第3話:視線の正体と卒業
校内ロードレース大会の翌日から、俺の平穏な日常は崩壊した。
「湊! 頼む、陸上部に入ってくれ!」
「君のタイムは異常だ! 県大会どころか、インターハイも狙える!」
「特待で大学に行けるぞ!」
休み時間のたびに、陸上部の顧問や部員たちが教室に押し寄せてくる。 特に、俺に大差で負けた神山の態度は必死だった。 プライドを粉々にされたはずなのに、彼はそれを通り越して、俺という「未知の生物」への好奇心に取り憑かれているようだった。
「湊、お前はフォームは変だが、エンジンの排気量が違う。基礎を教えれば、お前は化ける」
昼休み。
いつものように机で突っ伏して寝ていた俺の頭上で、神山が熱弁を振るう。
俺はゆっくりと顔を上げ、冷めた目で彼を見た。
「……神山」 「なんだ!? やる気になったか!?」 「迷惑だ。寝させてくれ」 「なっ……」 「それに、部活なんてやる時間はない。俺は忙しい」
神山が呆気にとられる。
忙しい? 帰宅部の、バイトもしていないお前が? という顔だ。
「な、何にそんなに忙しいんだ?」 「通学だ」
俺は真顔で答えた。
教室が一瞬、静まり返る。
「往復30km、標高差800m。今の俺の装備だと、最適化しても往復で1時間40分かかる。部活で2時間も拘束されたら、帰宅後の自由時間が大幅に削られる。それは俺の人生において、許容できない損失だ」
「は、はあ……?」
神山たちは理解不能という顔で顔を見合わせた。
当然だ。彼らにとって走ることは「競技」だが、俺にとっては「労働」なのだから。
好き好んで残業をするサラリーマンがいないように、俺も好き好んで走ったりはしない。
「というわけで、勧誘は断る。二度と来ないでくれ」
俺は再び机に突っ伏した。
それ以降、彼らは遠巻きに俺を見るようになったが、直接話しかけてくることはなくなった。
変人扱い。
願ってもないことだ。
だが。
たった一人だけ、俺への視線を外さない人間がいた。
***
放課後。
いつものように駐輪場でママチャリの鍵を開けていると、視線を感じる。
校舎の影、体育館の裏、あるいはグラウンドの隅。
必ずそこに、彼女がいる。
ショートカットの、2年生の女子。
ロードレースのゴール地点で、俺を見ていたあの娘だ。
彼女は話しかけてくるわけではない。
ただ、じっと見ている。
俺が錆びついたスタンドを蹴り上げ、サドルにまたがり、ペダルを踏み込むその一連の動作を、まるでスローモーションカメラで解析するかのように凝視している。
(……やりにくいな)
俺は無視を決め込んで、激坂へとペダルを踏み出す。
最初のコーナーを曲がる時、ふと振り返ると、彼女はその場から動かず、俺が消えた坂道の彼方を見つめ続けていた。
数日後。 彼女がバスケ部を辞め、陸上部に入部したという噂を耳にした。 彼女は運動神経は良く、バスケ部でもレギュラーだったらしいが、突然の転向に周囲は驚いていたそうだ。 グラウンドを通るたび、彼女が不格好なフォームで、しかし鬼気迫る表情で走っているのを見かけた。
彼女が走っている方角は、決まって俺が帰っていく「山」の方角だった。
まるで、俺の背中を幻視して追いかけているかのように。
***
季節は巡り、3月。
山梨の山間部にも、ようやく春の気配が訪れた日。
俺たちの卒業式が行われた。
式は滞りなく終わった。
涙も感動もない。
俺にあるのは、「これでやっと、あの通学路から解放される」という安堵感だけだった。
進路は決まっている。
東京にある「星雅大学」。
そこそこの偏差値で、キャンパスが平地にある。
それだけの理由で選んだ。
東京なら、電車もバスも網の目のように走っている。もう自分の足で移動する必要はない。
「さらば、青春の墓場」
