第6話:立川の独走
10月半ば。
東京都立川市、陸上自衛隊立川駐屯地。
広大な滑走路を、鉛色の空が覆っていた。
気温18度、湿度60%。微風。
長距離走には少し蒸すが、悪くないコンディションだ。
「……ふぅ」
俺、湊カケルは、スタート地点の最後尾付近でシューズの紐を締め直していた。
周りには、色とりどりのユニフォームを着た大学生たちがひしめき合っている。
その数、約500人。
各大学のエリートランナーたちが放つ熱気と、制汗スプレーとエアーサロンパスの匂いが混じり合い、独特の殺気を作り出している。
箱根駅伝予選会。
ハーフマラソン(21.0975km)を一斉に走り、各校上位10人の合計タイムで競う、残酷な椅子取りゲーム。
上位10校のみが、正月の箱根路への切符を手にする。
「先輩、顔色が悪いですよ。緊張ですか?」
フェンス越しに、マネージャーエリアからアスナが声をかけてきた。
彼女は手元のタブレットで気象データをチェックしながら、涼しい顔をしている。
「緊張? まさか。
この半年間、お前に食わされた謎のプロテイン団子と、酸素濃度を限界まで下げた拷問部屋での日々に比べれば、ここは天国だ」
俺は皮肉を返した。
この半年は地獄だった。
アスナは「先輩の筋肉は一度死にました。だから蘇生させます」と言い放ち、科学的かつ非人道的なメニューを俺に課した。
おかげで、今の俺の身体は高校時代と大差ないほど仕上がっている。 特に脚の筋肉は、鋼鉄のワイヤーのように引き締まっていた。
「作戦の確認です」
アスナが声を潜めた。
「チームの目標順位は……ありません。全員、完走すればOKです」
「ああ」
「でも、学生連合の監督は、予選会のタイムが良い順に希望区間を割り振る傾向があります。 つまり先輩は……」
「——1位しかない」
俺は立ち上がり、軽くジャンプして身体をほぐした。
「そうです。 誰が見ても文句のつけようがない、圧倒的な結果が必要です。
留学生だろうが、有名校のエースだろうが、関係ありません」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見据え、命令を下した。
「——全員、ぶち抜いてください。 全体1位でゴールして、指定席を力ずくで奪い取ってください」
俺はニヤリと笑った。
無茶苦茶を言う。
だが、その方が俺の性には合っている。
「任せておけ。 ……最初からトップギアで行くぞ」
パンッ!
乾いた号砲が、立川の空気を切り裂いた。
500人のランナーが一斉に動き出す。
地鳴りのような足音が響き渡る中、俺はスタート直後から集団の外側に飛び出した。
***
最初の5km。駐屯地の滑走路。
ここは平坦で風除けがない。通常は集団で走って体力を温存するのがセオリーだ。
実際、中央大学や明治大学といった強豪校は、綺麗な隊列を組んでペースを管理している。
だが、俺はそれを無視した。
「……遅い」
俺は集団の横を、まるで倍速再生のように駆け抜けた。
キロ2分55秒。
ハーフマラソンとしては自殺行為に近いハイペースだ。
「おい、なんだあいつ!?」
「星雅大? 聞いたことねえぞ!」
「最初だけの目立ちたがり屋だろ、放っておけ!」
他校の選手たちが嘲笑する声が聞こえる。
構わない。お前らとは見ている景色が違う。
俺が見ているのは、この先頭にいる「黒い弾丸」たちだ。
先頭集団。 そこには、日本薬科大や拓殖大のケニア人留学生たちがいた。 彼らは異次元のバネで、日本人集団を遥か後方に置き去りにしている。 そのペースはキロ2分50秒後半。
(……追いつくぞ)
俺はさらに加速した。
ママチャリで培ったハムストリングスが唸る。
地面を蹴るのではなく、骨盤で地面を捉え、重心移動だけで滑るように進む。
エネルギーロスを極限まで排除した、カケル式・最適化走法。
10km地点。昭和記念公園入り口。
俺は、先頭を走る留学生集団の背中を捉えた。
「なっ……!?」
沿道の観客がどよめく。
留学生集団の中に、たった一人、無名の日本人が混ざったのだ。
しかも、まだ息が上がっていない。
「嘘だろ……あいつ、ケニア勢についていってるぞ!」
「星雅大の湊……? 誰だ!?」
留学生の一人が、驚いたように俺を見た。
俺は無表情で並走する。
ここからが本番だ。
公園内のアップダウン。俺の得意領域。
登り坂に差し掛かる。
留学生たちがわずかにペースを落とす。
俺は——落とさない。
ガッ、とギアを上げる。
登り坂こそ、俺の加速装置だ。
「Goodbye」
俺は短く呟き、留学生集団を一気に突き放した。
衝撃で、彼らのリズムが崩れるのがわかった。
15km地点。
独走態勢。
後ろを振り返る必要はない。
足音はもう聞こえない。
俺は孤独な先頭をひた走る。
テレビの中継車が、慌てて俺にカメラを向ける。
実況のアナウンサーが絶叫しているのが聞こえる。
「先頭はまさかの星雅大学、湊! 留学生を置き去りにして、独走です! なんだこの速さは! 歴史的なタイムが出るぞ!?」
残り1km。
最後の直線。
観客たちの視線が、全て俺に注がれている。
「誰だあれは」という困惑が、「すげえ」という驚嘆に変わっていく。
これが、俺の求めていた「ハック」だ。
無名の弱小校が、力だけでシステムをねじ伏せる。
俺は残った力を全て振り絞り、ゴールラインへと飛び込んだ。
***
「……タイム、60分50秒!!」
計測員の声が裏返った。
会場が静まり返り、一拍置いてから爆発的な歓声に包まれた。
60分台。
それは、日本人学生記録に迫る、超一級のタイムだった。
もちろん、留学生を含めても堂々の「全体1位」だ。
「はぁ……はぁ……」
俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。 これなら、文句はないだろう。
「先輩ッ!!」
アスナがフェンスを乗り越えんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
彼女の目には涙が……いや、興奮で血走っているだけか。
「やりました! 全体トップ! しかも60分台! これなら2区は確定でしょう!」
「……ああ。キツかったぞ、鬼監督」
俺はタオルを受け取り、汗を拭った。
電光掲示板には、チーム成績が表示されている。
『第38位 星雅大学』
ボーダーの10位には全く届いていない。
チームメイトたちは、俺の快走を見てポカンとしている。
そのギャップが、余計に俺の存在を際立たせていた。
記者たちが雪崩のように押し寄せてくる。
「湊選手! 今の気持ちは!?」
「その走りの秘密は!?」
「星雅大学とはどんなチームなんですか!?」
俺はマイクの林に向け、短く言い放った。
「チームは負けました。
ですが、俺は正月に箱根に行きます。
2区を空けて待っておいてください。……本当の勝負は、そこからです」
フラッシュの嵐。
その光の中で、俺は確信した。
箱根へのバックドア(裏口)は開いた。
あとは、本番で「幻影」を見せるだけだ。
こうして、星雅大学・湊カケルは、予選会トップ通過という「最強の敗者」として、箱根駅伝への切符を手にした。
花の2区。
そこが、俺の、そしてアスナの野望のスタートラインになる。




