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19/22

第17話:7秒差の激戦

 大手町までの距離が、永遠のように感じられた。


 第10区、23.0km。

 アンカーを任された俺――松田陽向は、ただひたすらに足を前に出していた。


 恐怖。

 それが今の俺を支配する感情のすべてだ。


 後ろから、足音が近づいてくる。

 幻聴かもしれない。まだ姿は見えないはずだ。

 だが、俺の背筋は氷柱を突き刺されたように冷え切っていた。


 相手は、王者・青山学院。

 そのアンカーを務めるのは、学生長距離界のエリート中のエリートだ。

 対する俺は、万年補欠の凡人。

 力の差は歴然としている。


『松田! ペース守れ! いいぞ、そのままでいい!』


 運営管理車から、カケルの声が飛ぶ。

 あいつの声はいつも冷静だ。機械のように正確なラップタイムを読み上げ、俺を制御しようとしている。

 だが、その声の端々に、わずかな焦りが滲んでいるのを俺は感じ取っていた。


『後ろとの差、45秒!』


 5km地点。  スタート時にあった1分間の貯金は、既に4分の1が削り取られていた。


 速い。

 速すぎる。

 青山のランナーは、復路記録を大幅に更新するペースで突っ込んできている。

 俺だって、自己ベストを上回るペースで走っているのに。

 凡人の限界を超えて、死に物狂いで逃げているのに。


「はぁ……はぁ……ッ!」


 息が切れる。

 肺が痛い。

 足の裏のマメが潰れ、シューズの中が熱く湿っていくのがわかる。


(負けるのか……? ここで)


 嫌な想像が脳裏をよぎる。

 ゴール手前で抜かれ、崩れ落ちる自分の姿。

 仲間たちの失望した顔。

 「やっぱり凡人には無理だった」という世間の嘲笑。


『松田先輩!!』


 不意に、無線からアスナの叫び声が響いた。


『思い出してください! 先輩が誰よりも早くグラウンドに来ていたことを!

 誰よりも遅くまでストレッチしていたことを!

 その4年間は、嘘をつきません! 絶対に!』


 俺はハッとして顔を上げた。

 視界の端に、品川のビル群が流れていく。


 そうだ。  俺は、カケルたちのような天才じゃない。  ハッキングもできない。魔法みたいな技もない。  だけど、「継続」することだけは誰にも負けなかった。


 雨の日も、風の日も。

 才能のなさに絶望した夜も。

 それでも次の日の朝には靴紐を結び、地面を蹴り続けてきた。


 その一歩一歩が、今の俺を作っている。


「……おうよ!!」


 俺は吠えた。

 枯れかけた声で、自分自身を鼓舞する。


 逃げるな。

 怯えるな。

 俺の背中には、9人の仲間の汗が染み込んだタスキがあるんだ。


 残り5km。田町。

 差は30秒。


 残り3km。御成門。

 差は15秒。


 ついに、後ろに運営管理車の姿が見えた。

 青学の緑色のユニフォームが、陽炎の向こうから、死神のように迫ってくる。


『もう少しだ! 松田!』


 カケルの言葉に、俺は頷く余裕すらない。  ただ、腕を振る。  もげてもいい。足が折れてもいい。  あと少し。あと数分だけ、俺の身体でいてくれ。


 残り1km。日本橋。

 沿道の大観衆が、割れんばかりの声援を送っている。

 その声の半分は「行け星雅!」、もう半分は「差せ青学!」だ。


 ヒタ……ヒタ……。


 聞こえる。

 今度は幻聴じゃない。

 本物の足音が、すぐ背後まで迫っている。


 残り500メートル。

 視界の端に、緑色の影が映り込んだ。

 並ばれる。

 終わる。


(いや……終わらせねぇ!!)


