない。
前髪はすっきりしたし、横の膨らみもなくなった。
美容師には、似合う髪型で、できれば朝のセットが簡単なものをお願いした。
ずいぶん曖昧な注文をしたと思ったが、普通に対応してもらえた。
むしろ、髪質や普段の生活についていろいろ聞かれた。
プロというのはありがたい。
もっとも、教えてもらったセットを明日から再現できるかは、また別の問題だが。
「ただいま」
リビングに入ると、ソファに座っていた涼音が顔を上げた。
「おかえ……」
そこで言葉が止まる。
「……あれ、髪切った?」
「ああ」
「美容室?」
「そうだけど」
「へえ」
涼音は俺の顔をしばらく眺めた。
何だ。
また何かおかしいところでも見つけたのだろうか。
「……いいじゃん」
「ん?」
「髪。前より全然いいと思う」
……ほう。
「珍しいな。涼音が人を褒めるとは」
「別に。ちゃんと切ったら普通になったってだけでしょ」
「今までは普通じゃなかったのか」
「そこは自覚しなよ」
厳しい。
ただ、少なくとも今回の髪型については、文句がないらしい。
「似合ってるか?」
「だから、いいって言ってるじゃん」
「そうか」
思わず頬が緩む。
自分では悪くないと思っていたが、第三者から評価されるとやはり嬉しい。
特に涼音は、お世辞を言うような性格ではない。
気に入らなければ遠慮なく指摘してくるはずだ。
「……何ニヤニヤしてんの?」
「いや、ちょっと嬉しくてな」
「髪切ったくらいで大げさなんだけど」
「そうかもしれん」
「……まあ、今までがひどかったからね」
結局、一言余計である。
とはいえ、涼音はそれ以上、髪型について何も言わなかった。
良くなったところは、ちゃんと良くなったと認める。
口は悪いが、その点は信用できそうだ。
「でもさ」
「何だ?」
「髪だけちゃんとしても、服がそれじゃ意味ないと思うけど」
……なるほど。
どうやら、まだ改善の余地はあるらしい。
*
服装について調べてみると、実に多くのことが分かった。
サイズ感、色の組み合わせ、季節感。
調べれば調べるほど、今までの俺がいかに適当に服を選んでいたかを思い知らされる。
そもそも、俺が服を買うときの判断基準は三つしかなかった。
着られること。安いこと。変な文字が書いていないこと。
最後の項目については我ながら悪くない判断だと思うが、それだけでは不十分だったらしい。
特に問題だったのはサイズ感だ。
俺は基本的に大きめの服を選んでいた。多少体型が変わっても着られるし、窮屈なのも嫌だからだ。
しかし、鏡の前で改めて確認すると、確かにだらしなく見える。
別に大きめの服が悪いわけではない。問題は、俺が何も考えずに大きいものを選んでいたことだ。
そこで休日、服を買いに行くことにした。
幸い、手持ちの服にも使えそうなものはある。
全部買い替える必要はなさそうだ。
高校生の財布に優しい判断である。
店では何着か試着してみた。
驚いたことに、サイズが違うだけで随分と印象が変わる。
これまで服に求めていたのは、着られるかどうかだけだった。
どうやら、服というのは着られればいいというものでもないらしい。
なかなか奥が深い。
*
それから数日後の日曜日。
買った服を着て、出かける準備をしていた。
無地のシャツに、落ち着いた色のパンツ。
これまでの俺からすれば随分と気を遣っているが、別に派手な格好ではない。
鏡を見る限り、悪くないと思う。
「……悠真?」
リビングから出てきた涼音が、こちらを見た。
「何だ?」
「……その服、新しいやつ?」
「ああ」
「ふーん」
涼音は俺を上から下まで眺めた。
相変わらず遠慮のない視線である。
「……前よりはマシになったじゃん」
「そうか」
「何その反応」
「いや、特に」
実際、少し嬉しかった。
美容室のときもそうだが、涼音は気に入らないものを無理に褒めたりしない。
こいつが改善を認めるなら、少なくとも以前よりは良くなっているのだろう。
「ていうか、急にどうしたの? 最近」
「何が?」
