表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/18

第12話:大手町の号砲

 1月2日、午前7時50分。

 東京・大手町、読売新聞社前。


 新年の凍てつくようなビル風の中、数万人の観衆が詰めかけ、熱気と緊張が入り混じった独特の空気が漂っていた。  第9X回、東京箱根間往復大学駅伝競走。  学生長距離界の頂点を決める戦いが、まもなく始まろうとしている。


「……寒いな」


 スタートラインの最前列で、星雅大学の第1区走者・火野瞬ひの・しゅんは、白い息を吐きながら足踏みをしていた。

 彼が着ているのは、昨年まで「敗者の象徴」だった星雅大学のユニフォーム。

 だが、今やその白と赤の意匠を笑う者はいない。


「おい、見ろよ。1区から火野だぞ」

「予選会2位の元インターハイ王者か……」

「まさか、最初から仕掛けてくる気か?」


 他校の選手たちが、警戒心丸出しの視線を送ってくる。

 特に、連覇を狙う王者・青山学院や、駒澤大学の選手たちは、火野の一挙手一投足に神経を尖らせていた。


 火野は鼻で笑った。


(ビビりすぎだろ、エリート共。……まあ、無理もないか)


 彼は自分の右足を見た。

 テーピングでガチガチに固められているが、その内側にあるのは「爆弾」だ。

 医者からは「次に折れたら歩けなくなるかもしれない」と宣告されている。

 普通の指導者なら、絶対に起用しない。

 だが、あの狂ったハッカー(湊カケル)は言ったのだ。


『お前の脚は、あと20kmなら持つ。使い潰せ』と。


「……最高にイカれた指示だぜ」


 火野はニヤリと笑い、スタートの合図を待った。


 午前8時00分。

 号砲ピストルが、東京の空を切り裂いた。


 ***


 21人のランナーが一斉に飛び出す。

 箱根駅伝の1区は、独特な駆け引きの場だ。

 誰もが「飛び出して失敗したくない」と考え、互いに顔を見合わせながらのスローペースになることが多い。

 最初の1kmはキロ3分00秒前後。

 探り合いのジョギング。


 ——というのが、これまでの常識セオリーだった。


 ダァンッ!!


 スタート直後。

 集団から、一発の弾丸が発射された。

 火野瞬だ。


「なっ……!?」

「おい、速いぞ!?」


 他校の選手たちが呆気にとられる中、火野は迷うことなく加速した。

 キロ2分45秒。

 ハーフマラソンの通過タイムではなく、トラック5000mのラストスパートのような速度だ。


(探り合い? 知るかよそんなもん)


 火野は風を切る音だけを聞いていた。

 彼のフォームは、かつての美しいストライド走法ではない。

 つま先で地面を叩き、ふくらはぎのバネだけで跳ねるような、奇妙で、しかし恐ろしく速い「変則走法」。

 カケルが授けた、ガラスの脚で走るための禁断の技術だ。


 1km通過、2分42秒。

 集団は遥か後方。

 完全な独走状態。


 実況アナウンサーが絶叫する。

『星雅大学の火野、飛び出した! いきなりの大逃げです! 後ろを振り返りもしない! これは暴走か、それとも作戦か!?』


 後続の集団では、有力校の選手たちが動揺していた。 「あんなペース、持つわけがない!」 「どうせ後半で潰れる!」


 彼らの判断は正しい。常識的に考えれば、このペースで21.3kmを走り切れるはずがない。

 だが、彼らは知らない。

 火野瞬という男が、最初から「ゴールした後」のことなど考えていないことを。


 5km地点。リードは30秒に広がった。

 10km地点。リードは1分。


 火野の脚に、激痛が走り始める。

 骨がきしむ音。筋肉が断裂しそうな悲鳴。

 だが、脳内物質エンドルフィンがそれを快感へと変換する。


(ああ、これだ……! 俺は今、誰よりも速い!)


 怪我をしてからの2年間。

 リハビリ室の窓から見ていた、灰色の景色。

 「もう終わった選手」というレッテル。

 それら全てを、今のスピードが置き去りにしていく。


 15km地点、六郷橋。

 ここからが1区の正念場だ。

 後続の集団も、さすがに焦ってペースを上げ始めている。

 だが、差は縮まらない。むしろ開いている。


「ぐっ……ぅぅ……!」


 右足に電撃のような痛みが走った。

 限界が近い。

 着地のたびに、視界が白く明滅する。


 その時、沿道から声が聞こえた。

 運営管理車(監督車)からのマイクではない。

 沿道に詰めかけた、星雅大学の応援団でもない。


 鶴見中継所のモニターを見ているであろう、あの男の声が脳内に響いた気がした。


『1秒でも多く稼げ。残りの人生なんて気にするな』


「……へっ、鬼畜野郎め」


 火野は歯を食いしばり、さらにギアを上げた。

 壊れてもいい。

 二度と走れなくなってもいい。

 俺の役割は、ここで燃え尽きることだ。


 残り1km。

 鶴見中継所が見えた。

 人混みの向こうに、白いユニフォームを着て、腕組みをして待っている男がいる。

 湊カケル。

 俺を地獄ここへ引きずり戻した張本人。


(受け取れよ、ハッカー……! 最高の貯金リードだ!)


 火野は最後の力を振り絞り、タスキを握りしめた。

 右足が悲鳴を上げ、砕ける寸前の音を奏でる。

 構うものか。


 彼は滑り込むように中継所へ飛び込んだ。


「頼んだぞッ!!」


 バシッ!


 乾いた音がして、汗と執念が染み込んだタスキが、カケルの手に渡った。

 その瞬間、火野の膝から力が抜け、地面へと崩れ落ちる。


 計測タイム、1時間01分05秒。

 区間新記録にあと数秒と迫る、歴代2位の好タイム。

 2位集団との差は、1分近くある。 大量リードだ。


 カケルは倒れ込んだ火野を一瞥し、短く声をかけた。


「上出来だ。……ゆっくり寝てろ」


 そして、2区のエースは走り出した。

 背中には、公式記録という名の「現実」を背負って。


 大手町から鶴見まで、火野瞬が描いた独走劇。

 それは、これから始まる「星雅大学の蹂躙」の、ほんの序章に過ぎなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