第13話:現実の区間新記録
1月2日、午前9時02分。
横浜・鶴見中継所。
俺、湊カケルは、右手に汗ばんだ布の感触を確かめながら、国道15号線を疾走していた。 タスキは重い。 物理的な重さではない。火野瞬という男が、自身の選手生命を削って捻出した時間が染み込んでいるからだ。
「……いい調子だ」
俺は独りごちて、ペースを確認した。
入り(最初の1km)は2分48秒。
速い。だが、身体は軽い。
去年の学生連合の時とは違う。背負っているものがある分、地面を捉える力が強い気がする。
俺の後ろには、誰もいない。 1分差。距離にして約300メートル。 視界には先導する白バイと、中継車だけ。 完全な独走状態。
だが、俺の目には見えていた。 数メートルほど前方に走る、半透明の背中が。
——去年の俺だ。
学生連合のユニフォームを着て、遮二無二走っていた「幻影」。
あいつのタイムは1時間04分30秒。
今日の俺が倒すべき、唯一のライバル。
「待ってろよ、亡霊。……今、殺してやる」
俺はアクセルを踏み込んだ。
***
3km、5km、10km。
俺は精密機械のようにラップを刻み続けた。
沿道の観客が、悲鳴に近い歓声を上げている。
無理もない。
2位集団(留学生含む)との差が、縮まるどころか開いているのだから。
『星雅大学・湊、速い! 速すぎる! 10km通過は27分50秒! これは区間新記録を遥かに上回るペースです!』
実況の声が聞こえる。
俺は給水所で水を受け取り、一口だけ含んで残りを頭から被った。
冷たさが思考をクリアにする。
目の前に、長い登り坂が現れた。
権太坂。
箱根駅伝の難所の一つ。
俺はニヤリと笑った。
ここだ。ここが俺の加速装置だ。
多くのランナーが、登り坂で「耐えよう」とする。
前傾姿勢をとり、歩幅を狭め、エネルギー消費を抑えようとする。
だが、俺は逆だ。
上体を起こし、骨盤を前へ突き出す。
大腿四頭筋とハムストリングスを連動させ、ペダルを漕ぐように足を回転させる。
ママチャリで培った「登坂特化型フォーム」。
グンッ!
重力に逆らうのではなく、重力を利用して地面を押し込む。 速度が上がる。
『ああっ! 湊が加速しました! 権太坂でスパートです! 信じられません、この男には重力がないのでしょうか!?』
違うな。重力はある。
俺はそれを「飼い慣らして」いるだけだ。
15km地点。 2位との差は2分30秒に拡大した。 もはや勝負はついていた。 だが、俺の戦いは終わらない。 アスナとの約束である「優勝」。 そのためには、この2区で、未来永劫破られないような楔を打ち込む必要がある。
***
ラスト3km。
戸塚の壁。
壁のように立ちはだかる急勾配。
乳酸が全身を蝕み、肺が焼き切れそうになるデッドゾーン。
去年の俺は、自分のために走っていた。
だが、今は違う。
火野が繋いだタスキがある。
後ろで待っている、あの問題児たちの顔が浮かぶ。
そして——。
「行けぇぇぇぇッ! カケル先輩ぃぃぃッ!!」
沿道から、鼓膜を突き破るような絶叫が聞こえた。
給水ポイントではない場所。
一般の観客に紛れて、星雅大学のジャンパーを着たアスナが、メガホンを振り回して叫んでいた。
「1秒でも遅れたら承知しませんよ! 私の人生かかってるんですからねッ!!」
……あいつ、こんな所にいやがった。 しかも、なんという利己的な応援だ。
だが、不思議と笑いが込み上げてきた。
力が湧いてきた。
「ああ、わかってるよ……」
俺はギアをトップに入れた。 リミッター解除。 俺は「幻影」を遥か後方へ置き去りにし、光の中へと突き進んだ。
残り1km。 もはや、幻影の姿はない。 俺は完全に一人になった。 未踏の領域。 人類がまだ誰も到達していない、2区の深淵。
中継所が見える。
3区の走者、雷兄弟の兄・ジンが待っている。
あいつもまた、不敵な笑みを浮かべていた。
(受け取れ、ジン。……世界最高のパスだ)
俺は最後の力を振り絞り、中継所へ飛び込んだ。
***
「……タイム、1時間03分28秒!!」
実況の声が、裏返るのを通り越して悲鳴のように響いた。
会場が一瞬、真空になったかのように静まり返り——そして、爆発した。
2区 湊カケル(星雅大学)
記録:1時間03分28秒(区間新記録)
昨年の区間記録(1時間05分40秒)を、2分以上更新した。 もはや「更新」というレベルではない。 格が違う。 100m走で8秒台を出すようなものだ。 今後数十年は破られないであろう、アンタッチャブル・レコード。
そして何より。 数字の横に、去年の「※参考記録」の文字はない。 公式記録。 正真正銘の、俺の記録だ。
「はぁ……はぁ……ッ」
タスキを渡した俺は、そのまま地面に手をついた。
視界が揺れる。
立っていられない。
「湊先輩ッ!!」
運営スタッフに支えられるより早く、アスナが飛び込んできた。
彼女は俺の身体を抱き抱えると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で俺を見下ろした。
「バカ……! 速すぎますよ! 心臓止まるかと思ったじゃないですか!」
「……うるさい。注文通りだろ」
俺は苦笑しながら、呼吸を整えた。 ふと、モニターを見る。 2位の大学は、まだ戸塚の壁を登っている最中だった。 その差、3分以上。 少なくとも、往路は勝負が決まっただろう。
俺はカメラに向かって、ピースサインを作った。
去年の「挑発」ではない。
「勝利宣言」だ。
「見たか、これが現実だ」
星雅大学、往路優勝へのカウントダウン。
3区、雷ジンが、俺の作った巨大なリードを背に、湘南の海へと解き放たれていくのが見えた。




