第5話 冷艶な黒鬼
「鬼海……!」
その名を知らぬ者は五暁国において誰一人としていない。世事に疎い詩音でさえ、かの御名をよく知っている。
自分たちの故郷である北島を治める領主。水を司り、なおかつその妖力をもつ妖たちを統べる黒鬼。なるほど、どおりで黒髪碧眼なわけだと詩音は今更ながら得心した。
――鬼海家の当主様はまだお若いと聞いてはいたけれど……。
妖と人とでは年齢感覚に多少なりとも違いはあるが、漣の場合、見た目は二十代半ばほど。確か、五島を治める五鬼当主のなかでは最も若年だったはずだ。
何はともあれ、雲の上の存在といっても過言ではない鬼海家当主に対し、易々と頭を上げてしまうという無礼を即座に謝罪しなければならない。
「も、申し訳ございません! 当主様ともあろう御方にご無礼を……!」
「畏まる必要はない。顔を上げてくれ」
叩頭する詩音に、漣は膝を曲げて彼女と同じ目線になって言った。
「俺は領民に頭を下げてほしくて当主をやっているわけではない。それに、いま貴女の前にいるのはいち警視局員だ。どうか普段通りに接してほしい」
普段通りと言われたものの、詩音にとっての普段は家族にでさえ平身低頭だ。ましてや、この北島で最も尊き御仁に普通に接せられるわけがない。
詩音が言葉を継げず面伏せていると、頬に微かな温かさが広がった。警視局専用の手袋をつけた漣の手がそっと添えられていた。
「鬼海さっ――」
「頬が腫れている。誰かに折檻でもされたのか」
険しい面差しになって問う漣に、詩音は「いえ、何でもございません」と反射的に顔を背ける。
「何にせよ君も手当てする必要がある。近くに屯所があるから一緒に来なさい」
「お心遣いは大変ありがたいのですが、鬼海様のお手を煩わせるほどのことでは……」
「これも仕事のうちだ。気にする必要はない」
「ですが……」
なおも渋る詩音に漣は小さく嘆息し、
「失礼」
「えっ!」
詩音を軽々と抱え上げた。
「……軽いな」
華奢であったとしても、それでもなお軽すぎる。
――顔色も決して良いとは言えない。
漣が秘かに詩音の体調を案じる一方で、彼女は頬を紅潮させてますます混乱していた。
異性――それも自身とは天地ほどの身分差がある眉目秀麗な男性に抱えられるとは露ほどにも思わず、もはや口をはくはくさせることしかできない。そんな初心な様子に漣はふっと艶美な微笑をたたえた。
「負傷した女性を夜の海で一人にするわけにはいかない。血野、彼女を頼む」
「は」
医療班の男性局員は人魚の少女を抱え、四人は星月夜に見守られて眠る海を後にした。