「髪切ったり、服買ったり。今まで全然気にしてなかったじゃん」
「まあ、ちょっと思うところがあってな」
「……ふーん」
それ以上、涼音は追及してこなかった。
失恋をきっかけに身だしなみを見直した、というだけの話だ。
わざわざ説明することでもないだろう。
俺は鞄を肩にかけた。
すると、涼音が何かに気づいたように顔をしかめる。
「……あんたさ」
「何だ?」
「そのキーホルダー、まだつけてるんだ」
鞄についているキーホルダーを見下ろす。
以前から気に入って使っているものだ。
「そりゃ、つけてるけど」
「せっかく服はまともになったのに、そういうところは相変わらずダサいよね」
「そうか?」
「うん。私はダサいと思う」
随分とはっきり言う。
まあ、いつものことだが。
「外さないの?」
「外さないな」
「……ほかはあんなに素直に直してたくせに?」
「毛玉は好きでつけてたわけじゃないからな」
「……は?」
「いや、そこが違うだろ」
「何がよ」
「毛玉も寝癖も、別に気に入ってたわけじゃない。だから直した。でも、これは気に入ってるからつけてるんだ」
涼音はキーホルダーを見た。
それから、俺の顔を見る。
「……女子にダサいって思われても?」
「それは仕方ないだろ」
「仕方ないんだ」
「好きなものまで隠して付き合うのも違うと思うしな」
別に、すべての女子に好かれたいわけではない。
少なくとも、今度誰かを好きになったとき、身だしなみくらいはきちんと整えておきたい。
だが、それと自分の好きなものを捨てることは別の話だ。
そもそも、キーホルダー一つで嫌われるのだとしたら、俺たちはあまり相性が良くないのではないだろうか。
「…………」
涼音が黙った。
珍しい。
何か反論でも考えているのだろうか。
「……まあ、別にいいんじゃない」
「ん?」
「悠真が気に入ってるなら、それで」
「ダサいんじゃなかったのか?」
「だから、私はダサいと思うって言ってるでしょ」
「そうだな」
「でも、別に外せとまでは言ってないし」
「確かに」
涼音は一度、キーホルダーに目を向けた。
「……あんた、そういうのは気にするんだ」
「そういうの?」
「自分の好きなものとか」
「まあな」
「ふーん」
何とも曖昧な返事である。
ただ、先ほどまでのように馬鹿にしてくる様子はなかった。
「……何よ」
「いや、珍しくそれ以上言わないんだなと思って」
「何? もっと悪口言ってほしいわけ?」
「そんなわけあるか」
「じゃあ黙って出かければ?」
ごもっともである。
俺は靴を履き、玄関のドアに手をかけた。
……なるほど。
服装の改善は成功したらしい。
キーホルダーの評価については、残念ながら変わらなかったようだが。
まあ、それはそれで構わない。
俺は気に入っているのだから。
*
「……ねえ、悠真。聞いてる?」
「聞いてるぞ」
「じゃあ、今何の話してた?」
「……プリン?」
「それ五分前の話。今は明日のゴミ出しが悠真の番だって話」
「重要事項を次々に重ねないでくれ」
「一個しか重要事項ないでしょ」
涼音が呆れたようにため息をついた。
俺はソファに座り、スマホから顔を上げる。
「ていうか、人と話してるときくらいスマホ置きなよ」
「別に聞こえてないわけじゃないぞ」
「聞こえてるだけじゃん。あんた、全然こっち見ないし」
「…………」
「何?」
「いや、確かにそうだなと思って」
「……は?」
またしても妙な顔をされた。
だが、涼音の言い分はもっともだ。
自分が話しているとき、相手がずっとスマホを眺めていたら、あまりいい気分はしないだろう。
聞いているつもりでも、相手にそう伝わらなければ意味がない。
「分かった。次から気をつける」
「……素直すぎて気持ち悪いんだけど」
「人が反省してるんだから、そこは素直に受け取れよ」
「普段の行いを反省してから言って」
ひどい言われようである。
もっとも、言われるだけの心当たりはあった。
それから俺は、人と話すときにはなるべくスマホを置くようにした。
相手の顔を見て、話を最後まで聞く。
