第7話:幻の区間新記録
1月2日。午前8時。
東京・大手町の読売新聞社前から、第9X回・東京箱根間往復大学駅伝競走の号砲が鳴り響いた。
日本の正月における最大のエンターテインメント。
視聴率30%超え、沿道には100万人以上の観衆。
21本のタスキが、栄光のゴールを目指して動き出す。
だが、俺——湊カケルにとっては、これは「祭り」ではない。
巨大なシステムへの、ハッキングの実行日だ。
***
午前9時過ぎ。
横浜市・鶴見中継所。
各校のエースたちが、今か今かとタスキを待って身体を動かしている。
駒澤、青山、東洋……。
強豪校のユニフォームが放つオーラは凄まじい。
テレビカメラも彼らを中心に映している。
その外れ、中継所の端っこに、俺は立っていた。
着ているのは、白地に赤の斜めラインが入ったシンプルなユニフォーム。
胸には『関東学生連合』の文字。
背負う大学名も、守るべき伝統もない、寄せ集めの「敗者連合」だ。
「……遅いな」
俺は冷たい風に吹かれながら、コースの彼方を見つめた。
学生連合の1区走者は、予選会個人11位の選手だ。悪くない選手だが、本戦のハイペースにはついていけないだろう。
「来たぞ! 先頭は駒澤!」
「続いて青山!」
歓声が沸き起こる。
トップのエースたちが、次々とタスキを受け取り、23.1kmの旅路へと弾丸のように飛び出していく。
俺はそれを、ただ見送った。
1分経過。
2分経過。
まだ来ない。
テレビ中継の実況が、既に2区の先頭争いに熱中しているのが、イヤホン越しに聞こえる。
学生連合のことなど、誰も気にしていない。
「……湊!」
トップから遅れること2分45秒。
ようやく、学生連合の1区走者が姿を現した。
顔は蒼白で、足元はふらついている。
順位は20番目。事実上の最下位だ。
「悪い……頼む……!」
「ああ、任せろ」
俺は汗で濡れたタスキを受け取り、肩にかけた。
重くはない。
むしろ、軽い。
背負うものがないというのは、これほどまでに自由なのか。
俺は静かに、しかし爆発的な初速で、アスファルトを蹴った。
ハッキング・スタート。
***
2区。通称「花の2区」。
距離は全区間最長の23.1km。
権太坂の長い登りと、ラスト3kmの「戸塚の壁」が待ち受ける、各校のエース専用区間だ。
俺の前には、19人のランナーがいる。
その差、最大約1km。
絶望的な距離に見えるかもしれない。
だが、俺の計算では、彼らはただの「マイルストーン(道標)」でしかない。
「……1匹」
1km地点。
前を走っていた国士舘大の選手を、風のように抜き去った。
相手は気づきもしなかっただろう。
俺の走りは、足音を消し、気配を消す「ステルス走法」の進化系だ。
だが、速度だけはステルスではない。
最初の3km通過タイム——8分15秒。 区間記録を上回る超ハイペース。
「おい、学生連合が速いぞ!?」
「なんだあのペース!?」
沿道の観客がざわめき始める。
俺は視線など無視して、淡々と「作業」を続けた。
3km地点で2人抜き。
5km地点でさらに3人抜き。
まるで高速道路で原付バイクを追い越すスポーツカーのように、俺は他校のエースたちを過去へと置き去りにしていく。
そして、迎えた難所「権太坂」。
ダラダラと続く長い登り坂に、多くのランナーが顔を歪める場所だ。
(……坂か。懐かしいな)
俺は思わず笑みをこぼした。
高校時代の通学路に比べれば、こんなものは坂ですらない。
ただの「傾いた平地」だ。
ここで、俺のギアが入った。
アスナによって改造された心肺機能と、ママチャリ通学で培われた大腿筋が共鳴する。
ゴッ!!
