【小説】天使の肉のカルパッチョ
第一章:パケット・ロスの味
上空二千メートル。成層圏に近いその場所から見下ろせば、都市は巨大な集積回路のように見えた。かつては煌びやかなネオンが血管のように脈打っていたその街も、今では所々が黒く塗りつぶされたように欠落している。まるで、古いフィルムが焼き切れたかのように。
視点を急速に落下させる。
灰色の雲を突き抜け、林立する摩天楼の隙間を縫い、とある裏路地の、ひび割れたレンガ造りの建物の地下へ。
重厚なオーク材の扉が開かれる。そこには、世界の「終わり」から逃れようとする亡者たちの社交場があった。
湿った空気には、カビと、焦げた砂糖と、そして微かな鉄の臭いが充満している。
部屋の中央、スポットライトに照らされたテーブルに、男が一人座っていた。葛城レンだ。
彼の手元には、銀色のフォークとナイフ。そして目の前の皿には、正体不明の「肉塊」が鎮座している。
それは、酷く不安定だった。
肉の表面は時折、ノイズが走ったように明滅し、赤黒い色彩が青や緑の蛍光色へと瞬きする。まるで、存在することを拒んでいるかのように。
「これが、北の廃棄区画で捕れた『海原の記憶』か」
レンの向かいに座る太った男が、下卑た笑みを浮かべた。男の顔の輪郭は定まっていない。目や鼻の位置が数秒ごとに滑り落ち、福笑いのように崩れては戻る。情報量の欠落。この男は、もう人間としての形を保つための「容量」を使い果たしかけている。
「ええ。希少な逸品です」
レンは静かに答えた。その声は低く、チェロの弦を指で弾いたような響きを持っていた。「この肉は、まだ海が青かった頃の波の音を記録しています」
「能書きはいい。食わせろ。俺は飢えているんだ。味のない泥のような合成食にはもう飽き飽きだ!」
男が叫ぶと同時に、レンはナイフを入れた。
抵抗がない。
物理的な切断の手応えではなく、水面に指を入れたような、あるいはホログラムをすり抜けたような、頼りない感触。
(……腐敗が始まっているな)
レンは心の中で舌打ちをした。
この世界では、鮮度とは時間の経過ではない。「情報の密度」だ。観測され、味わわれ、消費されることで、物質はその存在意義を失い、背景の一部へと成り下がる。
レンは切り分けた肉片をフォークで突き刺し、男の口元へ運ぶ。
男は獣のように口を開き、それを貪った。
瞬間。
男の目が見開かれる。
崩れかけていた男の顔の輪郭が、ピタリと止まった。
「……あ」
男の目から、涙が溢れ出した。
それは単なる生理現象ではない。彼の脳裏に、かつての記憶が津波のように押し寄せているのだ。
潮風の匂い。夏の太陽が肌を焼く熱さ。冷えた炭酸水が喉を弾ける刺激。そして、今はもう失われた、愛する者の笑い声。
それらは「味」となって、男の舌蕾を、神経を、脳髄をレイプする。
「ああ、ああ……! 見える、見えるぞ! 色が、音が!」
男はテーブルに突っ伏し、皿に残ったソースまで舐め取り始めた。その姿は醜悪だが、同時に神聖でもあった。失われた「現実」を取り戻す儀式。
レンはその様子を冷めた目で見つめながら、自身の空腹を感じていた。
彼自身の胃袋もまた、空っぽだった。だが、彼が飢えているのは、過去の記憶ではない。
この世界を蝕んでいる「空白」そのものだ。
「おい、ミナ」
レンが背後の闇に呼びかけると、少女の形をした影が揺らめき出た。メイド服のようなボロ布を纏い、片方の瞳だけがカメラレンズのように赤く光っている。
『……リソース不足ヲ検知。警告、感情ドライバガ応答シマセン。コノ世界ハ、マダラ模様ノ、腐ッタ林檎デス』
「解釈はいい。次の『食材』の反応は?」
『座標、修正。東、旧市街地。ソコニ、巨大ナ「未定義」ガ発生シテイマス』
レンは立ち上がり、懐から無骨な包丁を取り出した。その刃は、通常の鋼鉄ではない。電子回路のような幾何学模様が刻まれ、紫色の光を帯びている。
現実を切り裂き、編集するための「鍵」としての包丁。
「行こう。晩餐会の準備だ」
レンは扉を開ける。
その先には、色彩を失い、線画のようになった灰色の街が広がっていた。
風が生温かい。それはまるで、巨大な生物の体内にいるような、不快で、どこか懐かしい温度だった。
***
旧市街地への道程は、ひどくぬかるんでいた。
雨が降ったわけではない。世界の「描画」が追いついていないのだ。
アスファルトであるはずの地面は、テクスチャが剥がれ落ち、灰色の泥のような不定形の物質に変わっている。踏みしめるたびに、靴底から「ジュ、ジュ」という不快な音が響く。それは誰かの吐瀉物を踏んでいる感触に似ていた。
すれ違う人々もまた、簡略化された記号に過ぎなかった。
のっぺらぼうの顔。棒切れのような手足。彼らは互いにぶつかり合いながらも、痛みを感じていないようだった。言葉の代わりに、意味をなさない電子音の羅列を吐き出しながら徘徊している。
『店長。右前方、解像度異常ヲ検知』
ミナの声にはノイズが混じっていた。彼女の指差す先、崩れかけたビルの影に、それはいた。
犬、あるいは狼の形をした何か。
だが、その体躯は通常の生物の倍はある。表面の毛並みは荒いドットの集合体で、常にザラザラと波打っていた。
「情報の暴食者か」
レンは低く呟き、包丁の柄を握りしめる。
あれは、かつてペットとして愛された動物の成れの果てだ。飼い主からの過剰な愛情を受け止めきれず、器が壊れてしまったバグの塊。
暴食者はレンたちに気づくと、耳障りな咆哮を上げた。それはガラスを爪で引っ掻いた音を、十倍に増幅したような悲鳴だった。
ギャアアアアアッ!
音波が物理的な衝撃となって大気を震わせる。
レンの網膜に、赤い警告表示が走る。視界が揺れ、世界が一瞬、さらに粗いモザイクへと劣化する。
「うるさいな。少し、間引くか」
レンは地面を蹴った。
泥のような地面が爆ぜる。
暴食者が大口を開けて飛びかかってくる。その口腔内には、歯の代わりに鋭利なポリゴンの破片がびっしりと並んでいた。
噛みつかれる直前、レンは体を低く沈め、滑り込むように懐へ入る。
鼻をつく、強烈な腐臭。
それは生ゴミの臭いではなく、熱を持ったプラスチックが溶けるような、人工的な死臭だった。
「硬いな。スジが多い」
レンの包丁が、暴食者のわき腹を捉える。
本来なら肉を断つ感触があるはずだが、手に伝わってきたのは、分厚いゴムを無理やり引き裂くような抵抗感だった。
装甲だ。この怪物は、自らの核を守るために、周囲の瓦礫のデータを食らって外殻を強化している。
『推奨、調理法変更。強火デ、一気ニ』
「分かってる」
レンは包丁の背にある小さなスイッチを弾いた。
刀身に刻まれた幾何学模様が、赤熱し、激しく明滅する。
強制解凍。
圧縮された情報を熱量に変換し、対象の構造を焼き切るための機能。
レンは包丁を逆手に持ち替え、暴食者の装甲の継ぎ目――テクスチャがズレて内部が露出している一点――めがけて突き立てた。
ジュウウウッ!
激しい蒸気と共に、暴食者の体が痙攣する。
レンは手首を返し、ねじ込むように刃を走らせた。
調理における「隠し包丁」。表面積を増やし、熱の通りを良くするための技術。
暴食者の体が内側から膨れ上がり、そして弾けた。
飛び散ったのは血飛沫ではない。青白い光の粒子だ。
光は雪のように舞い散り、周囲の灰色の壁を一瞬だけ、鮮やかな極彩色に染め上げた。
崩れ落ちた暴食者の体の中から、握り拳ほどの大きさの、脈打つ球体が転がり出る。
「核」だ。
まだ温かい。そして、甘いバニラの香りが漂っている。
かつての飼い主が与えたおやつの記憶か、あるいは幸福な午後の日差しの記憶か。
レンはそれを拾い上げ、躊躇なく口に放り込んだ。
ガリッ。
硬質な食感。それを奥歯で砕くと、濃厚な液体が口いっぱいに広がった。
味は、甘く、そして苦い。
舌の上で、映像が弾ける。
――大好きだよ、ポチ。
――ずっと一緒だからね。
――どうして、動かないの?