たったそれだけのことだ。
今までできていなかったのが、少々情けない。
*
数日後。
学校から帰ってリビングに入ると、見覚えのある光景が広がっていた。
テーブルに突っ伏した人間が一人。
涼音だった。
……懐かしいな。
少し前にも、まったく同じ光景を見た気がする。
ただし、そのとき突っ伏していたのは俺だが。
「……何してるんだ、涼音」
「……見れば分かるでしょ」
「失恋したのか?」
「違うわよ!」
勢いよく顔を上げた。
元気そうで何よりである。
「このテーブルでその姿勢になると、失恋した可能性が高いからな」
「前例一件しかないでしょ」
「確かに。統計としては不十分だった」
「何の統計取ってんのよ……」
涼音は再びテーブルに突っ伏した。
いつもなら、ここでもう一言くらい悪口が飛んでくるところだ。
しかし、今日はそれきり黙ってしまった。
どうやら本当に何かあったらしい。
俺は向かいの椅子に座った。
「……何かあったのか?」
「…………」
「まあ、言いたくないならいいけど」
「……別に」
涼音は顔を伏せたまま、小さく答えた。
「……今日、友達にちょっと言いすぎた」
「そうなのか」
「……うん」
それ以上は話さなかった。
俺も無理に聞くつもりはない。
しばらくすると、涼音が顔を上げた。
「……ねえ、悠真」
「何だ?」
「私って、そんなに性格悪い?」
「口は悪いな」
「即答するな!」
「聞かれたから答えたんだが」
「そこは少しくらい考えてから答えなさいよ!」
なるほど。
人の話を聞く姿勢は改善したが、返答の仕方にはまだ問題があるらしい。
「……やっぱり、そう思うよね」
涼音は再び視線を落とした。
……まずい。
いつもの調子で答えたが、今のは少々無神経だったかもしれない。
「でも、口が悪いのと性格が悪いのは別だろ」
「……何それ」
「俺はお前の言うこと、結構信用してるぞ」
「……は?」
涼音が顔を上げる。
「何で?」
「間違ったことを言ったら訂正するし、直したところはちゃんと認めるからな」
「…………」
「髪切ったときもそうだっただろ。あれから髪型については何も言わなくなったし」
「……だって、前よりマシになったんだから当たり前じゃん」
「そういうところだよ」
涼音が不思議そうな顔をした。
「何が?」
「お前、悪口は言うけど、何でもかんでも否定するわけじゃないだろ」
少なくとも、俺が知る限りではそうだ。
涼音は思ったことを遠慮なく口にする。
お世辞もほとんど言わない。
ただし、自分が間違っていたと分かれば訂正するし、相手が変われば評価も変える。
そこは信用できると思っていた。
「まあ、言い方はもうちょっと考えたほうがいいと思うけどな」
「……結局そこに戻るわけ?」
「事実だからな」
「ほんっと、悠真って最近生意気になったよね」
「前から年上なんだが」
「そういう意味じゃない!」
ようやく、いつもの調子が戻ってきた。
少しは気が紛れたのだろうか。
「……でもさ」
涼音がぽつりと言った。
「言ったこと自体は、間違ってないと思うんだよね」
「そうなのか」
「……うん。でも、あんな言い方しなくてもよかったかなって」
「じゃあ、それを伝えればいいんじゃないか?」
「……簡単に言うね」
「簡単かどうかは知らん。でも、お前が言いすぎたと思ってるなら、そこは謝ってもいいんじゃないか」
涼音はしばらく考え込んでいた。
それから、小さく息を吐く。
「……まあ、そうだよね」
「うん」
「……明日、ちょっと話してみる」
「そうか」
それならよかった。
友達との問題がどうなるかは分からないが、少なくとも俺が口を出すことでもないだろう。
涼音はテーブルから体を起こすと、こちらを見た。
「……ていうか、悠真」
「何だ?」
「さっきからずっとこっち見てない?」
「話してるからな」
「…………」
「前に、お前が人の顔を見て話せって言っただろ」
「……言ったけど」
「何かおかしいか?」
「……別に」
涼音はなぜか目を逸らした。
……何だ?
