第4話:再会は死に体の中で
大学2年の春。
東京の空気は、山梨のそれとは違って埃っぽく、どこか生ぬるい。
「……あー、ダルい」
俺、湊カケルは、星雅大学のキャンパスのベンチで、死んだ魚のような目をしていた。
手には微温くなった缶コーヒー。
膝の上には、出席する気になれない講義のレジュメが風に煽られている。
この1年間で、俺は完璧な「省エネ生活」を確立していた。
通学は徒歩5分。
移動は全てエレベーターかエスカレーター。
休日はアパートから一歩も出ず、ネットとゲーム三昧。
かつて毎日30kmの激坂をママチャリで走破していた筋肉は、見る影もなく落ちていた。
腹筋は割れているが、それは鍛えているからではなく、単に食費を削ってゲームに課金しているせいで痩せているだけだ。
心肺機能も、階段を3階分上っただけで息切れする程度には劣化している(当社比)。
だが、それでいい。
あの「異常な3年間」が間違いだったのだ。
人間、楽をして生きるのが一番に決まっている。
「ねえ、見た? 今年の女子陸上部の新入生」
「ああ、あの子だろ? 『スーパールーキー』」
「雑誌の表紙にもなってたよな。マジで可愛い」
近くのベンチで、男子学生たちが盛り上がっている。
新歓シーズン特有の浮ついた空気が、俺の神経を逆撫でする。
星雅大学は、陸上競技において奇妙なねじれ現象が起きている大学だ。
女子陸上部は、全国大会常連の超名門。
テレビ中継される駅伝大会でも優勝争いをするほどの強豪で、大学の広告塔だ。
対して男子陸上部は……まあ、言うまでもない。
予選会ですら箸にも棒にもかからない、存在自体が忘れ去られた「お荷物」である。
「キャーッ! 星野さーん!」
「こっち向いてー!」
突然、中央広場の方が騒がしくなった。
黄色い声援と、野太い歓声が入り混じる。
メディアのカメラクルーらしき集団も見える。
(うわ、芸能人かよ……関わりたくないな)
俺は露骨に顔をしかめ、その場を離れようと立ち上がった。
その時だ。
「——見つけた」
雑踏を切り裂くような、凛とした声が鼓膜を震わせた。
背筋に冷たいものが走る。
この声。聞き覚えがある。
いや、聞きたくなかった声だ。
恐る恐る振り返ると、人だかりがモーゼの十戒のように割れ、その中心から一人の女子学生が歩み出てくるところだった。
星野アスナ。
1年前、俺に「追いつく」と宣言した少女。
星雅大学の真新しいウィンドブレーカーを身に纏い、その胸には名門・女子陸上部のエンブレムが輝いている。
ショートカットは少し伸びてボブになり、垢抜けた印象だが、その瞳の鋭さだけは変わっていない。
いや、以前よりも獲物を狙う獣のような光が増している。
「……げっ」
俺は反射的に踵を返し、早歩きで逃走を図った。
だが、甘かった。
今の俺は「ただの大学生」。
対する彼女は「現役バリバリのアスリート」だ。
「待ってください、先輩ッ!」
タタタッ、という軽快な足音が背後に迫る。
速い。
初速が違う。
「うおっ!?」
逃走開始からわずか3秒。
俺の腕は、強烈な力でガシリと掴まれていた。
華奢な見た目に反して、万力のような握力だ。
「……捕まえました」
アスナは息一つ乱さず、至近距離で俺を睨み上げた。
「か、感動の再会だな、星野。元気そうで何よりだ。じゃあ俺は講義があるから……」
「嘘ですね。先輩の次の時間は空きコマです。履修登録データ、取得済みですから」
「お前はストーカーか!?」
「ファンです」
彼女は悪びれもせず言い放つと、俺の身体を上から下まで、品定めするように舐め回した。
そして、眉間に深いシワを刻んだ。
「……何ですか、その身体は」
声の温度が氷点下まで下がる。
「筋肉の張りが死んでいます。ふくらはぎも細くなっている。姿勢も悪い。……走っていないんですね?」
「当たり前だろ。言ったはずだ、俺は走らないって」
「信じられません! あの『神の脚』を、こんな……こんな肉塊に成り下げさせるなんて! 資源の無駄遣いにも程があります!」
「肉塊て。俺はこれでも健康体だぞ」
アスナはギリリと歯噛みすると、俺の腕をさらに強く引いた。
「来てください」 「は? どこへ!?」 「男子陸上部の部室です」
***
連行された先は、キャンパスの端にある、あばら家のような木造アパートだった。
入り口には、ペンキが剥げかけた看板で『星雅大学 男子陸上競技部 寮兼部室』と書かれている。
中は酷い有様だった。
散らかった雑誌、カップラーメンの空き容器、そして淀んだ空気。
ジャージ姿の部員が数名いたが、漫画を読んだりスマホをいじったりしており、覇気のかけらもない。