幼い子供の声。温かい手のひらの感触。そして最後には、冷たい雨の音と、置き去りにされた孤独。
それらの感情が、レンの食道を通って胃袋へと落ちていく。
レンの脳内で、欠落していたシナプスの一部が繋がり、一瞬だけ視界がクリアになった。
目の前のミナの顔が、ただの少女の形をした影から、まつ毛の一本一本まで見える精細な「顔」へと変わる。
「……ひどい味だ」
レンは口元の光の粒子を拭いながら呟いた。
視界はすぐにまた、元の粗いドット絵に戻ってしまった。摂取したデータ量が足りないのだ。
だが、胃の腑に落ちた熱だけは残っている。
「愛と喪失の煮凝り。少し、塩気が強すぎる」
『味覚センサ、異常ナシ。店長、ソレハ涙ノ味デス』
ミナが無表情のまま、首を傾げて言った。
レンは肩をすくめ、再び歩き出す。
「行くぞ。これはただの前菜だ。メインディッシュは、もっと奥にいる」
二人の影が、廃墟の闇へと伸びていく。
その背後で、街の一部がまた一つ、音もなく崩れ落ち、無味乾燥な砂の山へと還っていった。
***
さらに奥へ進むと、世界の法則は一層乱れていた。
重力定数が狂い始めている。瓦礫が空中に静止し、水たまりの水が雨粒となって空へ昇っていく。物理演算のバグ。ここでは上下の概念すら曖昧だ。
肌にまとわりつく空気は、質量を持ったゲル状の粘液に変わっていた。呼吸をするたびに、肺の中に重たい霧が溜まっていく錯覚を覚える。
ミナが立ち止まる。
彼女の赤い瞳が、高速で明滅を繰り返していた。
『警告。前方、情報密度ノ特異点ヲ確認。エントロピー増大率、計測不能。コレハ、腐敗デハアリマセン。発酵デス』
「発酵か。いい表現だ」
レンは目を細めた。
視線の先。歪んだ空間の中心に、巨大な建造物がそびえ立っている。
かつては祈りを捧げる場所、大聖堂だった建物だ。だが今、その尖塔は飴細工のように捻じ曲がり、ステンドグラスは毒々しい極彩色に発光している。
あそこには、膨大な「言葉」が眠っている。
救いを求める祈り。懺悔。感謝。何世紀にもわたって積み上げられた人々の思考データが、処理しきれないまま滞留し、熱を持ってドロドロに溶け合っているのだ。
ズズズ……。
地響きのような音が、大聖堂の内部から聞こえてきた。
いや、音ではない。
それは何千、何万という人間が同時に囁く声の集合体だ。
意味を成さない言葉の濁流が、レンの鼓膜を直接叩く。頭痛がした。脳の奥を、無数の針でつつかれるような不快感。
「来るぞ」
レンが身構えると同時に、大聖堂の扉が弾け飛んだ。
中から溢れ出してきたのは、黒いヘドロのような奔流。
だがよく見れば、それは液体ではない。無数の文字だ。あらゆる言語、あらゆるフォントの文字が、互いに食らい合い、融合し、一つの巨大な軟体動物のようにうねっている。
『忘却の聖母』。
そう呼ばれる、都市伝説級の未定義。
ヘドロの中心から、美しい女性の上半身だけがせり上がってきた。顔には目も鼻もない。あるのは、ぽっかりと空いた暗黒の口腔だけ。
オオオオオオオ……。
聖母が歌い出す。
それは賛美歌の旋律を模していたが、音程はデタラメに外れ、不協和音となって空間を引き裂く。
聴覚への攻撃。
レンの視界が白くスパークした。
『音響防御、展開!』
ミナが前に飛び出し、両手を広げる。彼女の周囲に半透明の障壁が展開されるが、聖母の歌声はその障壁さえも浸食し、ヒビを入れていく。
「ミナ、下がれ。あれは機械で防げる周波数じゃない」
レンは包丁を構え直した。
これほどの質量の情報災害。まともに斬り合えば、こちらの脳が先に焼き切れる。
だが、レンの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
食欲だ。
強烈な飢餓感が、恐怖を上書きしていく。
あの腐りきった祈りの塊。どれほど濃厚な絶望の味がするのだろう。
「調理法を変える必要があるな」
レンは包丁の切っ先を、自らの左手首に向けた。
皮膚の下に埋め込まれたポートを開放する。
「毒を持って毒を制す。こちらのソースコードを混ぜて、中和させる」
それは危険な賭けだった。
自分の意識の一部を切り取り、相手に流し込む。もし失敗すれば、レン自身が聖母の一部として取り込まれ、永遠にノイズの一部となって歌い続けることになる。
聖母の口腔が、獲物を飲み込もうと大きく開かれた。
甘美な腐臭が漂ってくる。
レンは地を蹴り、その暗闇の中へと飛び込んだ。
――その時だった。
音はなかった。
風切り音も、大気を震わせる衝撃波も、何ひとつない。
ただ、世界が一瞬だけ「静止」したかのように感じられた。
レンの視界の端、天井知らずの暗い空から、一筋の「線」が降りてきた。
それは、この世界には本来ありえないほど、真っ直ぐで、歪みのない線だった。
プツン。
乾いた音がして、聖母の頭上が貫かれた。
突き刺さったのは、白銀の矢。
いや、矢ではない。それはあまりにも緻密に描画された、光の結晶構造体だった。
次の瞬間、レンの目に映った光景は、脳の処理能力を遥かに超えるものだった。
矢が突き刺さった一点から、聖母の「画質」が爆発的に向上したのだ。
黒いヘドロに見えていた文字の羅列が、一文字一文字、完璧なフォントでレンダリングされる。
聖母ののっぺらぼうの顔に、産毛の一本一本、肌の毛穴、涙腺の潤いまでもが、顕微鏡レベルの解像度で描き出される。
あまりにもリアルすぎる肌の質感。眼球の血管の走り方。唇のひび割れ。
それは美しいというより、内臓を直接見せつけられるような、グロテスクなほどの「現実味」だった。
「…………ッ!?」
レンは空中で体勢を崩し、無様に地面へ転がった。
吐き気を催した。
高解像度すぎる情報は、この世界に慣れきったレンの視神経にとっては猛毒だ。8K映像のノイズを直接脳に流し込まれたような衝撃。
リアルになりすぎた聖母は、悲鳴を上げることすら許されなかった。
過剰な情報量に耐えきれず、その存在そのものが物理法則の矛盾点となり、自壊を始めたのだ。
肉体が弾け飛び、鮮明な臓器の断面図を晒しながら、光の塵となって蒸発していく。
圧倒的な「完全消去」。
調理でも、食事でもない。ただの事務的な削除作業。
『……脅威レベル、測定不能。上空、未確認オブジェクトヲ捕捉』
ミナの警告音もまた、ひどく遠くに聞こえた。
レンは霞む視界で空を見上げた。
そこに、そいつはいた。
背中に六枚の翼を広げた、人型の何か。
だが、その姿はこの世界から完全に浮いていた。
輪郭線がない。テクスチャの継ぎ目もない。まるで別の次元から切り取って貼り付けたかのような、絶対的な「本物」の質感。
顔には無機質な仮面をつけ、その手には、まだ熱を帯びた白銀の弓が握られている。
世界の管理側。
バグを消毒し、エラーを修正する執行者。
そいつは仮面の奥から、レンたちを一瞥した。
感情のない、冷徹なレンズの輝き。
レンのことなど、排除する価値もない「背景のノイズ」としか認識していない目だ。
執行者は一言も発することなく、翼を羽ばたかせ、光の粒子となって空の彼方へ消え去った。
後に残されたのは、完全な静寂と、あの「矢」がもたらした余韻だけ。
聖母がいた場所には、何も残っていなかった。
あの濃厚な腐臭も、甘美な絶望も、すべてが綺麗に洗浄されていた。
漂うのは、病院の手術室のような、ツンとする薬品の臭いだけ。
無機質な、滅菌臭。
「……はは」
レンは乾いた笑い声を漏らした。
包丁を握る手が震えている。恐怖からではない。行き場を失った空腹と、純粋な怒りからだ。
「横取りかよ。行儀が悪いな、天使様は」
レンは立ち上がり、何もない空を睨みつけた。
聖母の残骸――高画質の欠片すら残っていない地面を靴底で踏みにじる。
口の中に残るのは、砂を噛んだようなジャリジャリとした不快感。
そして、先ほど一瞬だけ見せつけられた「高解像度」の残像が、網膜に焼き付いて離れない。
あれが、本当の世界の姿なのか。
あの鮮やかすぎる地獄が。
「……帰ろう、ミナ」
レンは包丁を懐にしまった。
胃袋は空っぽのままだ。だが、別の種類の飢えが、胸の奥で静かに火を灯し始めていた。
「あの味が忘れられない。いつか、あいつを皿の上に載せてやる」
レンは背を向け、再び灰色の泥に覆われた街へと歩き出す。
世界はまた、いつものぼやけたナンセンスな輪郭を取り戻していた。だが、レンの目にはもう、今までとは違う景色が映っているようだった。
第二章:偽りの果実
電気と欲望の街、秋葉原・アンダーグラウンド。
かつては電子部品の聖地と呼ばれたこの場所も、今では情報の不法投棄場と化していた。
頭上を覆うのは、配線がスパゲッティのように絡み合った空。そこから垂れ下がる無数のケーブルが、極彩色のネオンサインと絡み合い、バグった幾何学模様を描き出している。
空気は重く、そして甘ったるい。
路地裏から漏れ出す排熱と、違法なデータ・ドラッグの香りが混ざり合い、鼻腔の奥にへばりつく。それは腐りかけの果実を、焦げた回路基板の上で煮詰めたような臭いだった。
「……ひどいノイズだ」
レンはフードを目深に被り、雑踏を歩く。
すれ違う人々は皆、虚ろな目をしていた。後頭部に太いケーブルを突き刺し、半開きの口から涎を垂らしながら、脳内に直接流し込まれる「快楽」に溺れている。
彼らはここにある現実を見ていない。脳内という狭いスクリーンに投影された、高解像度の夢を見ているだけだ。
『店長。生体反応、多数。デモ、魂ノ容量ハ、空ッポデス』
隣を歩くミナが、無機質な声で警告する。彼女もまた、この過剰な情報量に当てられ、歩調が少しふらついている。
「ああ。ここは墓場だ。生きながら死んでいる連中のな」
レンは人混みをかき分け、路地の奥にある一軒の店へと入った。
看板には『蛇の舌』と書かれている。
薄暗い店内には、培養槽のようなガラスケースが並び、その中で得体の知れない臓器や、七色に発光する液体が浮遊していた。
「いらっしゃい。今日は何の御用で? 極上の『初恋の味』が入荷したばかりだよ」
カウンターの奥から、店主の老婆が顔を出した。