俺は卒業証書の入った筒を鞄にねじ込み、最後の帰宅のために駐輪場へと向かった。
3年間酷使したママチャリは、もうボロボロだ。
チェーンは伸びきり、タイヤは摩耗してツルツルになっている。
今日で、こいつともお別れだ。廃品回収に出そう。
鍵を開けようとした、その時だった。
「……あのっ!」
凛とした声が、冷たい風に乗って届いた。
手が止まる。
ゆっくりと振り返ると、そこに彼女が立っていた。
星野アスナ。
卒業式の手伝いで在校生も残っていたのだろう。
制服の上にカーディガンを羽織り、頬を少し紅潮させている。
「……何か?」
俺が短く尋ねると、彼女は一歩踏み出した。
その瞳には、半年前に初めて見た時と同じ、熱狂と理性が入り混じった奇妙な光が宿っていた。
「3年B組の、湊カケル先輩ですよね」
「そうだが」
「私は、2年の星野アスナです。陸上部に所属しています」
知っている。噂で聞いたからな。 とは言わず、俺は「そうか」とだけ返した。
「先輩に、お礼が言いたくて」 「お礼? 何かしたか?」 「はい。先輩は、私に『正解』を見せてくれました」
彼女は、俺の相棒であるボロボロのママチャリに視線を落とし、愛おしそうに見つめた。
「あのロードレースの日。先輩の走りを見た時、私、わかったんです。走るって、地面を蹴ることじゃないんだって。重力をどう手懐けるか、そのエネルギー変換の効率こそが全てなんだって」
「……随分とマニアックな感想だな」
「私、ずっとバスケをやっていたんですけど、どうしても何かがしっくりこなくて……。でも、先輩の走りを見て、これだ!って思ったんです。だから、陸上に転向しました」
彼女は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。
「先輩は、大学でも走るんですか?」
「いや」
俺は即答した。
「走らない。俺が(自転車で)走っていたのは、通学手段として必要だったからだ。東京に行けば電車があるからな」 「……そうですか」
彼女は少しも残念そうにしなかった。
むしろ、想定内だと言わんばかりに微笑んだ。
「でも、足は覚えていますよ。先輩の筋肉も、心臓も、一度知ってしまった『速さ』を忘れることはできません」
「呪いみたいなことを言うな」
「予言です」
アスナは悪戯っぽく笑うと、深々と頭を下げた。
「ご卒業、おめでとうございます。……私も、来年は必ずそっちに行きますから」
「そっち?」
「先輩がいる場所です。それが世界のどこであれ、私が走って追いつきます」
そう言い残すと、彼女はくるりと背を向け、校舎の方へと走っていった。
そのフォームは、以前見た時よりも洗練されていた。
どことなく、俺の「転がるような」走りに似ていた。
「……変な奴」
俺はため息をつき、サドルにまたがった。
最後の激坂。
踏み込むペダルは、心なしかいつもより軽く感じた。
***
4月。
俺は東京へと移り住んだ。
星雅大学での生活は、快適そのものだった。
大学近くのアパートからキャンパスまでは徒歩5分。
坂道など一つもない、平坦なコンクリートジャングル。
俺は宣言通り、走ることをやめた。 運動靴を捨て、安物の革靴を履いた。 講義を受け、サークルには入らず、アパートに帰ってゲームをする。 そんな自堕落で、最高の省エネ生活。
筋肉は少しずつ落ちていった。
肺活量も、常人並みに戻っていくだろう。
それでいい。
あの異常な3年間は、ただの悪い夢だったんだ。
しかし。
俺はまだ知らなかった。
星野アスナという少女が、俺の想像を遥かに超える執念深さを持っていることを。
そして、一度刻まれた「走るための身体」が、そう簡単に眠ってはくれないことを。
1年後。
運命の再会が、俺の自堕落な楽園を破壊するまで——あと365日。




