第19話:有名税と独占権
箱根駅伝から2週間。
世間の熱狂は冷めるどころか、俺たちの私生活を侵食し始めていた。
日曜日。表参道。
冬の澄んだ空気が、ショッピング客たちの華やいだ声で満たされている。
「……あー、鬱陶しい」
俺、湊カケルは、伊達メガネにマスク、深めのニット帽という完全防備で、カフェのテラス席に座っていた。
まるで指名手配犯だ。
だが、こうでもしないと外も歩けない。
『箱根をハックした男』『イケメンなドS監督』。 そんな煽り文句と共に、俺の顔写真はネットの海に拡散され続けている。 おかげで、俺の平穏な「省エネ生活」は崩壊の危機に瀕していた。
「お待たせしました、先輩!」
人混みを縫って、明るい声が近づいてきた。
星野アスナだ。
今日の彼女は、いつものジャージ姿ではない。
クリーム色のニットワンピースに、キャラメル色のロングコート。髪はふんわりと巻かれ、少し大人びたメイクをしている。
普通に可愛い。 通りすがる男たちが、チラチラと彼女を見ているのがわかる。
「遅いぞ、星野」
「ごめんなさい! 服選ぶのに時間かかっちゃって……」
彼女は俺の向かいに座ると、俺の怪しい変装を見てぷっと吹き出した。
「なんですかその格好。不審者オーラ全開ですよ?」
「誰のせいだと思ってる。お前が『たまにはデートらしいことしましょう!』なんて言い出すからだろ」
「だってぇ……付き合い始めたのに、ずっと部室でミーティングばっかりじゃないですか」
アスナは唇を尖らせる。
確かに、優勝してからの俺たちは、取材対応や来年度のスカウト活動で多忙を極めていた。
恋人らしいことなど、ほとんどしていない。
「わかったよ。今日は仕事の話はなしだ」
「はい! 行きましょう、先輩!」
アスナが嬉しそうに俺の手を取る。
その笑顔を見ていると、人混みの不快指数も少しだけ下がる気がした。
***
だが。
俺の変装は、甘かったようだ。
「……ねえ、あれ」
「嘘、マジ? 湊カケルじゃない?」
「えー! 本物!? ヤバい、超カッコいい!」
表参道を歩き始めて数分。
すれ違う女子大生たちの集団から、黄色い声が上がり始めた。
俺の長身と、陸上で鍛え上げられた体格、そして隠しきれない(らしい)目つきの悪さが、特定班の網にかかったようだ。
「あのっ! 湊選手ですよね!?」
「ファンなんです! 握手してください!」
「写真いいですか!? インスタ載せたいです!」
あっという間に、俺たちの周りには人だかりができた。
特に女性ファンが多い。
彼女たちは俺を取り囲み、スマホを構え、キラキラした目で迫ってくる。
「いや……今はプライベートで……」
俺はやんわりと拒否しようとしたが、興奮した群衆には届かない。
「えー、いいじゃないですかぁ!」
「塩対応もステキ!」
「ねえねえ、LINE教えてくれませんか?」
グイグイと身体を寄せてくる女性たち。
その勢いに押され、アスナが弾き出されてしまった。
「あ……」
人垣の外で、アスナがポツンと立ち尽くしている。
彼女は、困ったように眉を下げ、それでも「マネージャー」としての仮面を被ろうと、愛想笑いを浮かべていた。
「皆さん、ごめんなさい。今日は取材とかは……」
アスナが声をかけようとするが、ファンたちは彼女を一瞥しただけで、興味なさそうに視線を外した。
「誰あの人? 彼女?」
「まさか。マネージャーでしょ?」
「じゃあ関係ないじゃん。湊くーん、こっち向いて!」
その言葉が、アスナの笑顔を凍りつかせた。
彼女は口をつぐみ、俯いてしまった。
その拳が、コートのポケットの中で強く握りしめられているのが見えた。
……ほぅ。 俺の恋人を、随分と粗末に扱ってくれるじゃないか。
俺の中で、スイッチが入った。
「悪いが」
俺は低い声で遮り、ファンの一人が掴んでいた俺の腕を振りほどいた。
その冷徹な視線に、女性たちがビクリと身を縮める。
「道を開けてくれないか。
大事な連れが、待ってるんだ」
俺は人垣を強引に割り、アスナのもとへ歩み寄った。
そして、彼女の手を強く握りしめる。
「行くぞ」
「え、あ、先輩……?」
俺は呆気にとられるファンたちを置き去りにして、アスナの手を引いて早足で歩き出した。
大通りを外れ、人気の少ない路地裏へと入っていく。
***
静かな裏通り。
ようやく足を止めると、アスナは俯いたまま、小さな声で呟いた。
「……すごかったですね、人気」
「鬱陶しいだけだ」
「みんな、先輩のこと見てました。……私なんて、やっぱりただのマネージャーに見えるんですよね」
彼女の声が震えている。
「私、わかってたはずなのに……。
先輩がすごくなればなるほど、遠くに行っちゃう気がして。
あんなにたくさんの人が先輩を好きだなんて……なんか、自信なくなっちゃいました」
嫉妬と、不安。
いつも強気な彼女が見せる、等身大の弱さ。
そんな顔をさせるために、俺は箱根で勝ったわけじゃない。
「バカか、お前は」
俺は壁に手をつき、アスナを逃げ場のないように囲い込んだ。
いわゆる「壁ドン」というやつだ。
「せ、先輩!?」 「よく聞け。 俺をここまで引っ張り上げたのは誰だ? 俺の才能を見つけて、俺のために資金を集めて、俺を陸上選手にしたのは誰だ?」
「そ、それは……私ですけど……」
「そうだ。俺という『作品』のオーナーは、お前だ」
俺は彼女の顎を指で持ち上げ、視線を絡ませた。
「世間の連中がどう騒ごうが、俺の管理者パスワードを持ってるのはお前だけだ。 ……それとも、まだ証明が足りないか?」
「え……んっ!?」
俺は有無を言わさず、彼女の唇を塞いだ。
優しさよりも、独占欲を込めたキス。
アスナの身体がビクリと跳ね、やがて力が抜けて俺の胸に寄りかかってくる。
路地裏とはいえ、まだ日は高い。
誰かが見ているかもしれない。
だが、構わない。
むしろ、見せつけてやりたいくらいだ。
長い、長いキスの後。
ゆっくりと唇を離すと、アスナはとろんとした目で俺を見上げ、顔を真っ赤に茹で上げていた。
「……はぅ……」
「これでわかったか」
俺がニヤリと笑うと、アスナはようやく状況を理解したようで、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
「……す、すごいです……。
ハッキング……されました……。
もう、思考回路がショートしてます……」
「修理が必要か? もう一回するか?」
「ば、バカっ! ここ外ですよ!?」
アスナが慌てて立ち上がり、俺の胸をポカポカと叩く。
その目には、もう不安の色はなかった。
あるのは、恋する乙女の幸福な輝きだけ。
「……もう。先輩はずるいです。
こんなことされたら、もっと好きになっちゃうじゃないですか」
彼女は俺の腕にギュッと抱きつき、今度は離さないとばかりに体重を預けてきた。
「責任、取ってくださいね?」
「ああ。一生かけて払ってやるよ」
俺たちは再び歩き出した。
表通りに戻れば、また騒がしい現実が待っているだろう。
だが、もう関係ない。
繋いだ手の温もりがある限り、どんなノイズも俺たちを邪魔することはできないのだから。
これが、俺の「有名税」に対する、ささやかなカウンターだ。
一旦ここまでにします。
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