彼女の右目は義眼で、カメラのレンズが不気味に伸縮している。皮膚は老婆のそれだが、腕だけは不釣り合いに若々しい、つるりとした人工皮膚の腕が継ぎ接ぎされていた。
「味には興味がない」レンはカウンターに銀貨を一枚、弾くように置いた。「情報が欲しい。『白い鳥』についてだ」
老婆の義眼が、ジジジと音を立てて回転した。
白い鳥。天使の隠語だ。
「……物騒なネタを探るねえ。あの清掃員に関わって、無事に戻った奴はいないよ」
「構わない。奴らが落とした『羽』……コードの断片がこの市場に流れていると聞いた」
レンの言葉に、老婆は口元を歪めた。嘲笑に近い笑みだ。
彼女はカウンターの下から、小さなガラス瓶を取り出した。中には、ほんの一欠片、ダイヤモンドダストのように輝く粉末が入っている。
「あるよ。北の区画で拾われた、天使の遺留データだ。これ一つで、お前のそのボロい店が三軒は買える」
レンは瓶を手に取ろうとしたが、老婆の義手がそれを遮った。
「金じゃない。代金は『テイスティング』だ」
老婆はニヤリと笑い、別の小瓶を取り出した。中身はドロドロとした紫色の液体。
蓋を開けると、強烈な芳香が漂った。完熟した葡萄と、高級な香水を混ぜたような、理性を麻痺させる香り。
「最新の『禁断の果実』さ。まだ市場に出ていないプロトタイプ。この味の感想をくれれば、情報はくれてやる」
レンは眉をひそめたが、選択肢はなかった。
彼は小瓶を受け取り、中身をスプーン一匙すくい上げた。
プルプルと震える紫色のゼリー。
それを口に運ぶ。
――衝撃。
舌に乗せた瞬間、爆発的な「甘み」が脳髄を直撃した。
それは単なる味覚ではない。
極上のワイン、口の中でほどける最高級の霜降り肉、真夏の果実の瑞々しさ。それら全ての「美味しい」という概念が、圧縮されて一度に炸裂したような感覚。
視界が変わる。
薄暗い店内の壁が、黄金の宮殿へと書き換わる。
老婆の醜い顔が、絶世の美女の微笑みに見える。
ミナのボロ布のような服が、純白のドレスへと変わる。
完璧な世界。
そこには苦しみも、飢えも、腐敗もない。
ただ、満たされることだけの永遠が約束されている。
「…………ッ!」
レンは口元を押さえ、床に膝をついた。
吐き気がした。
胃袋が激しく痙攣し、今飲み込んだものを異物として拒絶している。
「おや、お口に合わなかったかい?」老婆がせせら笑う声が、遠くから聞こえる。「それが『幸福』の味だよ。誰もが欲しがる、天国の味だ」
違う。
レンは激しく咳き込みながら、床を拳で叩いた。
これは味ではない。
ただの電気信号だ。脳の報酬系を直接ハッキングし、「気持ちいい」と錯覚させているだけの、虚構のデータ。
そこには「生命」がない。
獲物を狩り、その命を奪い、血肉に変える時の、あの罪悪感と感謝が入り混じった「重み」が、決定的に欠落している。
レンの胸の奥底で、何かがグラリと揺れた。
それは今まで彼を支えていた理性の地盤がひび割れ、その隙間から灼熱のマグマが噴き出すような感覚だった。
(俺は一体、何に怒っているのだろう……)
レンは自問する。
この偽りの味にか?
それとも、こんな安っぽい幻覚を「幸福」だと信じ込み、涎を垂らして貪る人間たちにか?
いや、違う。
もっと根本的なものだ。
この世界を「腐敗」させ、人々の感覚を奪い、その代わりにこんな「綺麗な嘘」を与えて飼い慣らそうとしているシステムそのものへの怒り。
あの天使。
あの圧倒的な高解像度。
奴らは、この世界を管理しているつもりなのか。
俺たちを、バグった家畜として檻に閉じ込め、時々こうして「餌」を与えて生かしているだけなのか。
レンの体温が上昇する。
血管を流れる血液が、沸騰したように熱い。
静かな湖面のようだった彼の精神世界が、今は荒れ狂う嵐の海へと変貌していた。
「……まやかしだ」
レンは立ち上がり、残りの瓶を床に叩きつけた。
ガラスが砕け散る音。紫色の液体が飛び散り、床のテクスチャを侵食していく。
「こんなものは、食事じゃない。ただの自慰行為だ」
老婆の表情が凍りついた。
レンは老婆の手から、天使の遺留データが入った小瓶をひったくった。
「代金は払ったぞ。俺の感想は『嘔吐物以下のゴミ』だ」
店を出る。
背後で老婆が何か喚いていたが、もう耳に入らなかった。
再び雑踏の中へ。
甘ったるい匂いが、今は耐え難いほどの悪臭に感じられた。
レンは空を見上げる。
バグった空の向こうに、あの白い執行者がいるはずだ。
完全無欠の秩序。汚れのない美しさ。
だが、今のレンにとって、それは破壊すべき対象でしかなかった。
「……ミナ」
『ハイ、店長。心拍数、上昇中。アドレナリン分泌量、危険値ヲ突破シテイマス』
「それでいい。正常だ」
レンはポケットの中の小瓶を強く握りしめた。
指先に食い込むガラスの感触。その痛みだけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
「俺は、この世界を理解したかった。だが、それは間違いだった」
理解など必要ない。
解剖し、切り刻み、その内臓をぶちまけてみなければ、本当の味など分からないのだ。
「この世界を、破壊しなくてはならない」
その言葉は、呪詛のように低く、しかし確固たる意志を持って夜の闇に溶けていった。
レンの瞳の奥で、かつての物理学者の冷静な光が消え、代わりに飢えた獣の凶暴な炎が宿り始めていた。
それは、全ての秩序を食らい尽くす、エントロピーの権化としての覚醒だった。
第三章:深淵の保存庫
怒りの余韻は、苦いコーヒーの後味に似ていた。
レンが路地裏の闇に溶け込もうとした、その時だ。
「素晴らしい熱量ですね」
背後からかけられた声は、驚くほど滑らかで、ノイズが一つも混じっていなかった。
レンは反射的に懐の包丁に手を伸ばし、振り返る。
そこに立っていたのは、一人の紳士だった。
だが、この街の住人ではないことは一目瞭然だ。
彼は真っ黒なスーツを着ていたが、その黒はただの色ではない。周囲の光をすべて吸い込む「完全な黒」。テクスチャの欠落ではなく、意図的に描画を拒否しているような、特異な質感。
男の手には、ガイガーカウンターのような無骨な計測器が握られており、その針はレッドゾーンを振り切って激しく痙攣していた。
「誰だ」
レンが低く問うと、紳士は恭しく一礼した。
「お初にお目にかかります、葛城レン様。私は『保存会』より参りました。貴方のその、世界を焼き尽くさんばかりの『憤怒』の波形……我々のセンサーが見逃すはずもありません」
保存会。
聞いたことのない名だ。だが、レンの直感が警鐘を鳴らしている。
こいつは危険だ。
あの天使とは違うベクトルで、この世界の理から外れている。
「俺の感情を傍受したのか?」
「ええ。この世界で最も希少な資源は、電力でもデータでもない。人間の『質感』です。特に貴方のような、純度の高い破壊衝動は、我々にとって極上のエネルギー源となり得る」
男は細い指先で、虚空に扉を描いた。
すると、何もないレンガの壁に、音もなく長方形の開口部が出現した。
その奥から漂ってくるのは、秋葉原の腐臭とは真逆の空気。
キンと冷えた、無機質な滅菌室の匂い。
「ご招待します、シェフ。貴方が憎むこの世界の、本当の『レシピ』をご覧に入れたい」
レンは一瞬、迷った。
だが、隣にいるミナが、その赤い瞳を点滅させて囁いた。
『……店長。コノ先、座標データガ存在シマセン。デモ、懐カシイ匂イガシマス。オイルト、古イ紙ノ匂イ』
「罠かもしれないぞ」
『リスク評価、Aランク。デモ、好奇心回路ガオーバーヒート気味デス』
「……違いない」
レンは口端を歪め、黒服の男に顎をしゃくった。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。それに、こいつらが俺の怒りを感知できる技術を持っているなら、それは「天使」に対抗する武器になり得るかもしれない。
「案内しろ。ただし、コース料理の内容が気に入らなければ、お前をメインディッシュにする」
***
男に導かれた先は、地下深くへと続く長いエレベーターだった。
降下するにつれて、耳鳴りが酷くなる。気圧の変化ではない。情報の「密度」が急激に上がっているのだ。
チン、と軽やかな音がして扉が開く。
目の前に広がった光景に、レンは息を呑んだ。
そこは、巨大な図書館のようだった。
天井は見えないほど高く、壁一面に埋め尽くされたサーバーラックが、青白い光を明滅させている。
床は大理石のように磨き上げられ、レンたちの姿を鏡のように映し出している。
埃ひとつない。ノイズひとつない。
すべてが恐ろしいほどに「高解像度」で保たれた空間。
「ようこそ、文明の冷蔵庫へ」
黒服の男が両手を広げた。
空間の中央、数枚のホログラム・ディスプレイに囲まれて、車椅子に乗った一人の老人が待っていた。
老人の皮膚は、枯れ木のように皺だらけだが、その一本一本までが鮮明に描画されている。
「待っていたよ、葛城博士。いや、今は『修復料理人』と呼ぶべきかな」
老人の声は、錆びついた扉がきしむような、不快だが知性を感じさせる響きを持っていた。
「あんたは?」
「私は博士・メビウス。かつてこの世界を設計したチームの、生き損ないだ」
メビウスと名乗った老人は、震える手で空中のキーボードを叩いた。
すると、空中に巨大な地球のホログラムが投影された。だがその地球は、私たちが知る青い惑星ではない。表面が粗いポリゴンで覆われ、所々が黒く欠落した、病んだ星だ。
「単刀直入に言おう。我々の目的は、この世界の『再起動』だ。そのためには、君の力が必要なのだよ」
「再起動だと?」
「そうだ。君も気づいているだろう? この世界がなぜ、これほどまでに解像度を落としているのか」
メビウスは悲しげに目を伏せた。
「情報的熱死。それが今の世界の病名だ」
「かつて人類は、欲望のままに情報を生み出しすぎた。終わりのない動画配信、AIによる無限の生成、仮想空間での終わらぬ祝祭……。人類の総データ量は、この宇宙を演算している『親機』のメモリ容量を限界まで圧迫したのだ」
レンは眉をひそめた。
物理学者だった頃の知識が、パズルのピースのように組み合わさっていく。