今のも何か間違っていたのだろうか。
「……あんたさ」
「うん?」
「……いや、何でもない」
「何だよ、気になるだろ」
「何でもないって言ってるでしょ」
そう言って、涼音は立ち上がった。
「……まあ、話聞いてくれてありがと」
「おう」
「でも、口悪いって言われたのは忘れないから」
「そこは忘れてもいいぞ」
「絶対忘れない」
どうやら余計な恨みを買ってしまったらしい。
まあ、いつものことか。
涼音は自室へ戻っていった。
俺はスマホを手に取り、ふと思う。
少し前まで、俺があのテーブルに突っ伏していた。
あのときは涼音の言葉に散々傷つけられたものだが、今度は少しくらい役に立てただろうか。
……いや。
口が悪いと即答した時点で、あまり偉そうなことは言えないか。
次はもう少し言い方を考えよう。
*
「……何その顔」
夕食後、リビングでくつろいでいると、涼音にそんなことを言われた。
「どの顔だ?」
「なんか、妙に機嫌よさそうな顔」
「そうか?」
「うん。ちょっと腹立つ」
「機嫌がいいだけで悪口を言われるのか、俺は」
実際、今日は少し気分がよかった。
別に宝くじが当たったわけでも、テストで満点を取ったわけでもない。
ただ、ちょっとした嬉しいことがあったのだ。
「今日、クラスの女子に褒められてな」
「……は?」
「最近、前よりちょっと格好よくなったって言われた」
「…………へえ」
随分と間のある返事だった。
「もっと驚くかと思ったんだが」
「何で私が驚くのよ」
「いや、お前には今まで散々ダサいと言われてきたからな」
「事実だったんだから仕方ないでしょ」
相変わらず容赦がない。
「……で、誰に言われたの?」
「同じクラスの女子だけど」
「それは分かってる。誰って聞いてんの」
「名前を聞いてどうするんだ?」
「……別に。聞いてみただけ」
涼音はそう言って、手元のスマホに目を落とした。
何だ。気になるなら教えてもいいんだが。
「……それで?」
「ん?」
「その子と、何かあるわけ?」
「いや、別に何もないぞ」
「……ふーん」
「褒められたくらいで何かあるなら、俺も今ごろ苦労してないだろ」
「……まあ、それはそうか」
妙に納得された。
少し傷ついた。
「でも、嬉しかったんだよ」
「……何が?」
「努力した甲斐があったなと思ってさ」
髪型を変え、服装を見直し、最近では人との話し方にも気をつけるようになった。
どれも大したことではない。
ただ、今まで何もしてこなかった俺にとっては、それなりの変化だった。
「まあ、涼音には今まで散々言われてきたからな」
「……何を?」
「服がダサいとか、髪がひどいとか」
「だって、ひどかったじゃん」
「否定はしない」
むしろ、あいつが遠慮なく言ってくれなければ、今でも気づかなかったことが多いだろう。
もっとも、本人に感謝するつもりはない。
礼を言ったところで、調子に乗るのが目に見えている。
「……それで、悠真はどうしたいわけ?」
「どうしたいって?」
「そんなに格好よくなりたいの?」
「まあ、少なくとも前よりはな」
「……ふーん」
「次に好きな人ができたら、今度はもう少し自信を持って告白したいし」
「…………」
涼音の指が止まった。
「……次に?」
「ああ」
「……もう好きな人いるの?」
「いや、まだいないけど」
「……そう」
涼音はスマホを伏せた。
「でも、また誰か好きになるんでしょ」
「そりゃ、いつかはな」
「…………」
「前は、振られたこともそうだけど、自分が何もしてなかったのが結構悔しかったからさ」
「……うん」
「次は少なくとも、やれることはやったって思えるようにしたいんだよ」
涼音は何も答えなかった。
さっきまで普通に話していたのに、急に静かになってしまった。
「……涼音?」
「…………」
「聞いてるか?」
「……聞いてるし」
そう言って、涼音がこちらを見た。
なぜか少し驚いたような顔をしていた。
「……どうした?」
「……別に」
「何か変なこと言ったか、俺」
「言ってない」
「じゃあ、何だよ」
「……何でもないってば」
涼音は目を逸らした。
そして、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……まあ、よかったんじゃない」
「ん?」
「格好よくなったって言われたんでしょ。よかったじゃん」
「……ああ。ありがとな」
「別に、私が褒めたわけじゃないし」
「そうだったな」
涼音は立ち上がった。
「……私、部屋戻る」
「もう?」
「何よ」
「いや、さっきまでここにいるつもりだったみたいだから」
「気が変わったの」
「そうか」
「……うん」
涼音はそのままリビングを出ていった。
妙だな。
あいつにしては、随分とおとなしかった。
いつもなら、俺が女子に褒められたなどと言おうものなら、もう少し悪口が飛んできそうなものだが。
……まあ、たまにはそういう日もあるか。
*
ここ数日、涼音の様子がどうもおかしい。
最初は気のせいだと思っていたが、こうも続くと、さすがに気になる。
「ただいま」
「あ、おかえり。……私、部屋戻るね」
「ああ」
リビングでテレビを見ていた涼音が、リモコンを置いて立ち上がる。
まだ番組の途中だったが、いいのだろうか。
まあ、録画でもしているのかもしれない。
その翌日。
「涼音、冷蔵庫のプリン食べるか?」
「……あとで食べる」
