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第2話 光なき牢獄

 水分を補給し、ひりひりと痛む頬を手ぬぐいで冷やしていると、少し離れたところから明音の歌声が聞こえた。

 近くには修練場があり、父の音衛おとえと明音がいつも術式の稽古をしている。


 音衛は人妖にんよう警視局、第一部隊の副隊長を務めている。人妖警視局は終戦後に設立された五暁国の治安維持組織で、妖は人の犯罪を、人は妖の犯罪を取り締まっている。和睦協定で定められた相互監視権により、公平を期すため同種族の犯罪に対する取り締まりは禁止されていた。


『砕け散れ 魔魅まみ暗礁あんしょう 舞い踊れ 白亜の浪花なみはな 白砂はくさ青松せいしょう 永久に在れ』


 自信に満ち溢れた歌声が妖に見立てた的を震動させ、やがて崩壊した。


「前より精度が上がっているな。良い調子だ」

「ありがとうございます。お父様」

「そろそろ入局試験を受けても良さそうだ。今のお前の実力なら必ず合格できるだろう」


 音衛は誇らしそうに笑んで、愛娘の頭を撫でながら言った。明音も満悦の微笑を返しているのを垣間見、親子の仲睦まじい姿に詩音は視線を伏せた。同時に胸がしめつけられて思わず唇を噛み締める。


 ――どうして、わたしには術式の才能がなかったんだろう。


 十年前、今の明音のように詩音も的をめがけて術式を発動させた。しかし、的は変化を見せず、的を崩壊させることはついぞ敵わなかった。最後の試しとして実際に力の弱い妖相手に術式を放ったがやはり倒すことができず、むしろ弱者と認識した妖が力を増幅させて詩音に牙を剥く始末だった。


『術式をまともに使えないとは……。お前は歌川家の恥さらしだ』


 お前はもう私の娘ではない。


 以来、音衛は詩音と一切口をきかなくなった。明音や継母も使用人として扱い、期限を損ねてしまえば先ほどのように暴力を振るわれる。


「お母さま……」


 唯一、自分を庇ってくれた優しい母はもういない。八年前に病で息を引き取った。


「わたし、何のために生きているのかしら……」

「何をしているの」


 突然、背後から冷たい声音がして咄嗟に振り返った。


「奈美様……!」


 いつの間にか明音の実母である奈美が背後に立ってこちらを見据えていた。

 吊り上がった黒瞳に紅い唇。牡丹柄の豪奢な着物をまとう立ち姿には当主夫人としての威厳と貫禄があり、威圧感が凄まじかった。


「私の目を盗んでこんなところで油を売っていたなんてね。大した度胸だわ」

「ちが――」


 否定の言葉を遮って、奈美は詩音の耳を摘まんでぐいっと引っ張った。

 あまりの痛さに顔を歪めたのも束の間、奈美が修練場に向かってそのまま詩音を地面に突き飛ばした。同時に音衛と明音が訓練の手を止めてこちらを振り向く。


「あなた。使用人がそこで怠けていてよ」


 妻の讒言ざんげんに音衛は鋭い眼光で詩音を見下ろした。


「ち、違います……! わたしはただ――」

「ただ何?」


 そこで明音が口の端を吊り上げて言った。


「どうせわたしたちを恨みがましく見ていたんでしょう。何であの人たちには術式が使えて、自分には使えないんだって。それとも、さっきぶったことを根に持っているの?」

「そんなこと……」

「いいのよ、別に。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない」


 まあ、返り討ちに遭う覚悟があればの話だけれど。


 歪な微笑が眼前に迫り、喉がひゅっと恐怖の音を立てた。

 返り討ち――。つまりそれは、明音が詩音に対し術式を使うということ。術式は妖だけでなく人間にも有効だ。明音がその気になれば詩音の意識を奪うことだって容易い。


 詩音は何も言い返せず、ただただ肩を震わせて沈黙することしかできなかった。


「結局だんまりなのね。つまらない女」


 興ざめしたと言わんばかりに明音は嘆息し、詩音から顔を背けた。


「行きましょう。お父様」

「ああ」


 明音と音衛は移動し、稽古を再開した。

 暗澹とした視界が揺らぎ、熱いものがこみ上げて詩音は思わず口元を手で覆った。

 すると突然、頬に衝撃が走り、詩音の上体がぐらりと揺らいだ。明音の平手打ちを受けた右頬とは反対の左頬を扇子で打擲されたのだ。


「めそめそ泣くぐらいの暇があるなら、早く庭の掃除をなさい」

「……はい」


 奈美はふんと荒々しく息をついて、屋敷のなかへと戻っていった。

 満足に泣くことさえ許されない酷薄な現実。術式至上主義であるこの家に自分の居場所はもうどこにもない。


「わたし、何のために生きているのかしら……」


 この家は檻だ。牢獄だ。

 暗くて手狭な空間に長年閉じこめられれば人の心は擦り減り、やがて死ぬ。

 愛情《太陽》の温もりがなければ、人は生きていけない。


「……お掃除、しなきゃ」


 無理やり涙を拭い、詩音は重い腰を持ち上げて庭のほうへと向かった。

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