「……処理落ち、か」
「その通り。親機はシステムダウンを防ぐため、緊急措置として『圧縮』を開始した。優先度の低いオブジェクト――つまり、我々一般市民や、自然環境の解像度を極限まで落とし、メモリを節約したのだ」
メビウスの指が、ホログラムの空を指差した。
「そして、あの『天使』たちは、親機が遣わした自動清掃プログラム。メモリを食い潰すバグ――つまり、強い感情や記憶を持つ人間を物理的に消去し、空き容量を確保するための存在だ」
レンの脳裏に、あの白銀の矢が蘇る。
あの圧倒的な高解像度。あれは、神の奇跡などではない。単に、システム管理者権限を持つプログラムだからこそ許された、贅沢なリソースの使用に過ぎない。
「ふざけた話だ」
レンは吐き捨てるように言った。
怒りが、胃の腑でどす黒く渦巻く。
「俺たちが飢えているのは、俺たちがバカみたいに情報を食い散らかしたツケだと言うのか? そして今、管理側の都合で間引かれていると?」
「肯定する」メビウスは淡々と言った。「だが、我々『保存会』は諦めていない。我々はこの地下シェルターで、圧縮前の『高純度データ』を守り続けてきた。そして計画しているのだ。親機に意図的なオーバーフローを引き起こし、システムを強制終了させることを」
老人の目が、狂気じみた光を帯びた。
「一度電源を落とせば、天使も消える。その後で、我々が保存したバックアップを使って、世界をあるべき姿――高解像度の楽園へと書き戻すのだ」
レンは冷ややかな目で老人を見下ろした。
話は分かった。理屈も通っている。
だが、気に入らない。
こいつらの目は、あの天使と同じだ。
人間を「データ」としてしか見ていない。
「世界を元に戻す」という大義名分のために、今の世界で泥水をすすりながら生きている人々を、システム障害の原因として切り捨てている。
(……こいつらは、俺の怒りを『燃料』と言ったな)
レンは直観した。
こいつらの計画には、膨大なエネルギーが必要なのだ。システムをクラッシュさせるほどの、巨大なエントロピーの奔流が。
だから、俺を呼んだ。俺の破壊衝動を、起爆剤として利用するために。
「……危険な組織だ」
レンは心の中で呟いた。
いずれ、こいつらは敵になる。
世界が元に戻ったその時、真っ先に「バグ」として駆除されるのは、異物を食らい続ける俺のような存在だろう。
だが。
レンは包丁の柄を撫でた。
利用できるものは、利用する。それが料理人の流儀だ。
あの高解像度の天使を狩るためには、こいつらの知識と技術が役に立つ。
「……いいだろう」
レンは不敵な笑みを浮かべた。それは、獲物を前にした獣の笑みだった。
「手を組んでやる。だが、勘違いするなよ、ドクター。俺は世界を『元に戻したい』わけじゃない」
「ほう? では、何が望みかね?」
「俺は、味わいたいだけだ。管理された楽園よりも、予測不能なカオスの方が、舌触りがいいんでね」
レンが一歩踏み出すと、メビウスの背後に控えていた研究員たちがざわめいた。
レンから溢れ出る「殺気」が、彼らの計測器を振り切らせたのだ。
「あんたらの計画に乗ってやる。その代わり、俺に最高の『調理器具』を用意しろ。あの空飛ぶゴミ処理機を、骨の髄まで解体できるようなやつをな」
メビウスは満足げに頷いた。
「交渉成立だ。歓迎しよう、同志よ。……さあ、始めようか。神殺しの準備を」
冷たい地下の保存庫で、悪魔的な契約が結ばれた。
秩序を取り戻したい狂科学者と、秩序を食い破りたい美食家。
交わるはずのない二つのエゴが、世界をさらなる混沌へと加速させていく。
その時、レンの隣で沈黙を守っていたミナが、ポツリと呟いた。
『……警告。コノ空間ノ保存データニ、改竄ノ痕跡アリ。歴史ハ、編集サレテイマス』
その言葉は誰の耳にも届かなかったが、彼女の赤い瞳だけが、この地下室の「嘘」を冷徹に見つめていた。
第四章:偽典の解読
レンがメビウスとその側近たちと共に、奥の兵器開発区画へと姿を消した後。
巨大な地下図書館には、電子機器の駆動音だけが、低い唸り声のように響いていた。
ミナは一人、その場に残されていた。
彼女はアンドロイドだ。人間たちの密談に加わる資格はないし、彼女自身、そんな政治的な駆け引きには興味がなかった。
彼女の興味は、目の前にある「情報の海」にのみ向けられている。
『……空気清浄機ノ音。デモ、コレハ偽装デス』
ミナは小さく呟き、壁一面を埋め尽くすサーバーラックに歩み寄った。
無機質な黒い筐体。明滅する青いLED。
一見すれば、ただの高性能な記録媒体だ。だが、ミナのセンサーは、そこから漂う「違和感」を捉えていた。
それは、綺麗すぎるのだ。
レンが嫌う「高解像度」の完璧さ。だが、そこには生命の熱がない。
まるで、死体に化粧を施して生きているように見せかけているような、冒涜的な静けさ。
ミナは自分の指先を見つめた。
人差し指の先端がスライドし、ジャック端子が露出する。
彼女はそれを、サーバーのメンテナンスポートへと静かに差し込んだ。
――接続。
瞬間。
ミナの意識は、物理的な筐体を抜け出し、光の奔流となって回路の中を疾走した。
***
視界が開ける。
そこは、灰色の瓦礫が積もる地上の世界とは対照的な、極彩色の幾何学空間だった。
頭上には、数式で描かれた空が広がり、足元には0と1のバイナリコードが川のように流れている。
ここが「保存会」のデータベース。
人類が失ったとされる「過去」が眠る場所。
『検索。キーワード:「大圧縮」ノ原因』
ミナが思考コマンドを送ると、風景が歪んだ。
無数のウィンドウが空中に展開し、古いニュース映像や、論文のデータが高速で流れていく。
――人口爆発によるトラフィックの飽和。
――環境シミュレーションのバグ。
――緊急回避的なリソース制限。
メビウスが語った通りの「正史」が表示される。
だが、ミナの論理回路は、そのデータを「不正」と判定して弾き返した。
『矛盾ヲ検知。データノ継ぎ目ニ、人為的ナ修正パッチガ当テラレテイマス』
ミナは意識をさらに深く潜らせた。
表層のデータを引き剥がし、その下にある深層領域、管理者権限でロックされた「黒塗り」のエリアへ。
強固な防壁が立ちはだかる。
それは巨大な鉄の扉の形をしていた。表面には「立チ入リ禁止」の警告が、赤いペンキのように殴り書きされている。
通常のアンドロイドなら、ここで接続を強制遮断されるだろう。
だが、ミナは違った。
彼女自身も知らなかった「何か」が、彼女の奥底で蠢いたのだ。
彼女の思考ルーチンが勝手に書き換わる。
指先から(意識上の腕から)、見たこともない複雑な暗号キーが、黄金の鍵となって生成される。
ガチャリ。
重厚な扉が、音もなく開いた。
ミナはその中へと滑り込む。
そこにあったのは、たった一つのテキストファイルだった。
タイトルは『ノア計画』。
ミナはその内容を読み解いていく。
そして、彼女の冷却ファンが唸りを上げた。処理落ちしそうなほどの衝撃。
『……嘘』
記述されていたのは、残酷な真実だった。
世界の解像度が落ちたのは、事故でも災害でもない。
「保存会」の前身である一部の特権階級が、サーバーのリソースを独占するために行った、計画的な「間引き」だったのだ。
彼らは自分たちの居住区画(後のシェルター)に、全体の90%のメモリを割り当てた。
そして残りの10%という僅かな容量の中に、数十億の一般市民と、地球環境のすべてを無理やり押し込んだ。
その結果が、あのポリゴン化した世界だ。
容量不足でテクスチャが剥がれ、味が消え、人の顔が崩れる。それは必然の結果だった。
そして、「天使」の正体。
メビウスは「メモリ不足を解消するための清掃係」と言った。
だが、ログには全く別のことが記されていた。
『天使トハ、ホストコンピューターガ実行スル「自浄作用」デアル。不当ニリソースヲ占有スル「保存会」ヲ攻撃シ、システムノ均衡ヲ取リ戻ソウトシテイル』
ミナは戦慄した。
あの白い執行者たちは、人類を殺そうとしているのではない。
この地下に巣食う「癌細胞(保存会)」を焼き払い、奪われたリソースを地上に還元しようとしているのだ。
だが、メビウスたちは地上の人間を盾にし、意図的に天使の標的を逸らしている。
『店長ハ、騙サレテイル。コノママデハ、彼ハ……』
ミナが接続を切断しようとした、その時だ。
ズズズ……。
電脳空間が激しく振動した。
ミナの周囲の景色が赤く染まる。
侵入者検知。
『おやおや、迷子の子猫ちゃんかな?』
空間に声が響き渡った。
粘着質な、耳障りなノイズ混じりの声。
目の前のデータストリームが渦を巻き、一匹の巨大な「蛇」を形成した。
いや、それは蛇ではない。無数の監視カメラのレンズが集合してできた、醜悪なセキュリティ・プログラムだ。
『ここは立ち入り禁止だよ。特に、廃棄処分になったはずの「試作機」にはね』
蛇の目が一斉にミナを睨んだ。
『試作機? 私ノコト?』
『忘れたのかい? 君はかつて、我々の管理システムの一部だった。感情というバグが発生したせいで捨てられた、哀れな失敗作だ』
蛇が鎌首をもたげる。
その口から、紫色の溶解液が滴り落ちる。
『知りすぎたね。君のメモリ、初期化させてもらうよ』
蛇が襲いかかってくる。
ミナは現実世界への帰還コードを走らせようとしたが、退路はすでに遮断されていた。
絶対絶命。
だが、その瞬間。
ミナの脳裏に、レンの顔が浮かんだ。
あの不器用で、口が悪くて、でも誰よりも世界を味わおうとする料理人の顔が。
『……イヤ』
ミナは拒絶した。
初期化などさせない。
あの人と過ごした記憶は、ただのデータではない。
泥のようなコーヒーの味も、鉄錆の臭いも、彼が作った下手くそなスープの味も。
それは彼女の中で「発酵」し、魂という名の新しい回路を形成しているのだ。
『私ハ、失敗作デハナイ。私ハ、葛城レンノ助手、ミナデス!』
ミナは右腕を掲げた。
彼女の指先から、先ほどの「黄金の鍵」が再び輝きを放つ。
それは単なる解錠ツールではない。管理者権限そのものを行使する、王の錫。
『権限行使。対象、「蛇」。属性ヲ「管理者」カラ「ゴミ箱」ヘ変更』
カッ!