俺は登り坂で「加速」した。
重力を推進力に変換する。
坂を登るのではない。坂を食らうのだ。
「えええええッ!?」
「登りで加速したぞ!?」
権太坂の中腹。
そこには、第2集団を形成していた5校の選手たちがいた。
明治、早稲田、順天堂……。
名門校のユニフォームが固まっている。
俺はその集団を、外側から一瞬でぶち抜いた。
ごぼう抜き。
5人が一気に後ろへ消える。
実況アナウンサーの絶叫が聞こえてきた。
『学生連合の湊! なんだこの走りは! 権太坂を、まるで平地のように駆け上がっていきます! これで12人抜き! 前代未聞のペースです!』
カメラバイクが、慌てた様子で俺に並走し始めた。 レンズが俺の顔を捉える。 俺はカメラに向かって、無表情で視線を送った。 見ろ。 これが元「帰宅部」の走りだ。
***
15km地点。 俺はついに、先頭集団の背中を捉えた。 そこには、今大会最強のランナーとされる、東京国際大のケニア人留学生、「黒い弾丸」がいた。 そして、青山学院のエースも。
本来なら、学生連合の選手が絡むことなどあり得ない領域だ。
「……嘘だろ」
青山のエースが、横に並んだ俺を見て驚愕の表情を浮かべた。
無理もない。
3分近く遅れてスタートしたはずの「白い亡霊」が、真横にいるのだから。
「道を空けろ」
俺は短く告げ、さらに足を回転させた。
ラスト3km。「戸塚の壁」。
壁のように立ちはだかる急勾配。
ここで、多くのランナーが足を止める。
だが、俺にとってはここが「ホームグラウンド」だ。
山梨の山奥、毎日越えていたあの峠に比べれば、この程度の壁は低い。
俺は留学生ランナーとの一騎打ち(マッチレース)に挑んだ。
長い手足から繰り出されるストライド走法に対し、俺は高回転のピッチ走法で対抗する。
登り坂でのトルク勝負なら、負けない。
「Haaaaaaaaaaaaa!!」
留学生が吠えてスパートをかける。
俺は無言で、さらにその上を行く。
筋肉の繊維一本一本まで意識を行き渡らせ、限界を超えて出力を絞り出す。
残り1km。
俺は留学生を突き放した。
単独走。
目の前には、誰もいない。
あるのは中継所の白いラインだけ。
歓声が轟音となって降り注ぐ中、俺は戸塚中継所へと飛び込んだ。
タスキを外し、待っている3区の走者の手へと叩きつける。
「……任せたぞ」
俺は膝に手をついて、電光掲示板を見上げた。
***
会場が静まり返っていた。
表示されたタイム。
それは、陸上界の常識を覆す数字だった。
2区 湊カケル(関東学生連合)
記録:1時間04分30秒
ざわめきが波紋のように広がる。 昨年までの区間記録は、1時間05分49秒。 それを1分以上も短縮する、人類未踏の大記録だ。
『く、区間新記録……!? いや、待ってください!』
実況アナウンサーが狼狽している。
掲示板の数字の横に、小さな注釈文字が点灯したからだ。
※参考記録(OP)
学生連合はオープン参加。
チームの順位がつかないのと同様に、個人の記録も公式な区間記録としては認定されない。
あくまで「参考」だ。
俺が叩き出した1時間4分30秒は、歴史に残らない。
公式記録上、区間賞は俺より1分遅い留学生ランナーのものになる。
「……ははっ」
俺は乾いた笑いを漏らした。
最高だ。
これ以上ないくらい、皮肉で、そして強烈な結末だ。
俺はマイクを持ったインタビュアーが駆け寄ってくるのを制し、テレビカメラに向かって指を立てた。
「見たか、全国のランナーたち」
息を切らしながらも、はっきりと告げる。
「今日の区間賞は俺じゃないらしい。ルールだからな。
だが、誰が一番速かったかは、見ていた全員が知っているはずだ」
レンズの向こうにいる、まだ見ぬ「天才たち」に向けて、俺はメッセージを送る。
「この記録は『幻』だ。
だが、俺は来年、星雅大学のユニフォームで戻ってくる。
その時、この幻を『現実(公式)』に変える。
……俺と一緒に歴史をハックしたい奴は、星雅に来い」
言い終えると同時に、俺はカメラの前から立ち去った。
運営スタッフが慌てているが、知ったことではない。
俺の仕事は終わった。
1時間4分30秒という、強烈な「名刺」を全国にばら撒いた。
これ以上の広告はないだろう。
フェンスの向こうで、アスナが泣きながら笑っているのが見えた。
彼女のスマホには、既にSNSで『#幻の区間新』『#カケル無双』といったワードがトレンド入りしているのが表示されていた。
幻影の2区。
記録なきエースの伝説が、ここから始まる。




