最終章 聖なるパンのゆくえ
長い旅の終わりが、静かな朝にやって来た。
いつもと同じ机、いつもと同じキーボード、ほどよく冷めたコーヒー。
違うのは、画面上部に並ぶ小さな見出しの右端に、まだ未入力の章題が点滅していることだけだ。
――「完結」。
この二文字を打ち込むまでが、思っていた以上に遠かった。
PVゼロの絶望から始まり、一行の感想で救われ、批判で沈み、仲間の言葉で浮かび、ブックマークの三桁で泣き、ランキングの数字で揺れ、そして一度だけ「1位」の朝を見た。
このエッセイは、その道のりのすべてを、汗と失敗のままに記録してきた。
だが、記録は道のりではあっても、目的地ではない。
目的地はいつだって、「つづきを読ませる文章」を今、このページの上に置くことだ。
■ パンを焼く、という比喩
私はときどき、自分の執筆を「パンを焼く」ことにたとえた。
粉を量り、捏ね、一次発酵で待ち、ガス抜きをして成形し、二次発酵の膨らみを見計らって、ちょうどよい熱のオーブンに入れる。
焦れば生焼け、欲張れば焦げる。
昨日成功した配合が、今日もうまくいくとは限らない。
そして、どれほど丁寧に焼き上げても、口に合わない人は一定数いる。
けれども、たった一切れのパンを「美味しい」と言ってくれた人がいたなら、その朝は救われる。
作品も同じだ。
数字の波は容赦がない。
だが、「今日も読みに来ました」の一行が、翌朝の発酵を促す。
私にとっての「聖なるパン」は、書いた文章そのものではなく、読者と自分の間にだけ生まれる何かだった。
それはフォントには写らず、統計にも残らない温度で、しかし確かにこちらの胸を温める。
■ 未払いの感情を受け渡す
完結の直前、私はこの連載で置いてきた“未払い”をもう一度洗い出した。
「辞めたくなった夜の話」――書いた。
「批判に打ちのめされた朝の話」――書いた。
「自分を嫌いになりかけた週の話」――書いた。
「それでも椅子に座り直せた理由」――書いた。
残っていたのは、感謝の言葉だった。
簡単だから後回しにしたのではない。
簡単すぎて、そして普遍すぎて、うまく言葉の温度を合わせられる自信がなかった。
だが、完結の章だけは、言い訳を飲み込んで書かなければならない。
この連載は「数字」ではなく「関係」によって進んできたからだ。
■ あなたに渡す「食べ方」
パンの袋には、しばしば「おいしい食べ方」が印刷されている。
トースターでこんがり、バターを溶かして、少し蜂蜜を――みたいな。
作者として私がこの連載に添える「食べ方」は、三つだけだ。
好きなところから読んでほしい
きれいに積み上がって見えるけれど、どの章も単独で立つように焼いてある。停滞に沈んだ夜には第8話、タイトルの迷子には第9話、批判に揺れる朝には第11話を、レシピのように開いてほしい。
自分の台所に混ぜてほしい
書いてあることをそのまま真似る必要はない。分量はあなたの生活に合わせて調整し、オーブンの癖をあなたの時間に合わせて把握してほしい。
誰かと分けてほしい
この連載が少しでも役に立ったなら、困っている作者に一切れ分けてあげてほしい。食卓は広がるほど、どのパンもおいしくなる。
■ 「完結」とは何か
完結は、物語の死ではない。
むしろ、物語が読者の側で“私物化”されるための通行証だ。
未完の作品は、作者のものから離れられない。
完結した作品だけが、読者の本棚に、思い出のフォルダに、あるいは心の抽斗に自由に収まる。
だから私は、ここで手を放す。
この連載は、もう私だけのものではない。
スクリーンショットで保存してもいいし、要点をノートに写してもいいし、ふとした拍子に「あの一文」を思い出してもいい。
どう扱ってもらっても、私は怒らない。
それが、完結の代わりに作者が受け入れる“喪失”であり、だからこそ受け取れる“自由”だ。
■ エピローグ:バターと湯気
完結ボタンを押す前に、私は近所の小さなベーカリーへ出かけた。
カウンターの上に、焼き立てのバゲットが並んでいる。
バターの塊、蜂蜜の瓶、店主の気の利いた笑顔。
紙袋越しに伝わる熱が、掌をじんわりと温める。
帰宅して、トースターのダイヤルを回す。
タイマーが「チン」と鳴るまでの短い時間、私はエディタに戻り、最後の段落を整えた。
――この連載を読んでくれたあなたへ。
あなたがこの文章を読んでいた時間、あなたの後ろ側では、あなたの生活が確かに進んでいた。
仕事へ向かう電車、眠る前の布団、コンビニの駐車場、深夜のキッチン、休日の昼下がり――どこかの瞬間に、私の語りはあなたの体温に触れた。
その事実だけでも、この連載は十分に報われている。
パンを取り出し、バターをひとかけ落とす。
溶けゆく縁から湯気が上がり、部屋の匂いが少しだけ豊かになる。
私は一口ちぎって、口に運ぶ。
噛むたびに、外はザクッと、内はしっとり。
それは、苦かった夜と甘い朝が同居する、この連載の味にとても似ていた。
■ 今日のまとめ(完結版)
書くとは、毎朝発酵をやり直すこと
数字は天気、読者は気候、仲間は台所
批判は塩、感想は酵母、継続は小麦粉
完結は“私物化”に渡す鍵
作品はバターのように、生活の熱で初めて溶ける
私は深呼吸をする。
カーソルは「投稿する」ボタンの右上にいる。
ここまで読んでくれたあなたに、最後のお願いがある。
あなた自身の物語を焼いてほしい。
配合は違っていい。
焼き色も、香りも、切り込みの入れ方も、人それぞれでいい。
うまくいかない日が続いても、酵母は目に見えないところで働き続ける。
今日ふくらまなかった生地が、明日の朝にはふわりと持ち上がることだってある。
だから、どうか。
もう一度、台所に灯りをつけ、粉を量って、手を入れてほしい。
あなたの「聖なるパン」は、必ず誰かの朝を救う。
その誰かの中には、未来のあなた自身も含まれている。
指先で押す、たった一度のクリック。
完結。
いつか、また新しい朝に。
別の生地で、別の香りで、お会いしましょう。
※この話は完全なるフィクションです。