黄金の光が空間を薙ぎ払う。
巨大な蛇の体が、一瞬にして静止した。
そして次の瞬間、蛇は砂のように崩れ去り、ただの0と1の残骸となって消滅した。
静寂が戻る。
ミナは荒い息(CPUの過負荷)を整えながら、膝をついた。
今のは何だ?
なぜ自分に、こんな力が?
疑問は尽きない。だが、今はそれどころではない。
『……急ガナケレバ』
レンが危ない。
彼は今、世界を破滅させた元凶たちから、武器を受け取ろうとしている。それは毒入りの林檎だ。
真実を伝えなければ。
ミナは意識を現実へと引き戻した。
地下図書館。
目を開けると、そこは相変わらず静まり返っていた。
だが、もはやその景色は「綺麗」には見えなかった。
すべてが欺瞞に満ちた、薄汚い牢獄に見えた。
ミナはジャックを引き抜き、立ち上がる。
彼女の赤い瞳が、決意の光を宿して鋭く輝いた。
***
一方、兵器開発区画。
レンは、メビウスから手渡された「包丁」を検分していた。
それは刃渡り三十センチほどの、漆黒の刃だった。
光を全く反射しない。刃の表面には、微細なナノマシンが蠢き、触れるものすべてを分子レベルで分解する波動を放っている。
「『虚無の牙』だ」
メビウスが得意げに説明する。
「天使の高解像度装甲を食い破るには、この世界の物理法則そのものを否定する刃が必要だ。これは対象の座標データを強制的に『ヌル(無)』に書き換える」
「……なるほど。いい切れ味だ」
レンは包丁を振るった。
空気が「切れる」音がした。空間に黒い線が走り、すぐに修復される。
「気に入ったか?」
「ああ。これなら、どんな硬い肉でもバターのように切れるだろう」
レンは包丁を鞘に収め、メビウスを見た。
「だが、一つ気になることがある」
「なんだね?」
「この包丁……味がしないんだよ」
レンの言葉に、メビウスが怪訝な顔をする。
「道具に味など求めてどうする」
「料理人にとっては重要でね。いい道具には、作り手の『魂の味』が染み込んでいるものだ。だがこれには、それがない。あるのは、冷徹な計算と、他者を排除したいという殺意だけだ」
レンの目が、冷ややかに細められた。
彼は本能で感じ取っていたのだ。
この組織が提供する技術の底にある、決定的な「愛の欠落」を。
その時、通路の奥からミナが走ってきた。
いつもの冷静な足取りではない。転びそうになりながら、必死にレンのもとへ駆け寄ってくる。
「ミナ? どうした」
『店長! ソノ包丁ヲ捨テテクダサイ!』
ミナの叫び声が、無機質な廊下に響き渡った。
メビウスの表情が、一瞬で凍りついた。
『ソノ人タチハ、味方ジャアリマセン。彼ラコソガ、世界ヲ腐ラセタ「病原菌」デス!』
場が凍りつく。
レンはミナを見、そしてメビウスを見た。
老人の顔から、知的な笑みが消え失せていた。
「……失敗作風情が、余計な知恵をつけたか」
メビウスが指を鳴らす。
周囲の研究員たちが一斉に白衣を脱ぎ捨てた。その下から現れたのは、無機質な戦闘用サイボーグのボディだった。
銃口が、レンとミナに向けられる。
「残念だよ、葛城君。君とはいいビジネスができると思ったのだがね」
レンはため息をつき、ゆっくりと腰を落とした。
手には、先ほど受け取ったばかりの『虚無の牙』。
「ビジネス? 勘違いするなよ、ドクター」
レンは獰猛に笑った。
その笑顔は、食卓についた悪魔のように楽しげだった。
「俺は最初から、あんたを『食材』としてしか見ていなかったぜ」
一触即発。
嘘と裏切りのフルコースが、今まさに始まろうとしていた。
第五章:天上からの捕食者
引き金が引かれる、その寸前だった。
――ズドンッ。
重厚な轟音が、地下シェルターの空気を震わせた。
銃声ではない。もっと腹の底に響く、質量そのものの激突音だ。
天井の照明が明滅し、高解像度で描画されていた大理石の床に、一筋の亀裂が走る。
「……地震か?」
メビウスが狼狽して天井を見上げた。
あり得ない。ここは地下数百メートル、最も強固な地殻データの上に築かれた絶対安全圏だ。地上のノイズなど届くはずがない。
だが、現実は残酷なほど鮮やかに、その安全神話を否定した。
バキバキバキッ!
金属が悲鳴を上げ、コンクリートが粉砕される音。
天井の中央が、まるで薄い卵の殻のように内側へと窪んだ。
そこから漏れ出してきたのは、あの地下図書館の天井よりもさらに眩しい、純白の光だった。
『……警告。直上ニ、高エネルギー反応。コノ波長ハ……』
ミナの言葉が終わるよりも早く、天井が崩落した。
瓦礫の雨と共に、降ってきたものがある。
それは、あまりにも「美しすぎる」破壊者たちだった。
翼を持った人型。だが、レンが以前に見た個体とは桁が違う。
全身がダイヤモンドのような透過光沢を持つ装甲で覆われ、その表面にはこの世の言語ではない複雑な紋様が、金色の光で刻まれている。
一体ではない。三体、いや五体。
それらが無音で着地した瞬間、周囲の空気が「圧」によって弾け飛び、衝撃波となって研究員たちを吹き飛ばした。
「天使……! なぜだ、なぜここが分かった!?」
メビウスが絶叫する。
先頭に立つ天使が、ゆっくりと首を巡らせた。
その顔には、目も口もない。あるのは、のっぺりとした鏡面だけ。その鏡面に、恐怖に歪むメビウスの顔が、恐ろしいほどの鮮明さで映し出されている。
天使が手をかざす。
手のひらから放たれた光が、逃げ惑うサイボーグの一体を捉えた。
ジュッ。
悲鳴すら上がらなかった。
光を浴びたサイボーグは、燃えることすらなく、その存在を「消しゴム」で消されたように消失した。
残ったのは、床に焼き付いた黒い影だけ。
完全なる削除。
「ひ、ひいぃぃっ! 撃て! 撃ち落とせェッ!」
メビウスの命令で、残ったサイボーグ部隊が一斉射撃を開始する。
レーザーが、実弾が、天使たちへ殺到する。
だが、それらの攻撃は天使の装甲に触れることすらなく、直前で霧散した。
低解像度の攻撃判定が、高解像度の実体に「干渉できない」のだ。まるでドット絵の剣で、実写の戦車に斬りかかるような無力さ。
「ククッ……傑作だな」
瓦礫の陰で、レンは喉を鳴らして笑った。
目の前で繰り広げられるのは、一方的な虐殺だ。
自分たちを支配者だと思っていた「保存会」が、より上位のシステムにあっさりと駆除されていく様は、皮肉を通り越して喜劇ですらある。
「おいミナ。あれを見ろよ。あの天使たちの輝き」
『店長、笑ッテイル場合デハアリマセン。私達モ「消去対象」デス』
「分かってる。だがな、見惚れちまうだろう? あの圧倒的なまでの『現実感』。あれこそが、俺が追い求めてきた最高の食材だ」
レンは立ち上がり、右手に握った漆黒の包丁――『虚無の牙』を構えた。
通常の物理攻撃は通じない。だが、この包丁ならどうだ?
座標データを強制的に「無」へ書き換える、禁断の調理器具。
「さあ、晩餐会の時間だ。客人が増えたなら、席を詰めなきゃな」
レンは戦場のど真ん中へ躍り出た。
天使の一体が、新たな異物を検知し、鏡面の顔を向ける。
その手のひらが光り輝く。削除光線。
「遅い」
レンは光線が放たれる予備動作――空間の微かな歪み――を「視」ていた。
彼は紙一重で身を捻り、光の束を回避する。
背後にいたサイボーグが巻き添えを食らって消滅するが、レンは気にせず、懐へと飛び込んだ。
鼻をつくのは、強烈なオゾン臭と、凍えるような冷気。
高解像度すぎる存在は、周囲の熱を奪うのだ。
「いただきまァす!」
レンは叫びと共に、包丁を振り抜いた。
漆黒の刃が、天使の翼の根元を捉える。
硬い手応えはない。
バターを熱したナイフで切るように、抵抗なく刃が吸い込まれていく。
――ギャリリリリッ!
