第12話:大手町の号砲
1月2日、午前7時50分。
東京・大手町、読売新聞社前。
新年の凍てつくようなビル風の中、数万人の観衆が詰めかけ、熱気と緊張が入り混じった独特の空気が漂っていた。 第9X回、東京箱根間往復大学駅伝競走。 学生長距離界の頂点を決める戦いが、まもなく始まろうとしている。
「……寒いな」
スタートラインの最前列で、星雅大学の第1区走者・火野瞬は、白い息を吐きながら足踏みをしていた。
彼が着ているのは、昨年まで「敗者の象徴」だった星雅大学のユニフォーム。
だが、今やその白と赤の意匠を笑う者はいない。
「おい、見ろよ。1区から火野だぞ」
「予選会2位の元インターハイ王者か……」
「まさか、最初から仕掛けてくる気か?」
他校の選手たちが、警戒心丸出しの視線を送ってくる。
特に、連覇を狙う王者・青山学院や、駒澤大学の選手たちは、火野の一挙手一投足に神経を尖らせていた。
火野は鼻で笑った。
(ビビりすぎだろ、エリート共。……まあ、無理もないか)
彼は自分の右足を見た。
テーピングでガチガチに固められているが、その内側にあるのは「爆弾」だ。
医者からは「次に折れたら歩けなくなるかもしれない」と宣告されている。
普通の指導者なら、絶対に起用しない。
だが、あの狂ったハッカー(湊カケル)は言ったのだ。
『お前の脚は、あと20kmなら持つ。使い潰せ』と。
「……最高にイカれた指示だぜ」
火野はニヤリと笑い、スタートの合図を待った。
午前8時00分。
号砲が、東京の空を切り裂いた。
***
21人のランナーが一斉に飛び出す。
箱根駅伝の1区は、独特な駆け引きの場だ。
誰もが「飛び出して失敗したくない」と考え、互いに顔を見合わせながらのスローペースになることが多い。
最初の1kmはキロ3分00秒前後。
探り合いのジョギング。
——というのが、これまでの常識だった。
ダァンッ!!
スタート直後。
集団から、一発の弾丸が発射された。
火野瞬だ。
「なっ……!?」
「おい、速いぞ!?」
他校の選手たちが呆気にとられる中、火野は迷うことなく加速した。
キロ2分45秒。
ハーフマラソンの通過タイムではなく、トラック5000mのラストスパートのような速度だ。
(探り合い? 知るかよそんなもん)
火野は風を切る音だけを聞いていた。
彼のフォームは、かつての美しいストライド走法ではない。
つま先で地面を叩き、ふくらはぎのバネだけで跳ねるような、奇妙で、しかし恐ろしく速い「変則走法」。
カケルが授けた、ガラスの脚で走るための禁断の技術だ。
1km通過、2分42秒。
集団は遥か後方。
完全な独走状態。
実況アナウンサーが絶叫する。
『星雅大学の火野、飛び出した! いきなりの大逃げです! 後ろを振り返りもしない! これは暴走か、それとも作戦か!?』
後続の集団では、有力校の選手たちが動揺していた。 「あんなペース、持つわけがない!」 「どうせ後半で潰れる!」
彼らの判断は正しい。常識的に考えれば、このペースで21.3kmを走り切れるはずがない。
だが、彼らは知らない。
火野瞬という男が、最初から「ゴールした後」のことなど考えていないことを。
5km地点。リードは30秒に広がった。
10km地点。リードは1分。
火野の脚に、激痛が走り始める。
骨がきしむ音。筋肉が断裂しそうな悲鳴。
だが、脳内物質がそれを快感へと変換する。
(ああ、これだ……! 俺は今、誰よりも速い!)
怪我をしてからの2年間。
リハビリ室の窓から見ていた、灰色の景色。
「もう終わった選手」というレッテル。
それら全てを、今のスピードが置き去りにしていく。
15km地点、六郷橋。
ここからが1区の正念場だ。
後続の集団も、さすがに焦ってペースを上げ始めている。
だが、差は縮まらない。むしろ開いている。
「ぐっ……ぅぅ……!」
右足に電撃のような痛みが走った。
限界が近い。
着地のたびに、視界が白く明滅する。
その時、沿道から声が聞こえた。
運営管理車(監督車)からのマイクではない。
沿道に詰めかけた、星雅大学の応援団でもない。
鶴見中継所のモニターを見ているであろう、あの男の声が脳内に響いた気がした。
『1秒でも多く稼げ。残りの人生なんて気にするな』
「……へっ、鬼畜野郎め」
火野は歯を食いしばり、さらにギアを上げた。
壊れてもいい。
二度と走れなくなってもいい。
俺の役割は、ここで燃え尽きることだ。
残り1km。
鶴見中継所が見えた。
人混みの向こうに、白いユニフォームを着て、腕組みをして待っている男がいる。
湊カケル。
俺を地獄へ引きずり戻した張本人。
(受け取れよ、ハッカー……! 最高の貯金だ!)
火野は最後の力を振り絞り、タスキを握りしめた。
右足が悲鳴を上げ、砕ける寸前の音を奏でる。
構うものか。
彼は滑り込むように中継所へ飛び込んだ。
「頼んだぞッ!!」
バシッ!
乾いた音がして、汗と執念が染み込んだタスキが、カケルの手に渡った。
その瞬間、火野の膝から力が抜け、地面へと崩れ落ちる。
計測タイム、1時間01分05秒。
区間新記録にあと数秒と迫る、歴代2位の好タイム。
2位集団との差は、1分近くある。 大量リードだ。
カケルは倒れ込んだ火野を一瞥し、短く声をかけた。
「上出来だ。……ゆっくり寝てろ」
そして、2区のエースは走り出した。
背中には、公式記録という名の「現実」を背負って。
大手町から鶴見まで、火野瞬が描いた独走劇。
それは、これから始まる「星雅大学の蹂躙」の、ほんの序章に過ぎなかった。




