第85話 一歩ずつ、私たちの本物に近づいていこう。<井戸川萌子side>
山崎美音は立ち上がり、机の中から、丁寧に畳まれたハンカチを取り出した。
「井戸川先輩。あのとき、泣いていた私を優しく介抱してくれてありがとうございました」
山崎美音……。
そのハンカチは、確かに私が貸したものだった。
光が差すような笑みを浮かべる。
こういうところがあるから、憎めないんだよなぁ。
この子は、世の中を上手に渡っていける賢さを持っている。
「あのさ……」
「はい?」
「彼女がいても、ライバー活動ってしてもいいと思う?」
どうしてだろう。
山崎美音にそんなことを聞いていた。
彼女は、ライバーについてそれほど詳しくないのに。
きっと、本音でズバズバ切り込んでくれるから、聞いてみたくなったんだと思う。
「え〜〜〜〜」
山崎美音が間延びした声を出す。
だけど、真剣に考えてくれているようだ。
「そもそも、井戸川先輩って何のために配信を始めたんですか?」
質問されて、遠い記憶が思い返される。
私がライバーになった理由。
それは、ライライちゃんに憧れて——いや違う。
「歌」
「へっ?」
「歌うことが好きだったから」
そうだ。いどっちとして——架空のキャラクターとして歌うことに心地よさを感じていた。
好きって気持ちがあったからこそ、無理せずにここまで続けてこられたんだと思う。
「お金を稼ぐためじゃないんですか? モテたいからじゃないんですか?」
山崎美音が核心をつくような質問をする。
「ううん」
今回の北海道旅行は、フタコンに参加したからこそ、行けたといっても良いかもしれない。
だけどそれは結果論。お金だけを稼ぎたいなら、他に別の方法がある。
モテたいから——の質問には、私は少しだけ本心を隠した。
不特定多数にはモテなくても良い。だけど、来那にだけは好かれていたかった。
「だったら、配信はこのまま続けてもいいんじゃないですか? お金や人気を気にしているわけじゃないんですし。井戸川先輩が楽しんでやってるなら、それが一番だと思います」
「山崎美音……」
「それに私の場合、目的は鈴加とつながることだったのでっ。今思えば、誰よりも厄介ライバーだったと思いますよ」
にししと、いたずらっぽく笑う。
三笘さんは山崎美音を見る目が優しかった。
思い切って話して良かったな。
心が軽くなるのがわかる。
うん。しばらくは今のままのスタイルで続けていこう。
ただ、配信をする以上は、できるだけリスナーの気分を害するようなことは、控えていきたいと思っている。
「あー、お腹減っちゃいました。みんなで『白い恋人』食べましょうか」
「えっ。いいの?」
「はい。さすがに54枚入りのものは、ママと私じゃ食べきれないですよー。今、なにか飲み物持ってきますねー」
山崎美音には奮発して大容量の白い恋人を買った。
急遽、お茶タイムをすることになった。
「手伝うよ」
「本当? ありがとっ」
三笘さんが、山崎美音の後をたどたどしく追った。
私と来那は微笑ましい目で二人を見つめていた。
◇
来那とマンションを出た頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。でも蒸し暑さはまだ残っている。
どちらからともなく、当たり前のように手をつないでいた。
まるでまだ北海道旅行の続きをしているようだった。だけど、少し歩いた先に、おなじみの図書館が見えてきて、一気に現実に引き戻される。
「——ちょっと寄ってもいい?」
「うん」
珍しい。来那から、そんなことを言うなんて。一体どうしたんだろう。
入館した後、私たちは、話ができる2階のスペースへと向かった。
夏休みのせいか、前に来たときよりも学生が多くて、にぎやかだった。落ち着いて話すのはちょっと難しそう。
来那は無言で私の手を引いた。
「ちょっと」
私は彼女の後をついていくのに必死だった。
新聞コーナー、絵本コーナーの前を通る。空調が効いていて涼しい。
ところどころにある席では、参考書を広げて勉強をしている学生たちが目についた。
棚の間をすり抜けるように進み、小説コーナーへたどり着いた。ぎっしりと本が並んでいる。この辺りは人が少なかった。
——ん? あれって。
私の本棚にもある小説『秘密』を見つけた。ここにもあるんだ。なんだか変な感じ。
思わず見入っていると、来那から声をかけられる。
「萌子」
「何?」
「——これ、プレゼント」
彼女はカバンの中から、ある袋を取り出した。
なんだろう。
「——開けても良い?」
「もちろん」
早速、中身を見たら、キツネのぬいぐるみが入っていた。ふわふわでとてもかわいい。
「実はあの時、こっそり買っておいたんだ。萌子にぴったりだなと思って。帰ってきてから渡した方が、ちょっとしたサプライズになるかなって思ったの。えへへっ」
来那は照れくさそうに頭を押さえ、少し俯きながら笑みをこぼした。
「——ねえ。萌子、北海道旅行楽しかったね。これからもよろしくね」
「——来那、ありがとう。大好き」
私は思わずキツネのぬいぐるみに頬擦りをした。
好きなものを貰えたこと以上に、彼女の気持ちが嬉しかった。宝物にしよう。
「ちょっと! わたしに抱きついてよっ」
両手を握りしめて、ほっぺをぷくっと膨らませる。そんな彼女もかわいかった。
私はゆっくりと来那を抱きしめた。柔らかくて、甘くて、良い匂いがする。彼女もおずおずと背中に手を回してくれる。
ふと、ホテルで見た来那の寝顔を思い出した。穏やかで幸せそうで、時が止まればいいのにと思った。
——これからも二人で思い出を作っていきたい。
一歩ずつ、私たちの本物に近づいていこう。
まだ残っている夏休み。この先、彼女とどんな思い出を重ねられるのだろう。
キツネのぬいぐるみを持つ手にもギュッと力が入る。——今、静かに世界が微笑んだような気がした。