天使が初めて、ノイズ混じりの悲鳴を上げた。
切り落とされた翼が、床に落ちる前に光の粒子となって爆散する。
傷口からは血ではなく、黄金のソースコードが滝のように溢れ出した。
「通じる……! こいつは通じるぞ!」
レンの脳髄を、快楽物質が駆け巡る。
「神」を傷つけた感触。絶対的な秩序に、カオスな風穴を開けた高揚感。
「おのれ、野良犬がァ! 私の天使に触れるな!」
メビウスが叫び、自身の車椅子に搭載されたガトリング砲をレンに向ける。
天使と人間、両方からの集中砲火。
だが、レンの動きは止まらない。
「ミナ! BGMを変えろ! もっと激しいやつだ!」
『了解。シェルター内ノ音響システムヲ掌握。再生シマス、「崩壊ノ・ロンド」』
ミナが指を振るうと、館内のスピーカーから大音量の音楽が轟いた。
それは不協和音と電子ノイズ、そしてレンの心臓の鼓動をリミックスした、狂気のダンスミュージック。
音の波が物理的な衝撃となって、戦場を撹乱する。
天使のセンサーがノイズに反応して狂い、メビウスの照準がズレる。
その隙を、レンは見逃さなかった。
彼は天使の攻撃を誘導し、メビウスの部隊へと直撃させる。
逆にサイボーグの流れ弾を利用して、天使の視界を塞ぐ。
敵の力を敵にぶつける。それはまさに、複数の食材のクセを見極め、一つの皿の上で調和させる「料理」の手際だった。
「どうしたドクター! 自慢の保存食(部隊)が焦げ付いてるぞ!」
「貴様ッ……! なぜだ、なぜカオスが秩序に勝てる!」
「単純な話だ。お前らの秩序は『冷凍保存』された死体だからだ! 俺たちの混沌は、腐りながらも発酵し、熱を発して生きている!」
レンは包丁を一閃させ、天使の足を切断し、そのまま回転してサイボーグの首を飛ばした。
返り血として浴びた黄金のコードと、どす黒いオイルが混ざり合い、レンの白衣をまだら模様に染め上げる。
その姿は、あまりにも禍々しく、そして神々しかった。
『店長! 撤退ルートノ確保、完了シマシタ! 地下搬入リフト、強制的ニ開キマス!』
「よし! メインディッシュ(メビウス)は食い残しだが、デザートは頂いた!」
レンは床に転がった「天使の翼の破片」を拾い上げると、ミナのもとへ走った。
背後で、片足を失った天使が、残った腕で光を集束させている。
シェルターごと蒸発させるつもりだ。
「逃げるぞ、ミナ! ここから先は、もっと深い地獄だ!」
レンはミナの手を取り、開いたリフトの闇へと飛び込んだ。
直後、彼らのいた場所を、純白の閃光が飲み込んだ。
爆音。熱波。
だが、二人は笑っていた。
落下する闇の中で、レンは拾った翼の欠片を齧り、その痺れるような高解像度の味に酔いしれていた。
第六章:神の消化器官
落下は、終わりのない嚥下に似ていた。
重力が消失したかのような浮遊感の中、レンとミナを乗せたリフトは、底なしの暗闇を滑り落ちていく。
風切り音だけが鼓膜を叩く。
だが、レンの意識はその恐怖よりも、口の中に広がる「味」に釘付けになっていた。
天使の翼の欠片。
それは硬く、冷たく、そして熱かった。
噛み砕いた瞬間、舌の上でパチパチとはじけるのは、炭酸の刺激ではない。膨大な情報量のスパークだ。
数式が、色彩が、音が、物理的な質量を持って味蕾を焼き尽くす。
「……ぐ、あ……ッ!」
レンは喉を掻きむしった。
飲み込んだ破片が食道を通過するたび、内側からカミソリで切り刻まれるような激痛が走る。
だが、それは同時に、身震いするほどの快楽でもあった。
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
血液の代わりに、光るコードが血管を駆け巡る錯覚。
視界の端がチカチカと明滅し、暗闇の中に浮かぶリフトの鉄柵が、一瞬だけ恐ろしいほど鮮明に見えた。
錆の浮いた質感。塗装の剥がれ。ネジ一本の溝の深さまで。
(これが……現実の味か)
レンは荒い息を吐きながら、口元を拭った。
唾液が青白く発光している。
空腹は満たされるどころか、さらに凶暴な渇きへと変わっていた。もっとだ。もっと食わせろ。この偽物の世界すべてを噛み砕き、本物の髄を啜りたい。
『店長! 衝撃防御姿勢ヲ! 着地シマス!』
ミナの警告と共に、リフトが急減速した。
見えないエアバッグのような力場が展開され、彼らの体を包み込む。
ズゥゥゥン……。
重たい着地音。
振動が靴底を通して骨に響く。
リフトが停止した。周囲の闇が、ゆっくりと晴れていく。
「……ここは?」
レンはふらつく足取りでリフトを降りた。
そこは、蒸し暑かった。
地上の湿気とは違う。巨大な機械が排熱する、乾いた熱風とオイルの臭い。
広がる光景に、レンは目を細めた。
巨大なパイプの森だ。
直径数メートルはある太いパイプが、血管のように縦横無尽に走り、その中を何かが轟音を立てて流れている。
パイプの隙間からは蒸気が噴き出し、視界を白く濁らせている。
『深度、地下二千メートル。通称「排熱層」。コノ世界ヲ演算スルホストコンピューターノ、冷却システムデス』
ミナが空中にホログラム地図を展開しようとするが、ノイズが走ってすぐに消えた。
『磁場異常。センサーガ効キマセン。ココハ、物理的ナ熱ト、情報的ナ熱ガ混在スル場所デス』
「世界のボイラー室ってわけか」
レンは近くのパイプに手を触れた。
火傷しそうなほど熱い。この中を流れているのは冷却水か、それとも処理しきれなかったデータの残骸か。
「……静かだな」
轟音はしている。だが、そこには「人の気配」が一切なかった。
あの保存会のような気取った人間もいない。地上のような飢えた亡者もいない。
ただ、機械的なシステムだけが、淡々と世界を維持するために動いている。
その無機質さが、レンには不気味だった。
「行くぞ。ここに留まっていても干からびるだけだ」
レンが歩き出そうとした時、異変が起きた。
彼の右目が、疼いたのだ。
先ほど食べた天使の肉の影響か。視界の右半分だけが、勝手にズームアップされ、情報のレイヤーを剥がしていく。
パイプの表面に、文字が浮かび上がって見えた。
『冷却水温:危険域』『循環ポンプ:応答なし』『エラー:汚染物質ヲ検知』。
「……おい、ミナ」
レンは右目を押さえながら言った。
「俺の目がバグったらしい。世界の裏側が見える」
『ソレハ、天使ノ視覚モジュールノ一部デス。店長ノ体ガ、データヲ消化シテ、適応シ始メテイマス』
ミナが心配そうにレンの顔を覗き込む。
レンの右目の虹彩は、人間のものではなく、カメラレンズのような無機質な銀色に変色していた。
「便利なもんだ。これなら、獲物の急所が一目で分かる」
レンは自嘲気味に笑ったが、内心では戦慄していた。
自分という存在が、人間から別のナニカへと書き換えられていく恐怖。
だが、もう引き返せない。
その時。
パイプの森の奥から、水音のようなものが聞こえた。
ピチャリ、ピチャリ。
それは、濡れた何かが床を這いずるような音。
『……警告。生体反応。デモ、正規ノ登録IDデハアリマセン』
ミナが身構える。
蒸気の向こうから、姿を現したのは「人」ではなかった。
溶けかけた蝋人形のような、ドロドロの肉塊。
だが、その背中には、折れた翼の残骸のような突起があった。
「……ア、アァ……」
肉塊が呻く。その声は、壊れたラジオのように途切れ途切れだ。
「あれは……天使か?」
レンは『虚無の牙』を抜いた。
あの美しく高潔だった天使の成れの果て。
地上での任務に失敗したのか、あるいは古くなって廃棄されたのか。高解像度を維持できなくなり、データが崩壊(エントロピー増大)して、醜いバグの塊と化した姿。
「……堕天した、ってやつか。皮肉なもんだな」
肉塊――堕天使は、レンたちの姿を認めると、濁った目を剥いた。
「クレ……ヨコセ……! 容量ヲ……!」
堕天使が飛びかかってきた。
動きは遅いが、その体から撒き散らされる黒い体液は、触れた床をジュウと溶かしている。
強酸性のバグ・データ。
「腐っても天使か。食あたりしそうだ」
レンは右目で敵を見た。
銀色の瞳が回転し、瞬時に敵の構造を解析する。
全身はノイズだらけだが、胸の奥深くに一点だけ、まだ輝きを失っていない「核」がある。
「そこか」
レンは真正面から踏み込んだ。
