第18話:未決済の権利書
祝勝会の喧騒は、深夜になっても収まる気配がなかった。
大手町のホテル、その最上階にある貸切の宴会場。
そこでは、日本一になった「天才」と「凡人」たちが入り乱れ、美酒に酔いしれ、泣き、笑い、また泣くという感情の永久機関と化していた。
「……うるさいな」
俺、湊カケルは、そんな熱狂の渦から一人抜け出し、ホテルのバルコニーに出ていた。
1月の夜風は冷たい。
だが、火照った身体には心地よかった。
眼下には東京の夜景が広がっている。
かつて、ただの移動手段としてしか見ていなかったこの街が、今は少しだけ違って見えた。
俺たちがハックし、征服した街だ。
「……やっぱり、ここにいましたか」
背後から、呆れたような、それでいて甘い声が聞こえた。
振り返らなくてもわかる。
俺の共犯者、星野アスナだ。
彼女はパーティードレスの上に、俺が脱ぎ捨てていたベンチコートを羽織って現れた。
手には、二つの缶コーヒー。
高級ホテルのシャンパンではなく、あえてのチョイスらしい。
「監督が職場放棄ですか?」
「監督じゃない。俺の仕事は終わったんだ」
俺は彼女からコーヒーを受け取り、プルタブを開けた。
アスナは俺の隣に並び、手すりに身を預ける。
夜景を見つめる彼女の横顔は、勝利の興奮と、祭りの後の寂しさが入り混じった、複雑な色をしていた。
「……本当に、勝っちゃいましたね」
「ああ」
「夢みたいです。……いえ、先輩が全部『計算通り』にしたんですよね」
アスナはふふっと笑い、俺の方へ向き直った。
その瞳が、街灯の光を反射して揺れている。
「それで、先輩」
彼女の声のトーンが変わった。
少しだけ上ずった、緊張を含んだ声。
「『請求書』の話ですけど」
1年前の契約。
そして、先ほどゴール地点で確認した勝利者権限。
『優勝したら、何でも言うことを聞く』。
アスナはゴクリと喉を鳴らし、頬を赤らめながら、俺を上目遣いで見つめた。
その表情は、これから断頭台に登る囚人のようでもあり、プレゼントを待つ子供のようでもあった。
「わ、私……覚悟はできてますから」
彼女は一歩、俺に近づいた。
シャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「その……先輩が望むなら、何でも。
た、例えば……付き合ってあげても、いいですよ?」
アスナは視線を泳がせながら、精一杯の強がりを口にした。
『あげてもいい』という上から目線の言葉とは裏腹に、彼女の手は震えているし、耳まで真っ赤だ。
心臓の鼓動が聞こえてきそうなほどだ。
……わかりやすい奴だ。
俺は心の中で苦笑した。
こいつが俺に好意を寄せていることなんて、とっくの昔に気づいている。
あのストーカー紛いの行動。
無茶な要求にもついてくる献身。
そして今、この期待に満ちた表情。
もし俺がここで、賭けの権利を使って「じゃあ付き合え」と命じれば、彼女は「賭けなら仕方ないですねぇ」なんて言い訳しながら、内心飛び上がって喜ぶだろう。
だが――面白くない。
手に入るとわかっている果実を、わざわざ最強の切り札を使って手に入れるなんて、コストパフォーマンスが悪すぎる。
「……却下だ」
俺は短く告げ、コーヒーを啜った。
「えっ!?」
アスナが素っ頓狂な声を上げた。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で俺を見ている。
「き、却下って……い、いらないんですか!? 私!?」
「いらないとは言ってない。
ただ、そのカードをここで使うのは『損』だと言ってるんだ」
俺は彼女の方を向き、ニヤリと笑った。
「賭けなんぞ使わなくても、お前はどうせ俺のこと好きだろ?」
「は、はぁぁっ!?」
図星を突かれたアスナが、一瞬で茹でダコのように真っ赤になった。
口をパクパクさせ、何か反論しようとするが、言葉が出てこない。
「そ、そそそ、そんなことっ……!」
「違うのか?」
「…………違わなく、ないですけどぉ……!」
彼女は蚊の鳴くような声で認め、ガックリと項垂れた。
可愛い奴め。
「なら、話は早い」
俺は空いた片手で、彼女の腰を引き寄せた。
不意打ちに、アスナが「ひゃっ」と小さく声を上げる。
「賭けは関係ない。
……俺と付き合え、星野。これは命令じゃなく、ただの提案だ」
至近距離で見つめ合う。
彼女の大きな瞳が、驚きと、そして隠しきれない歓喜で潤んでいくのが見えた。
「……ずるいです、先輩。
そんなふうに言われたら……断れるわけないじゃないですか」
アスナは観念したように微笑み、俺の胸に額を押し付けた。
俺は彼女の背中に腕を回し、その温もりを確かめる。
共犯者から、恋人へ。
関係性が書き換わった瞬間だ。
「で、でもっ! じゃあ賭けの権利はどうするんですか?」
しばらくして、アスナが顔を上げて聞いてきた。
俺は悪戯っぽく笑う。
「とっておくさ。
付き合って時間が経って、マンネリ化してきた頃に……とびきり効果的なタイミングで行使させてもらう」
つまり、焦らしだ。
最強のカードをチラつかせながら付き合うのも、スリルがあって悪くない。
「うぅ……悪趣味ですねぇ。
いつ発動するかわからない爆弾抱えて付き合うなんて……」
アスナは不満げに頬を膨らませたが、その顔はどこか楽しそうだった。
そして、何かを思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、逆提案です!」
彼女は人差し指を立てて、俺の鼻先に突きつけた。
「私が負けた分の『お願い』は、ペンディング(保留)でいいです。
その代わり!
もし、今年の『全日本大学女子駅伝』で、私たちが優勝したら……先輩も、私のお願いを一つ聞いてください!」
彼女は自信満々に宣言した。
勝ち誇ったような笑顔だ。
これで対等な条件に持ち込もうという魂胆か。
だが、俺は即答した。
「断る」 「即答!? なんでですか! フェアじゃないですか!」 「どこがフェアだ。 星雅の女子駅伝部は、去年も優勝してる超強豪だろ。 しかもお前は、1年の時から優勝メンバーに入ってる」
俺は彼女の額を指で小突いた。
「勝って当たり前のレースで賭けをするバカがどこにいる。
それは賭けじゃない。出来レースだ」
「うぐっ……! ば、バレてましたか……」
アスナは額を押さえながら後ずさった。 俺が女子部の戦績まで把握しているとは思わなかったらしい。
「甘いな、星野。
俺に対等な条件を突きつけたいなら、もっとハイリスクなネタを持ってこい」
俺はバルコニーの手すりから背を離し、部屋の方へと歩き出した。
「行くぞ。そろそろお開きにしないと、松田たちが酔い潰れて死ぬ頃だ」
「あ、待ってくださいよぉ!」
アスナが慌てて追いかけてくる。
その足取りは軽く、先ほどまでの緊張感は消えていた。
隣に並んだ彼女が、自然な動作で俺の手を握ってくる。
少し汗ばんだ、温かい手。
俺はそれを握り返した。




