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第15話:溶けていく黄金の砂時計

 1月3日、午前8時00分。

 箱根・芦ノ湖。


 復路のスタートラインには、星雅大学の第6区走者、4年生の田所たどころが一人で立っていた。


 気温マイナス2度。

 吐く息が白い。

 彼の心臓は、寒さではなく恐怖で早鐘を打っていた。


「……5分半、か」


 田所は震える手でタスキを握りしめた。

 昨日、カケルたち「怪物」が稼ぎ出した莫大な遺産。

 2位以下が見えないほどの独走スタート。

 本来なら、ウィニングランのような気持ちで走れるはずだ。


 だが、現実は違う。

 この5分30秒は、これから始まる「公開処刑」までのカウントダウンでしかない。


「田所先輩」


 付き添いのアスナが、真剣な眼差しで声をかけた。


「後ろは見ないでください。逃げようなんて思わないでください。

 先輩は、ただ転がり落ちればいいんです」

「……ああ。わかってる」


 号砲が鳴る。

 田所は、孤独な山下りへと飛び出した。


 ***


 6区。山下り。

 最初の4kmの登りを終え、下りに入った瞬間、田所は恐怖した。

 スピードが出すぎる。

 自分の足が制御できない。


(速い……! 止まれねえ!)


 カーブが迫る。

 本来なら、優れた6区ランナーは「恐怖心を捨てて突っ込む」ことができる。

 だが、田所はブレーキをかけてしまった。

 大腿四頭筋が悲鳴を上げ、減速する。


 その頃、後方5分30秒差でスタートした2位・青山学院大学と、3位・駒澤大学のランナーは、猛然と追撃を開始していた。


 山下りのスペシャリストとして鍛え上げられた彼らは、ブレーキをかけず、重力と一体化して落ちていく。


 小田原中継所まで残り3km。

 平地に降りてきた田所の足は、下りのダメージで棒のようになっていた。

 痙攣しそうなふくらはぎを叩きながら、必死に腕を振る。


『先輩! あと少しです! 粘って!』


 アスナの声が無線から響く。

 中継所に飛び込んだ田所のタイムは、区間15位。

 平凡な記録だ。

 対して、後続の強豪校は区間賞争いの爆走を見せた。


 この区間だけで、リードは「3分45秒」にまで縮まっていた。

 1分45秒が、霧散した。


 ***


 7区。平塚へのシーサイドコース。  タスキを受けたのは、3年生の佐藤。  彼もまた、昨日のカケルの走りに感化され、死ぬ気で練習してきた一人だ。


 だが、才能の壁は残酷だ。

 気温が上がり始め、向かい風が強くなる中、佐藤のペースは上がらない。

 キロ3分強。

 一般人からすれば十分化け物だが、箱根駅伝としては「遅い」ペースだ。


 背後からは、常連校の「集団」が迫ってくる。

 彼らは前を追うために協力し、高速ペースを維持している。

 一匹狼の星雅大学は、格好の獲物ターゲットだ。


 二宮のポイントで、差は2分を切った。

 大磯で、1分30秒。


「くそっ……くそぉぉぉッ!」


 佐藤は泣きながら走っていた。

 足が重い。肺が苦しい。

 沿道の「頑張れ」という声援すら、「早く走れ」という罵倒に聞こえる。


 平塚中継所。

 佐藤が倒れ込むようにタスキを渡した時、2位集団との差は「1分15秒」になっていた。

 往路で築いた城壁は、もはや瓦礫の山と化していた。


 ***


 8区。戸塚への難所、遊行寺の坂。  走るのは、4年生・山本。  真面目だけが取り柄の、実直な男だ。


「俺が……止めるんだ」


 山本は自分に言い聞かせ、藤沢の街を走る。

 だが、背後のプレッシャーは物理的な圧となって襲いかかってきた。

 運営管理車のカケルが、マイクで冷徹な事実を告げる。


『後ろとの差、40秒。

 遊行寺の坂で捕まるぞ』


 その予言通りだった。

 長い登り坂の中腹。

 背後から、ヒタヒタという足音が聞こえたかと思うと、一瞬でそれは轟音に変わった。


「抜くぞオラァッ!!」


 青山学院大学のランナーが、左から山本を抜き去った。


「あ……ぁ……」


 山本は手を伸ばしたが、彼の背中は遠ざかっていく。  抜かれた。  5時間以上かけて作ったリードが、ゼロになったどころか、マイナスになった。


 絶望が足を止める。

 だが、その時。


『諦めるな、凡人』


 カケルの声が飛んだ。


『抜かれてもいい。食らいつけ。

 1秒でもいいから、見える位置で渡せ。

 ……次の9区には、誰がいると思ってる?』


 山本はハッとした。  そうだ。  次の戸塚中継所には、あの「黒い弾丸」が待っている。  往路のエースたちと同等以上の力を持つ、最強の隠し玉が。


「う、おおおおおおッ!」


 山本は死に体の身体に鞭を打ち、スパートをかけた。  格上のランナーに引き離されまいと、無様なフォームで、なりふり構わず追いすがる。  エリートの背中が、数メートル先にある。  離されるな。  ここで離されたら、カケルたちの努力が、全部無駄になる。


 戸塚中継所。  山本は、1位とほぼ同時のタイミングで中継ラインになだれ込んだ。


「ユージィィィンッ!!」


 最後の力を振り絞り、タスキを投げ出す。

 待ち構えていた巨躯の留学生、ユージン・ガシェルが、長い腕を伸ばしてそれを掴み取った。


 タイム差、なし。  2校が団子状態で、復路のエース区間・9区へと突入する。


 ***


 山本は地面に崩れ落ち、動けなくなった。

 アスナが駆け寄り、タオルをかける。


「……ごめん……全部、使い切っちまった……」


 山本が嗚咽する。

 だが、カケルは運営管理車から降りてくると、山本の頭にポンと手を置いた。


「上出来だよ、先輩」


 カケルは、ユージンが他校のエースと並走し、一歩も引かずに加速していく様を見つめた。


「……ここからが本当の『勝負』だ」


 砂時計の砂は落ちきった。 しかし、逆にはなっていない。


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