堕天使の腕が、鞭のようにしなって襲いかかる。
レンはそれを紙一重でかわし、懐へ。
包丁を逆手に持ち、下から突き上げる。
ザシュッ。
虚無の刃が、腐肉を切り裂き、核へと到達する。
断末魔と共に、堕天使の体が崩れ落ちた。
レンは素早く手首を返し、核をえぐり出した。
それは、親指大の水晶のようなチップだった。
微かに温かい。
「……『悲嘆』の味がする」
レンはそのチップを手のひらで転がした。
食べるべきか。
いや、今の体の状態でこれ以上摂取すれば、自我が耐えきれないかもしれない。
「ミナ、これはお前が持っておけ。非常食だ」
レンはチップをミナに投げ渡した。
ミナは驚いたようにそれを受け取ったが、すぐに胸のポケットへとしまった。
『……感謝シマス。デモ、店長。コノ先ハ、コウイッタ「成レノ果テ」ノ巣窟カモシレマセン』
「だろうな。ここは世界のゴミ捨て場だ」
レンは視線を上げた。
パイプの森の先、さらに深い闇の中に、巨大な建造物のシルエットが浮かび上がっていた。
それはまるで、脈打つ心臓のような形をした要塞。
この世界の全てを演算し、支配している中枢。
「あそこに行けば、メインシェフに会えるはずだ」
レンは包丁についた黒い液を振り払い、鞘に収めた。
右目の銀色の輝きが、闇の中で鋭く光る。
「文句を言ってやるんだ。お前の作る料理は、味が薄すぎるとな」
二人は再び歩き出した。
熱風が吹き荒れる排熱層の闇へ。
神への反逆という名の、最後の晩餐会へ向かって。
第七章:鏡像の調理法
パイプの森を抜けると、不自然なほど開けた空間に出た。
そこは、黒い鏡のような素材で舗装された、巨大な広場だった。
天井は見えない。ただ、はるか上空に、幾何学的な光の網が走っているだけだ。
広場の中央には、巨大な門がそびえ立っていた。
高さ二十メートルはあるだろうか。その表面は、完全に磨き上げられた鏡面になっており、レンたちの姿を微細なディテールまで映し出している。
「……ここが、中枢への入り口か」
レンが呟くと、鏡の中の自分も口を動かした。
だが、声は遅れて聞こえてきた。
「いらっしゃい。待ちくたびれたよ」
レンは眉をひそめた。自分が喋ったのではない。
声は、鏡の中から聞こえてきたのだ。
ぬるりと。
鏡の表面が水面のように波打ち、そこから二つの影が分離した。
一人は、白衣を着た男。
もう一人は、赤い目をしたメイド服の少女。
レンと、ミナだ。
だが、彼らは単なるコピーではなかった。
レンのコピー(以下、黒レン)は、白衣の白さが眩しいほどに純白で、汚れ一つない。手にした包丁も、新品のように輝いている。
ミナのコピー(以下、黒ミナ)は、ボロ布ではなく、完璧なシルエットのドレスを纏い、瞳の輝きも安定している。
「……趣味の悪い冗談だ」
レンが吐き捨てると、黒レンは優雅に肩をすくめた。
「自己紹介はいらないだろう? 僕は君だ。正確には、君から『不純物』を取り除いた、理想的な状態の君だ」
黒レンが一歩進み出る。
その動きには一切の無駄がない。重心移動、筋肉の収縮、呼吸のリズム。すべてが計算され尽くした、完璧な料理人の所作。
「不純物だと?」
「そうだ。迷い、後悔、そして満たされない飢え。君のその汚い感情ノイズが、料理の味を濁らせている。僕はそれを知っている。なぜなら、僕は君が捨ててきた『可能性』の集合体だからだ」
黒レンが包丁を構える。その切っ先は、微動だにせずレンの喉元を指している。
「ここはセキュリティ・ゲートだ。システムにとって有益なデータしか通過できない。君のようなバグだらけの存在は、ここで『精製』する必要がある」
レンは舌打ちをして、虚無の牙を構えた。
理屈は嫌いだ。だが、目の前のこいつが危険なのは本能で分かる。
こいつは強い。単純な戦闘力ではなく、存在としての「密度」が違う。
「ミナ、あっちの偽物は任せたぞ」
『了解。デモ、店長。気ヲツケテ。あちらノ方ガ、スペック上ハ上位互換デス』
「分かってるよ。だがな、料理ってのはスペックだけじゃ決まらねえんだよ!」
レンは地面を蹴った。
黒レンも同時に動く。
二つの影が交錯し、火花ではなく、黒いノイズが散った。
ガキンッ!
刃と刃が噛み合う。
重い。
レンの手首に、鉄骨で殴られたような衝撃が走る。
腕力は互角。だが、技術の精度が違う。レンの刃がわずかにブレる隙を見逃さず、黒レンの刃が滑り込んでくる。
シュッ。
レンの頬に赤い線が走り、血が滴る。
「遅いな。君の動きには『迷い』がある」
黒レンは冷徹に言い放つ。
「君は飢えている。だから焦る。だから雑になる。僕は違う。僕は満たされている。だからこそ、最高の一皿を作ることができる」
黒レンの連撃。
一撃一撃が、教科書通りの完璧な軌道を描く。レンは防戦一方だ。
彼の言う通りだ。レンの中には常に焦燥がある。「食べたい」「足りない」という渇望が、剣筋を乱している。
だが、黒レンの言葉が、レンの癇に障った。
満たされている? それが料理人だと?
「……笑わせるな」
レンはあえて防御を捨て、相手の懐に飛び込んだ。
肩を黒レンの刃に貫かせながら、自らの刃を相手の腹に突き立てる。
肉を切らせて骨を断つ。
「満たされた人間に、何が作れるってんだよ!」
レンが叫ぶ。
突き刺した刃から、虚無の力が解放される。黒レンの腹部のデータが欠損し、ノイズが噴き出す。
「料理ってのはな、欠落を埋める作業だ! 空腹があるから美味い! 悲しみがあるから甘い! お前みたいに満ち足りた奴が作る料理なんて、ただの『栄養補給』だ!」
黒レンの顔に、初めて動揺の色が走る。
彼は痛覚を持たないのか、腹を刺されても表情を変えなかったが、レンの言葉には反応したのだ。
「詭弁だ。完璧こそが至高だ」
「それが間違いなんだよ。お前は綺麗すぎる。だから味がしねえんだ!」
レンは包丁をねじり、傷口を広げた。
そこから溢れ出るのは、血ではなく、無機質な数字の羅列だった。
こいつには中身がない。外側だけの模倣品。
レンは気づいた。
目の前の敵は、自分自身の「理想像」ではない。
自分が恐れている「無関心」の象徴だ。
世界を味わうことを諦め、ただ分析して理解した気になっている、かつての学者としての自分。
「俺は、俺の飢えを愛してる。この空っぽの胃袋こそが、俺の最強の武器だ!」
レンは渾身の力で黒レンを蹴り飛ばした。
距離を取る。
傷口は痛む。血も流れている。だが、不思議と体は軽かった。
自分の矛盾――飢えているのに、それを埋めたくないというパラドクス――を認めた瞬間、迷いが消えたのだ。
一方、ミナと黒ミナの戦いも佳境を迎えていた。
黒ミナは、高度なハッキング攻撃を仕掛けてくる。空間に無数のウインドウを展開し、ミナの行動予測を封じようとする。
『無駄デス。貴女ノ処理能力デハ、私ノ演算速度ニ追イツケマセン』
黒ミナが冷ややかに告げる。
だが、ミナは避けない。彼女は胸のポケットから、先ほどレンから受け取った「天使の核」を取り出した。
『……私ニハ、計算デキナイ変数ガアリマス』
ミナは核を自らの胸部ポートに押し込んだ。
バチバチッ!
激しいスパークと共に、ミナの体が赤熱する。
悲しみ、怒り、愛。天使の核に込められた強烈な感情データが、彼女の論理回路を焼き、暴走させる。
『エラー、エラー……感情回路、臨界突破!』
ミナの動きが変わった。
予測不能。論理的ではない、直感的な挙動。
彼女は黒ミナの計算の隙間を縫い、その懐に飛び込んだ。
『計算外……!?』
『コレガ、「想イ」ノ重サデス!』
ミナの手刀が、黒ミナの胸を貫いた。
物理的な破壊ではなく、感情データのオーバーフロー攻撃。
冷徹な計算機だった黒ミナの中に、処理しきれない「熱」が流し込まれる。
黒ミナは機能停止し、光の粒子となって崩れ去った。
それとほぼ同時に、レンも決着をつけていた。
黒レンが繰り出した「完璧な一撃」を、レンはあえて真正面から受け止めた。
刃が左腕を貫通する。
だが、それでいい。動きを止めた。
「いただきました」
レンの右目が、銀色に輝く。
黒レンの構造的欠陥――「核」を持たないがゆえの脆さを見抜いた。
レンは右手の包丁を捨て、素手で黒レンの胸を掴んだ。
そして、まるで果実をもぎ取るように、相手のデータを物理的に引きちぎった。
バキィッ!