「……墓場か?」
俺は乾いた笑いを漏らした。
これが、星雅大学男子陸上部の現実だ。
「先輩、ここに入部してください」
アスナは真顔で言った。
俺は即座に首を横に振る。
「断る」
「なぜですか! 先輩なら、エースになれます!」
「エースになってどうする? 箱根駅伝にでも出るのか?」
「そうです!」
「はぁ……それは無理だ」
俺はスマホを取り出し、メモアプリに保存していたデータを見せた。
ふと気になって、一応調べておいたのだ。
「いいか、星野。現実を見ろ。 箱根駅伝の予選会を突破するには、ハーフマラソンを走れる選手が10人必要だ。 ボーダーラインの平均タイムは、一人当たり約63分00秒から63分30秒。 対して、この大学の部員の平均タイムは」
俺は部室の壁に貼られた、去年の記録表を指差した。
「ハーフ平均、68分台だ。
5分の差がある。距離にして約1.5km以上の大差だ。
俺一人が仮に60分で走ったとしても、チームの合計タイムには焼け石に水だ。
駅伝は算数なんだよ。足し算で負けてる以上、不可能だ」
俺の言葉に、遠くで漫画を読んでいた部員たちが「うわ、正論すぎて痛ぇ」「陸上部でもない奴が何言ってんだ」とヒソヒソ話している。
アスナは唇を噛み締め、反論しようとするが、言葉が出てこない。
彼女もアスリートだ。数字の残酷さは理解しているはずだ。
「わかったら解放してくれ。俺は平穏な大学生活に戻る」
俺は背を向け、ドアノブに手をかけた。
「……じゃあ、賭けをしましょう」
背後から、震える声が聞こえた。
「賭け?」
「はい。先輩がもし、箱根駅伝で優勝したら……私が、何でも言うことを聞きます」
俺は振り返った。
アスナは顔を真っ赤にしながら、しかし瞳だけは燃えるように俺を見据えていた。
「な、何でも。お金でもいいし、物でもいいし、そ、その……つ、付き合ってって言われたら、付き合ってあげてもいいです!」
部室内が「ぶふぉっ!?」とどよめいた。
部員たちの目が点になっている。
あの女子部のアイドル・星野アスナが、自分を賞品にした?
「……正気か?」
「正気です。その代わり、もし負けたら……先輩は一生、私の専属コーチになってください。死ぬまで私のためだけに走って、私のためだけに生きてください」
重い。
愛が重いよ、この子。
だが——。
俺の胸の奥で、錆びついていた歯車が、ギチリと音を立てて回った気がした。
「優勝」という、あまりにも非現実的なゴール。
論理的に考えれば不可能なミッション。
だが、不可能だからこそ……「ハック」しがいがあるんじゃないか?
俺の脳内で、バラバラだったパズルのピースが組み上がっていく。
男子部の惨状。
俺のブランク。
そして、箱根駅伝という巨大なシステム。
まともにぶつかれば100%負ける。
だが、抜け穴があるとしたら?
「……条件がある」
俺はニヤリと笑った。
1年ぶりに浮かべる、捕食者の笑みだったかもしれない。
「一つ目。期限は、俺が大学を卒業するまでだ。 それまでに優勝できなければ、お前の勝ちだ」
俺の言葉に、アスナがごくりと喉を鳴らす。 あと3年弱。それがタイムリミットだ。
「そして二つ目。これが一番重要だ」
俺はダラダラしている部員たちを顎でしゃくった。
「俺は、こいつらの世話なんてごめんだ。
だから——こいつらの説得はお前がやれ」
「えっ? 私が、ですか?」
「そうだ。意識改革、練習への参加、生活態度の改善……そういう面倒な『政治』は全部お前がやれ。
お前ならできるだろ? その顔と、女子部のブランドを使えば、こいつらを動かすくらい簡単だ」
俺は冷徹に言い放った。
「俺はシステムを作る。お前は人間を動かせ。 それができないなら、この話はなしだ」
アスナは少しの間、呆気にとられたように瞬きをしていたが、やがて不敵な笑みを浮かべた。
「……上等です。やってやろうじゃないですか」
彼女は俺の手を取り、力強く握りしめた。
その手は熱く、汗ばんでいた。
「交渉成立だ。……まずは、この弛んだ身体を叩き直すところからだな」
「はいっ! あと、部員たちの『意識改革』も、徹底的にやらせていただきます!」
アスナが部員たちの方へクルリと向き直る。
その笑顔は、女神のように美しく、そして悪魔のように恐ろしかった。
「——さあ、皆さん? 漫画を閉じてください。これから楽しい地獄が始まりますよ?」「ひぇ!?」
部室に悲鳴が響き渡る。
こうして。
最速の帰宅部と、最強のヒロインによる、箱根駅伝へのハッキングが開始された。




