第5話:悪魔の契約とプランB
星雅大学男子陸上部の「改革」は、飴と鞭……というより「激甘の毒飴」と「鋼鉄の鞭」によって成し遂げられた。
「さあ皆さん、あと1セットです! 終わったら、女子部の合宿所からくすねてきた……いえ、差し入れてもらった特製プロテインスイーツがありますよ!」
「うおおおお! 星野ちゃんの手渡しなら死んでも食うううう!」
早朝のグラウンド。
ゾンビのように走る男子部員たちに対し、星野アスナは拡声器片手に檄を飛ばしていた。
彼女の手腕は見事だった。
「女子陸上部のアイドル」というブランドを最大限に利用し、男子部員たちの承認欲求と下心を掌握。
さらに、大学側にも「私が監視します」と根回しし、予算の幾ばくかをブン取ってきたらしい。
政治家か、お前は。
俺、湊カケルは、その様子をグラウンドの隅で冷めた目で見つめながら、自身の身体と向き合っていた。
「……酷いな、こりゃ」
手元のスマートウォッチに表示された心拍数データを見る。
軽いジョグをしただけで、心拍数が140を超えている。
高校時代なら、この程度では100も行かなかったはずだ。
筋肉の柔軟性も低下しており、可動域が狭い。
錆びついたマシン。それが今の俺だ。
「先輩、データはどうですか?」
部員たちのシゴキを一通り終えたアスナが、汗拭きタオルを首にかけて寄ってきた。
爽やかな笑顔だが、その目は獲物を狙う鷹のように鋭い。
「最悪だ。産業廃棄物レベルだな」 「リサイクルしましょう。私が磨き上げますから」
俺はベンチに座り、タブレットを取り出した。
「さて、星野。約束通り、俺の『プラン』を説明する」
「はい! どうやってこのチームを予選突破させるんですか? やっぱり、秘密の特訓とか?」
アスナが期待に目を輝かせる。
俺は鼻で笑った。
「寝言は寝て言え。あの連中を見ろ」
俺はグラウンドでへたり込んでいる部員たちを指差した。
「あいつらのハーフマラソンの持ちタイムは平均68分。予選通過ラインは63分前半。
半年後の予選会までに、全員のタイムを5分縮める?
ドーピングでもしない限り不可能だ。物理的に間に合わない」
「そ、それは……でも、先輩がエースとして引っ張れば……」
「俺が世界記録を出しても無理だと言ったろ。駅伝は『足し算』だ。マイナスが大きすぎれば、プラスで埋め合わせることはできない」
アスナの表情が曇る。
彼女もバカではない。感情論でどうにかなるレベルの差ではないことは理解している。
「じゃあ……どうするんですか? 諦めるんですか?」
「誰が諦めると言った?」
俺はタブレットの画面を切り替え、一つの資料を表示させた。
箱根駅伝の大会規定だ。
「チームとして箱根に行くのは、今年は捨てる。俺たちが目指すのは『来年』の優勝だ。
だが、そのためには今年、何らかの『実績』を残して、有望な新人をスカウトするための広告塔にならなきゃいけない」
「広告塔……?」
「そうだ。そのために、俺一人だけが箱根を走る」
俺は画面の一箇所を拡大して見せた。
『関東学生連合チーム編成要項』
そこには、こう記されている。
予選会で出場権を逃した大学の中から、予選会の個人成績上位者を選抜して混成チームを結成する、と。
「……学生連合」
「そうだ。通称『学連選抜』。
こいつは、予選会でチームが敗退しても、個人で速ければ選ばれる。
つまり、俺以外の9人がどれだけ遅くても関係ない。俺一人が予選会でトップ集団に入れば、俺は箱根駅伝を走れる」
アスナが息を呑む。
それは、チームスポーツである駅伝において、極めて利己的で、しかし合理的な「ハック(攻略法)」だった。
「でも先輩、学生連合は……順位がつきません。記録も『参考記録』扱いです。公式な区間賞ももらえません」
「だからいいんだ」
俺はニヤリと笑った。
「公式記録に残らない。だが、テレビには映る。
もし、その『参考記録』の男が、公式記録を持つ強豪校のエースたちをごぼう抜きにしたらどうなる?
幻のランナーが、現実の王者を叩き潰す。
……最高に痛快で、記憶に残るショーになると思わないか?」
アスナの瞳孔が開くのがわかった。
彼女の脳裏にも、その光景が浮かんだのだろう。
大手町のゴール、あるいは箱根の山中で、どこの大学でもない白いユニフォームが、名門校を切り裂いていく姿が。
「……悪趣味ですね、先輩」
「褒め言葉として受け取っておく」
俺は立ち上がった。
「俺は今年、幽霊になる。
名前のないエースとして箱根を走り、その衝撃で来年の戦力を集める。
それが俺の描いた『最短の優勝ルート』だ」
アスナはしばらく黙っていたが、やがてフッと笑い、俺の前にひざまずくような仕草をした。
演劇がかった、恭しい態度で。
「了解しました、共犯者。 先輩が幽霊になるなら、私はその幽霊が出るという噂を流す語り部になりましょう」 「話が早くて助かる」
「その代わり!」
アスナはガバッと顔を上げ、俺の胸倉を掴まんばかりの勢いで立ち上がった。
「その身体、半年で仕上げてもらいますよ!
予選会で学生連合に選ばれるには、ハーフ62分台が必要です。今の先輩じゃ、5kmで倒れます!」
「……わかってるよ」
「男子部の設備じゃ無理です。ボロすぎます」
彼女はスマホを取り出し、誰かにメッセージを送り始めた。
「今夜22時。女子陸上部の合宿所の裏口を開けておきます」
「は?」
「女子部には、最新の低酸素トレーニングルームと、高気圧酸素カプセルがあります。大学の予算で買った数千万円のマシンです」
「おいおい、男子禁制だろ。バレたら退学モンだぞ」
「バレなきゃ犯罪じゃありません」
アスナはウィンクした。
こいつ、本当に目的のためなら手段を選ばないな。
「私のIDカードを貸します。警備システムも、この時間帯ならメンテナンスモードに……あ、これ言っちゃダメなやつですね」 「お前、裏で何やってんだ……」
少し背筋が寒くなったが、背に腹は代えられない。
俺の筋肉を最速で戻すには、科学の力(ドーピング以外)が必要だ。
「いいだろう。乗った」 「交渉成立です。……ふふ、夜の女子寮に忍び込むなんて、先輩も隅に置けませんね?」 「お前のせいだけどね」
俺は呆れてため息をついた。
だが、身体の奥底では、久しぶりに熱いものが渦巻き始めていた。
明確な目標。
合理的な戦略。
そして、優秀すぎる共犯者。
ただ単に走ることは好きではないが、ゲームは好きだ。
「……行くぞ、星野。まずは今日のメニューを消化する」
「はいっ! 今日はインターバル走、1000m×10本です! 設定タイムは2分50秒!」
「殺す気か! 今の俺には無理だ!」
「やらないと間に合いません! さあ、走って!」
アスナに背中を叩かれ、俺は重い足を踏み出した。
錆びついた歯車が、軋み声を上げて回り始める。
目指すは10月の立川、予選会だ。