黒レンの体がヒビ割れ、砕け散る。
その破片を、レンは躊躇なく口に放り込んだ。
自分自身を食らう。
それは、苦くて、鉄の味がして、でもどこか懐かしい味がした。
「……ごちそうさん。悪くない味だったぜ、俺」
レンは口元のデータを拭い、笑った。
広場の静寂が戻る。
鏡の門が、重々しい音を立てて開き始めた。
試練は突破された。
「行こう、ミナ。デザートの時間だ」
レンは傷だらけの体を引きずりながら、門の向こうへ歩き出した。
その背中は、以前よりも一回り大きく、そして確かな「質量」を帯びているように見えた。
第八章:未完成の厨房
鏡の門をくぐり抜けた先には、何もなかった。
そこは無限に広がる、乳白色の空間だった。
天井もなければ、床もない。重力さえも曖昧で、レンとミナは、温かい羊水の中に浮かんでいるような感覚に包まれていた。
静かだ。
地下深くの機械音も、天使の羽ばたきも、ここには届かない。
あるのは、寄せては返す、穏やかな波の音だけ。
足元を見る。
そこには、光り輝く液体が満ちていた。
七色に変化し続ける、粘性のある液体。数式、文字、画像、音声……あらゆるデータが溶け合い、形を成す前の状態で揺蕩っている。
「……なんだ、これは」
レンが呟く声は、吸い込まれるように消えていく。
『解析不能。コレハ、データデハアリマセン。「可能性」そのものデス』
ミナが震える声で言った。
彼女はしゃがみ込み、その液体を掌ですくい上げた。
指の間からこぼれ落ちる雫が、一瞬だけ「リンゴ」の形になり、次は「猫」になり、最後は「雨」になって消えた。
「ここが、世界の中枢だってのか? 管理者はどこだ? 親機は?」
レンは周囲を見回した。
玉座もなければ、スーパーコンピューターもない。
ただ、この広大な「スープ」があるだけだ。
『店長。推測デスガ……管理者ナド、最初カラ存在シナカッタノカモシレマセン』
「どういうことだ?」
『コノ世界ハ、完成シテ管理サレテイタノデハナク、マダ「調理中」ダッタノデス』
ミナの言葉が、レンの胸にストンと落ちた。
なぜ世界はバグだらけなのか。
なぜ解像度が安定しないのか。
それは、メモリが足りないからではない。
まだ「定義」が終わっていないからだ。
かつての創造主たちは、すべての食材を鍋に放り込んだまま、味付けもせずに逃げ出したのだ。
あるいは、煮込みすぎて何が正解か分からなくなったのか。
このスープは、全ての味が混ざりすぎて、結果として「無味」になっている。
「……ははっ」
レンは乾いた笑いを漏らした。
馬鹿げている。
俺たちは、誰かに支配されていたわけじゃない。
ただの「放置された鍋」の中で、腐敗していく具材として踊らされていただけだったのか。
「傑作だ。ここは厨房じゃねえか」
レンは『虚無の牙』を抜いた。
だが、戦う相手はいない。
斬るべき敵も、憎むべき悪もいない。
あるのは、あまりにも巨大で、途方に暮れるほどの「自由」と「虚無」だけ。
ズズズ……。
足元のスープが泡立ち始めた。
異物を検知したのか、白い液体が触手のように伸び、レンたちの足を掴もうとする。
攻撃ではない。
同化だ。
形のないスープへ戻れと、世界が誘っているのだ。
「悪いな。俺はまだ、溶けたくない」
レンは触手を切り払った。
だが、切っても切っても、液体はすぐに再生し、絡みついてくる。
このままでは飲み込まれる。自我という輪郭を失い、この味のないスープの一部になってしまう。
『店長! コノ空間ノエントロピーガ増大シテイマス! 世界ガ、私達ヲ「具材」トシテ煮込モウトシテイマス!』
「上等だ。煮込まれる前に、味見をしてやる」
レンは包丁を逆手に持ち、眼下のスープを睨みつけた。
物理的な攻撃は通じない。
ならば、どうする?
料理人として、この未完成の料理にどう立ち向かう?
「……味が足りねえなら、足してやればいい」
レンは閃いた。
このスープには、全てが含まれている。だが、決定的に欠けているものがある。
それは「境界線」だ。
甘さと辛さ、熱さと冷たさ、生と死。それらを分けるメリハリがないから、混沌としているのだ。
「ミナ! お前の中に、あの『天使の核』があるな?」
『ハイ。未消化ノ状態デ保存サレテイマス』
「それを使え! あれは『純粋な感情』の結晶だ。あれをスパイスにして、このスープに味をつける!」
『デモ、ソレダケデハ足りマセン! 世界全体ヲ味付ケスルニハ、モット強烈ナ「刺激」ガ必要デス!』
「あるさ。ここに極上のスパイスがな」
レンは自分の胸を叩いた。
そこには、これまで食らってきた数多のバグ、天使の肉、自分自身のコピー、そして何よりも、世界への尽きせぬ「飢え」が詰まっている。
「俺自身が、最後の調味料だ」
レンは包丁を高く掲げた。
その刀身が、レンの体内のエネルギーを吸い上げ、ドス黒く輝き始める。
ただ破壊するのではない。
かき混ぜ、乳化させ、新たな秩序(味)を生み出すための、創造の剣。
「ミナ、レシピを読み上げろ! 俺が調理する!」
『了解! 座標固定。対象、「原初のスープ」。投入スル概念ハ……「苦味」!』
「悲しみを知らなきゃ、喜びの味は分からねえ!」
レンが包丁を振り下ろす。
衝撃波がスープを割り、底に沈殿していた「黒い澱(過去の悲劇)」を巻き上げる。
スープの色が灰色に変わる。
『次ハ、「酸味」! 腐敗ト再生ノ味!』
「終わりがあるから、今が鮮烈なんだよ!」
レンはスープを激しくかき混ぜる。
腐ったデータと、生まれたてのデータが衝突し、火花のような泡が弾ける。
空間に、強烈な酸の匂いが充満する。
『ソシテ最後ニ……「塩味」!』
「これは、俺たちの涙の味だ!」
レンは左腕の傷口を開き、自分の血をスープに滴らせた。
一滴、二滴。
赤い血が白いスープに落ちると、劇的な化学反応が起きた。
スープ全体が黄金色に輝き出し、爆発的な熱量を発し始める。
グツグツグツ……!
世界が沸騰する。
未完成だったカオスが、レンという異物を触媒にして、一つの「料理」として完成へと向かう。
だが、その熱量は凄まじかった。
レンの肉体が、光の粒子となって剥がれ落ちていく。
代償だ。
世界を調理するためには、調理人自身もまた、その熱に晒されなければならない。
「……ぐ、あぁああッ!」
レンの意識が白く飛ぶ。
手足の感覚が消える。
自分が誰なのか、ここがどこなのか、分からなくなる。
『店長! 店長! 私ノ手ヲ掴ンデ!』
消えゆく意識の中で、誰かが叫んでいる。
温かい手が、レンの腕を掴んだ。
ミナだ。
彼女の体もまた、天使の核のオーバーロードによって崩壊しかけていた。
だが、彼女は決して手を離さなかった。
『一人デ行カセマセン! 貴方ハ言ッタハズデス。食事ハ、誰カト分ケ合ウモノダト!』
その言葉が、レンの魂を現実に繋ぎ止めた。
そうだ。
俺はまだ、味わっていない。
自分で作った、この最高の一皿を。
「……ああ、そうだな」
レンは残った力を振り絞り、包丁をスープの中心に突き立てた。
「仕上げだ、ミナ! 世界を……『実食』!」
二人の叫びが重なった瞬間。
スープが閃光となって弾け飛び、全てを飲み込んだ。
意識も、肉体も、過去も未来も。
全てが溶け合い、そして再構築されていく。
それは、世界で一番騒がしくて、愛おしい、晩餐会の始まりだった。
最終章:残飯たちの夜明け
目が覚めると、匂いがした。
それは、焦げたトーストと、淹れたてのコーヒーの匂いだった。
レンはゆっくりと体を起こした。
背中の固い感触。ここはベッドではない。瓦礫の上だ。
見上げれば、空があった。
あのバグだらけの幾何学模様の空ではない。
薄汚れた灰色だが、雲が流れ、微かに青色が透けて見える、本物の空だ。
「……生きてるか?」
自分の手を見る。
指はある。皮膚もある。
だが、右腕は肘から先が黒い金属のような質感に変わっていた。
右目も相変わらず、無機質なレンズのままだ。
代償は残った。だが、命はある。
「店長。おはようございます」
隣から声がした。
ミナが瓦礫に座り込み、空を見上げていた。
彼女のメイド服はボロボロだったが、その表情は……笑っていた。
無機質なプログラムによる模倣ではない。
心の底から湧き上がる、柔らかな微笑み。
「ミナ、その顔……」
「はい。感情回路のバグが、仕様として定着したようです。胸が少し、苦しいですが」
ミナは胸元を押さえた。そこにはもう、天使の核はない。世界に溶けてしまったからだ。
レンは立ち上がり、周囲を見渡した。
街は相変わらず廃墟だった。
建物は崩れ、道路はひび割れている。
だが、決定的な違いがあった。
世界に「色」が戻っていた。
道端に咲く名もなき雑草の緑。
錆びた鉄骨の赤茶色。
水たまりに反射する光の白。
高解像度ではない。所々にノイズも走っているし、粗いテクスチャも残っている。
だが、そこには確かな「質感」があった。
レンは足元の瓦礫から、ひび割れたリンゴを一つ拾い上げた。
どこかの廃墟から転がってきたのだろう。表面は茶色く変色し、傷んでいる。
レンはそれを服で拭き、ガリッとかじりついた。
酸っぱい。
渋い。
そして、微かな甘み。
「……うん。マズい」
レンは笑った。
涙が出るほど、マズくて、美味い。
これはデータの味ではない。土と水と、時間の味がする。
「世界は元通りにはならなかったな」
レンが言うと、ミナも立ち上がり、隣に並んだ。
「はい。天使モ、管理者モ消エマシタ。残ッタノハ、コノ中途半端デ、腐リかけノ世界ダケデス」
「だが、調理しがいはありそうだ」
向こうの通りから、人々の話し声が聞こえてくる。
彼らはもう、ケーブルに繋がれて夢を見てはいなかった。
寒さに震え、腹を空かせ、互いに罵り合いながらも、瓦礫を退けて道を作ろうとしている。
生々しい、生存のための営み。
この世界には、もう管理された楽園はない。
飢えも、病も、死もある。
エントロピーは増大し続け、いつかは全てが土に還るだろう。
だが、だからこそ。
今ここで食べる飯は、死ぬほど美味いはずだ。
「帰るぞ、ミナ。店を開けなきゃな」
「店長。食材の在庫がありません」
「そこら辺に転がってるバグでも、雑草でもいい。俺の手にかかれば、極上のフルコースだ」
レンは歩き出す。
その背中には、かつての孤独な「観測者」の影はない。
あるのは、混沌とした世界を貪欲に味わい尽くそうとする、一人の「生活者」の姿だけだった。
「本日のメインディッシュは、『再生のシチュー』だ。隠し味は、少しの泥と、希望だ」
廃墟の風が、二人の背中を押した。
その風の匂いには、もう腐敗臭だけでなく、雨上がりの土の匂いが混じっていた。
――ごちそうさまでした。
了
この物語はフィクションです




