第14話:往路完全優勝
1月2日、午前10時05分。
湘南の海風が吹き抜ける国道134号線。
3区を走るのは、雷兄弟の兄・ジン。
彼は、カケルから受け取った大量リードという「資産」を、ただ守るのではなく、倍増させる勢いで投資していた。
(ハッカーの野郎……とんでもないパスを寄越しやがったな)
ジンはサングラスの奥で苦笑した。
前にも後ろにも、ランナーの影はない。完全な独走。
だが、彼の視線は常に腕時計のラップタイムと、脳内の弟に向いていた。
『ペースアップ。キロ2分50秒』
左手首のスマートウォッチが振動し、カケルからの指示が表示される。
ジンはニヤリと笑った。
「鬼かよ。……だが、望むところだ」
彼はギアを上げた。
単独走でありながら、まるで隣に競り合う相手がいるかのようなハイペース。
いや、いるのだ。
彼の脳内には、これから4区を走る弟の姿が鮮明に見えている。
3区・平塚中継所。
ジンが飛び込んだ瞬間、どよめきが起きた。
「タイム、1時間00分30秒!!」
区間記録にあと一歩と迫る、歴代でも指折りの超高速タイム。 2位との差は、この時点で4分近くまで広がっていた。
***
4区。
タスキを受け取った弟・ライは、兄と全く同じフォーム、全く同じピッチで走り出した。
まるで、ジンの残像がそのまま実体化したかのような錯覚。
タスキに染み込んだ汗の温度すら、共有しているかのようだ。
「へっ……兄貴、飛ばしすぎだろ。俺へのプレッシャーか?」
ライは笑いながら、小田原への道を爆走する。 4区はつなぎの区間として扱われることも多い。 だが、星雅大学にとってはここも「攻撃」の場だ。
『ライ君! 速すぎます! 後半持ちませんよ!』
運営管理車のアスナが心配そうに声を上げる。
だが、ライは親指を立てて応えた。
「心配すんな、姫さん。
俺たちは『二人で一人』だ。兄貴が作ったリズム(波)に乗ってる限り、俺は疲れない」
シンクロナイズド・ランニング。
兄の呼吸、兄の心拍、兄の足音。
それら全てをトレースすることで、ライは自身の限界を超えた速度を維持し続ける。
小田原中継所。
ライが駆け抜けたタイムは、1時間00分45秒。
兄弟揃っての60分台。
それは、湘南の風よりも速い「雷鳴」だった。
2位との差、4分15秒。 もはや、絶望的な大差だ。
***
いよいよ、箱根駅伝の最大の難所、5区「山登り」が始まる。
タスキを待っていたのは、雪村猟。
新潟の山奥から連れてこられた、正真正銘の無名選手。
彼は極寒の山下ろしが吹く中、半袖短パンで、ニタニタと笑っていた。
「来た来た! 平地のスピードスターたちがよぉ!」
ライがフラフラになりながら飛び込んでくる。
「……あとは頼んだぜ、山猿」
「おうよ! ここからは俺の庭だ!」
雪村はタスキをひったくると、弾丸のように飛び出した。
標高差800m以上。天下の険、箱根の山。
雪村の走りは、カケルのような理論的なものでも、雷兄弟のような洗練されたものでもない。
野獣そのものだった。
腕を大きく振り、ストライドを広げ、本能のままに斜面を駆け上がる。
『雪村君! いいペースです! このままなら区間賞いけます!』
アスナの声が飛ぶ。
雪村は、歴代の「山の神」たちと遜色ないペースで登っていた。
決して異次元のタイムではない。だが、人間が到達できる最高峰の領域だ。
「ヒャッハー! アスファルトってのは最高だな!
雪に足が埋まらねぇ! どこまでもグリップしやがる!」
彼は心底楽しそうだった。 故郷の雪山で、毎日腰まで埋まりながら登っていた彼にとって、舗装された道路は天国に等しい。 1時間09分ペース。 それは、2位以下の追随を許さない、優秀なタイムだ。
***
午後1時20分過ぎ。
箱根・芦ノ湖ゴール地点。
強風が吹き荒れる中、待ち構えるメディアと観衆の視線が、一点に注がれていた。
やがて、霧の向こうから、白いユニフォームが姿を現した。
雪村だ。
彼は最後の直線を、ガッツポーズもせず、ただ全速力で駆け抜けた。
そして——。
フィニッシュテープを切った。
「……しゃあぁぁぁぁッ!!」
雄叫びと共に、雪村はその場に大の字に倒れ込んだ。
往路優勝 星雅大学
記録:5時間15分25秒
カケルとアスナは、ゴール地点のテントでその瞬間を見届けていた。
大会新記録。
2位との差、5分30秒以上。
歴史的な圧勝劇。
アスナは両手で顔を覆い、肩を震わせている。
カケルは、冷静にストップウォッチを止めた。
「……完璧だ」
カケルが呟く。
火野が切り開き、俺が破壊し、雷兄弟が加速させ、雪村が締める。
誰一人としてミスをしなかった。
計算上の最大値を叩き出した結果だ。
カケルは立ち上がり、倒れている雪村のもとへ歩み寄った。
雪村は、荒い息を吐きながら、空を見上げて笑っていた。
「ハァ……ハァ……どうだ、ハッカー……。
1時間9分40秒……。
俺が……一番高いところまで……運んでやったぞ……」
「ああ。上出来だ、山猿」
カケルは雪村にタオルをかけてやった。
周りでは、カメラのフラッシュが焚かれ、インタビューのマイクが向けられている。
「史上最強の往路優勝」「新時代の幕開け」。
そんな見出しが、明日の新聞を飾るだろう。
だが、カケルの視線は、既に明日へと向けられていた。
「喜ぶのはまだ早いぞ、星野」
泣きじゃくるアスナに、カケルは冷徹に告げた。
「明日は復路。……本当の地獄(ガマン大会)はこれからだ」
5分半のリード。 それは安全圏に見えて、油断すれば一瞬で溶ける「砂上の楼閣」でもある。 明日の6区から10区を走るのは、自分達ではないのだから。
星雅大学、往路完全優勝。
その栄光の裏で、カケルは翌日の防衛戦に向け、静かに思考を巡らせていた。