「そうか」
「……うん」
会話終了。
以前なら、俺がプリンの話をしただけで何かしら文句をつけてきたものだが。
……いや、さすがにそこまでひどくはなかったか。
とにかく、最近の涼音は妙におとなしい。
俺がリビングに入ると、なぜか用事を思い出したように出ていく。
廊下ですれ違っても、ほとんど目を合わせない。
話しかけても、返事は短い。
そして、何より気になるのが。
「……涼音」
「何?」
「俺、何かしたか?」
「……は? 何で?」
「いや、最近あんまり話さないから」
「別に、普通だけど」
「そうか?」
「そうだよ」
涼音はそれだけ言うと、自室に戻ってしまった。
……普通、ねえ。
二年間一緒に暮らしてきたが、涼音がこんなに物静かな人間だった記憶はない。
もちろん、こいつだって常に悪口を言っているわけではない。
機嫌が悪い日もあれば、一人でいたい日だってあるだろう。
ただ、ここまで続くと、さすがに気になる。
最初は俺の身だしなみが改善されたから、文句を言うことがなくなったのだと思っていた。
それならいい。
むしろ、努力した甲斐があったというものだ。
だが、どうもそれだけではないらしい。
以前は、くだらないことでよく言い合いになった。
俺が何か言えば涼音が茶々を入れ、俺が言い返せば、さらに余計な一言が飛んでくる。
正直、面倒くさいと思うことも多かった。
それなのに。
……最近は、何だか物足りない。
別に悪口を言われたいわけではない。
そこは誤解しないでほしい。
ただ、あいつと話す機会まで減ってしまうのは、どうにも落ち着かなかった。
それに、もし俺が何か気に障ることをしたのなら、以前の涼音ならとっくに文句を言っているはずだ。
黙って避けられるほうが、よほど困る。
*
その日の夜。
リビングに行くと、涼音がソファに座っていた。
俺に気づくと、ちらりと顔を上げる。
「……あ」
「ああ」
「……私、そろそろ部屋戻るから」
そう言って、立ち上がった。
……またか。
偶然というには、いくら何でも重なりすぎている。
「涼音、ちょっといいか」
「……何?」
涼音が足を止めた。
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「最近、俺のこと避けてないか?」
「……は?」
涼音が怪訝そうな顔をした。
「何それ。自意識過剰じゃない?」
「いや、実際に避けてるだろ」
「避けてないし」
「俺がリビングに来ると部屋に戻るし、最近まともに目も合わせないじゃないか」
「……たまたまでしょ」
「三日続いてるぞ」
「……数えてたの? 気持ち悪いんだけど」
数えるつもりはなかった。
覚えてしまったのだから仕方がない。
「俺、何かしたか?」
「……別に」
「何か怒ってるなら言ってくれよ」
「だから、怒ってないってば」
「じゃあ、嫌われたのか?」
「違う!」
思いのほか大きな声が返ってきた。
涼音は自分でも驚いたように口をつぐむ。
「……違うから」
「そうなのか」
「……うん」
なら、ますます分からない。
怒っているわけでも、嫌われたわけでもない。
それなら、なぜ避ける必要があるのだろう。
「……何よ」
「いや、理由が分からなくてな」
「別に理由なんてないって」
「でも、前みたいに話せないの、ちょっと寂しいんだけど」
「…………」
涼音が固まった。
何かおかしなことを言っただろうか。
「……そういうの」
「ん?」
「そういうこと、簡単に言わないでよ」
「簡単って、実際そう思ってるからな」
「……だから、そういうところが嫌なのよ」
「どこだ?」
「何でもない顔して、そういうこと言ってくるところ!」
「いや、普通に寂しいから言っただけだぞ」
「だから! これ以上好きになったらどうすんのよ!」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
涼音の顔から、みるみる血の気が引いていく。
いや、違う。
むしろ、耳まで赤くなっている。
「……これ以上?」
「…………っ!」
涼音が口を開き、閉じた。
それから、何かを振り払うように首を横に振る。
「今のは言葉の綾! 女の子にそういうこと簡単に言うなって話!」
「……ああ、そういうことか」
「そうよ!」
「でも、俺は涼音にしか言ってないぞ」
「…………!」
また黙ってしまった。
……おかしい。
いつもなら、このあたりで俺が何かしら罵倒されているはずなのだが。
涼音は俯いたまま、ぎゅっと拳を握っていた。
「……もういい」
「涼音?」
「とにかく! 変な勘違いしないでよね!」
「いや、まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてある!」
「どんな顔だよ」
「知らない!」
理不尽にもほどがある。
そう言い返そうとしたところで、涼音が顔を上げた。
目が合う。
……あ。
何だろう。
いつも見慣れているはずの顔なのに、妙に落ち着かない。
涼音は一瞬だけこちらを見て、すぐに目を逸らした。
「……もう寝る!」
「あ、おい」
返事もせず、涼音は足早にリビングを出ていった。
廊下を歩く音が遠ざかり、二階で扉が閉まる。
残された俺は、その場に立ち尽くしていた。
『これ以上好きになったらどうすんのよ!』
涼音の声が頭の中で再生された。
……これ以上?