 俺の腹の底から、正体不明のエネルギーが湧き上がった。

 アドレナリンなんて生易しいものじゃない。

 意地だ。

 執念だ。

 凡人が天才に食らいつくための、最後のあがきだ。


「うおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」


 俺は顔を歪め、スパートをかけた。

 残っていた体力なんてゼロだ。

 これは「魂」の燃焼だ。


 青学の選手から、驚きの声が漏れた気がした。  抜かせない。  絶対に、前には行かせない。


 曲がり角を過ぎる。  読売新聞社のビルが見えた。  その先に、白いゴールテープが待っている。  その向こう側で、火野が、雷兄弟が、ユージンが、みんなが手を広げて待っている。


 足音との距離、およそ3メートル。

 縮まらない。

 いや、縮ませない。


 俺は最後の一歩を踏み出した。

 身体を投げ出すように、栄光のラインへと飛び込む。


 視界が真っ白に染まる。

 その瞬間、俺の耳に届いたのは、世界を震わせるような歓声だった。


          ***


「……優勝、星雅大学!!」


 実況の声が、大手町の谷間に響き渡る。


 俺は、仲間の腕の中に倒れ込んでいた。  支えてくれているのは、ユージンとカケルだ。  二人とも、泣いているのか笑っているのかわからない顔をしている。


「……やったな、キャプテン」


 カケルが、俺の背中を強く叩いた。


「アンタは最高だよ。……俺たちの、自慢の凡人だ」


 俺は答えようとしたが、言葉にならなかった。

 ただ、涙が止まらない。

 空が青い。

 ビルの隙間から見える冬の空が、こんなにも美しいなんて知らなかった。


***


 電光掲示板に、タイムが表示される。


 優勝:星雅大学

 記録:10時間43分23秒(大会新記録)


 2位:青山学院大学

 記録:10時間43分30秒(大会新記録)


 その差、わずか7秒。

 歴史に残る大激戦。

 そして、復路だけの記録(復路優勝)は、猛追を見せた青山学院が新記録で獲得していた。


 俺たちは本当にギリギリのところで、往路の貯金を使い切り、首の皮一枚で逃げ切ったのだ。


「勝ち逃げ……成功ですね」


 アスナが、タオルで顔を覆いながら泣き崩れている。

 

 俺たちの「箱根ハッキング」は完遂された。

 システムのエラーたちが集まり、秩序を破壊し、そして頂点に立った。

 メディアが殺到し、チームメイトたちが抱き合い、お祭り騒ぎが始まる。


 俺はふと、泣いているアスナの肩を引き寄せ、耳元で囁いた。


「おい、星野」


「……はい、なんですか先輩……」


 彼女は赤い目をこすりながら見上げてくる。

 俺はニヤリと笑った。

 いつもの、捕食者の笑みで。


「賭けは、俺の勝ちだ」


 その言葉に、アスナの動きが止まった。

 1年前。あのボロ部室で交わした契約。


『優勝したら、何でも言うことを聞く』。


「あ……」


 アスナの顔が、一瞬で茹でダコのように真っ赤になる。

 涙も引っ込んだようだ。


「……覚えてます、よ。 わ、私、約束は守りますから……」


 彼女が身体を縮こまらせ、観念したようにギュッと目を閉じる。

 その姿は、いつもの強気なマネージャーではなく、ただの一人の恋する乙女だった。

 震える唇が、次の言葉を待っている。


 俺はそんな彼女の姿を満足げに眺め、そして――耳元で囁いた。


「この騒ぎが収まったら、たっぷりと払ってもらうからな」


「え?」


 アスナが目を開ける。

 俺は彼女の頭にポンと手を置いた。


「今はまだ、この熱狂を楽しめ。

 ……請求書オーダーは、後で個別に送る」


 そう言い残し、俺は胴上げを待つ松田たちの方へ歩き出した。

 背後で、アスナが呆気にとられた顔をしているのがわかる。


 そしてすぐに、「も、もう! 先輩の意地悪!」という、安堵と少しの残念さが入り混じった声が聞こえてきた。


 俺は空に向かって、拳を突き上げた。


 星雅大学、箱根駅伝初優勝だ。


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