……涼音が、俺を?
急に顔が熱くなった。
何だ、これ。
さっきまで、いつもの義妹と話していただけのはずなのに。
あいつの真っ赤になった顔が、妙に頭から離れない。
二年間も一緒に暮らしてきて、こんなことを考えたのは初めてだった。
……とりあえず、今日はもう寝よう。
今の俺には、何を考えてもまともな答えが出せそうになかった。
*
翌朝。
俺はリビングの入り口で立ち止まっていた。
この家に住んで二年。
朝食を食べるために、わざわざ心の準備をする日が来るとは思わなかった。
原因は分かっている。
中に涼音がいるのだ。
……いや、別に何かあったわけじゃない。
昨日のあれは言葉の綾らしいし、俺が勝手に意識しているだけかもしれない。
それでも、あの言葉が頭から離れない。
「……何してんの?」
「うおっ」
考え込んでいると、いつの間にか涼音が目の前に立っていた。
「……何その反応」
「いや、何でもない」
「……ふーん」
「…………」
「…………」
気まずい。
何だ、この空気は。
昨日までは顔を合わせるだけで普通に悪口が飛んできたというのに。
「……おはよう」
「……おはよ」
挨拶をするだけで、妙に緊張する。
涼音もこちらをちらりと見て、すぐに目を逸らした。
……やっぱり、あいつも昨日のことを気にしているのだろうか。
「……とりあえず、朝飯食うか」
「……うん」
俺はいつもの席に座った。
涼音の向かいだ。
今まで何の疑問もなく座っていた席なのに、今日はやけに距離が近く感じる。
ちらりと涼音を見る。
すると、向こうもちょうどこちらを見ていた。
目が合った。
二人同時に視線を逸らす。
「…………」
「…………」
……駄目だ。
どう考えてもおかしい。
「……ねえ、悠真」
「な、何だ?」
「……何でそんなに落ち着きないの?」
「いや、別に」
「さっきからこっち見たり、目逸らしたり」
「……お前だってそうだろ」
「私は別に普通だけど」
「そうか」
「……うん」
また沈黙が訪れた。
普通とは何だっただろうか。
少なくとも、今の俺たちに当てはまる言葉ではないと思う。
「……ていうかさ」
「何だ?」
「人と話してるときくらい、ちゃんと顔見なさいよ」
「……お前が前にそう言ったから、気をつけてるんだが」
「だったら見ればいいじゃん」
「……そうだな」
俺は涼音に顔を向けた。
涼音もこちらを見る。
「…………」
「…………」
……近い。
いや、距離はいつもと変わらない。
なのに、目が合った瞬間、心臓が妙にうるさくなった。
昨日の涼音の顔が頭に浮かぶ。
耳まで赤くして、あんなことを言った涼音が。
「……っ」
思わず目を逸らした。
「……何で逸らすのよ」
「……すまん」
「…………」
「…………」
「……まあ、別にいいけど」
涼音も俯いてしまった。
その耳が少し赤く見えて、俺はますます顔を上げられなくなる。
「……悠真」
「何だ?」
「……昨日のこと」
心臓が跳ねた。
「……ああ」
「…………」
「…………」
「……やっぱ何でもない」
「……そうか」
「……うん」
もう何が何だか分からない。
ただ、一つだけはっきりしている。
昨日まで、こんなことはなかった。
「……あんたさ」
「……何だ?」
「今日、ほんっと変なんだけど」
「……お前もな」
「……うっさい」
久しぶりに聞いた悪口だった。
いつもなら適当に言い返して終わるところだが、今日はそれすら上手くできない。
涼音がちらりとこちらを見た。
俺も、つられて顔を上げる。
そしてまた、二人同時に目を逸らした。
人の顔を見て話す。あれだけ簡単に改善できたはずのことが、今はどうにも難しかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




