第70話 北海道旅行の約束【吉瀬来那side】
「……」
萌子は何も言わなかった。
でも、下敷きをそっと脇に置いた後、すっと顔を近づけてくる。
彼女が、人差し指を立てる。その先端が目に近づき、思わず身を引きたくなる。呆気に取られていると、わたしの鼻に優しく2回触れた。
「これが、ちょんちょん」
「へ、へぇ……」
くすぐったい。山崎、こんなことを萌子にしたんだ。
……ほんの少しだけ妬けるかも。
胸をなでおろしたのも束の間。萌子は、その手で、わたしの首筋に遠慮なく触れた。ビクッとして肩が跳ねる。
自分でつけたキスマークを、愛おしそうな目で優しくなぞる。微かな快感が肌を這うように広がっていた。でもその波に溺れる勇気はなかった。
こ、ここ、図書館だから!
萌子はわたしと目を合わせた後、そっと首筋にキスを落とした。ちゅ、と小さな音がこぼれ、静寂に溶けていく。
「しょっぱい……」
前にもこんなこと、あったっけ。
あれはカラオケで、ライブ配信をした後のこと。雰囲気に流されるように、わたしは萌子の首にそっと歯を立てて、舌先で軽く舐めた。
あのときの萌子は恥ずかしがっていて、とってもかわいかった。今の彼女は、こんな積極的なことまでできてしまう……。成長って恐ろしい。
ふと萌子の耳が赤いことに気づく。彼女の顔をまじまじと見つめると、眉を下げて、困ったような顔をしていた。まるで、「この後、どうしたらいいんだろう」とでもいうかのような——。
わたしは萌子に覆い被さった。
「なっ」
彼女のスカートをずらして、『来那』という文字が見えるのを確かめた。汗でややにじんでいたが、その名前は確かにそこにあった。
「んっ……」
そっと触れると、彼女はピクッと体を動かす。
もしも——山崎と萌子が親密な時間を過ごすことになっても、このわたしが書いた文字がその流れを止めていたかもしれない。
そう感じたとき、嫉妬の気持ちはいつの間にか消えていた。
自分でも驚く。わたしは萌子のことが、こんなにも大好きなんだ。誰にも取られたくない。わたしのものにしちゃいたい。
萌子の太ももに、そっとキスを落とした。
「ひゃ」
かわいい声を上げる。
彼女の顔を見ると、視線は宙をさまよい、真っ赤になっていた。愛おしい。
たまらずわたしは距離を詰めて、鼻先をちょんちょんと触った。
「な、何するの」
「えへへっ」
ミッションコンプリート。これってマーキング?
心から満足したわたしは、彼女の上からひょいと避けた。
「ねぇ、帰ろっか」
「……うん」
萌子がやや不服そうな顔をしながら、制服を正す。
足元に転がった紙コップを捨てた後、わたし達は図書館の入り口へと向かった。
「あっ……」
1階に降りて、『おすすめの本』のコーナーの前で萌子は立ち止まる。
そこには、キツネが表紙を飾る本が置かれてあった。
「ちょっと見てもいい?」
「もちろん」
萌子は本を手に取ると、ぱらりとページをめくった。
ふと、彼女がペンケースに付けているキツネのキーホルダーのことを思い出す。
「好きなの?」
「うん」
彼女は真剣に本を見ている。その横顔は、わたしには一度も見せたことのないもので、少し胸がキュンとした。
『おすすめの本』のコーナーには、他には、北海道の旅行本が置いてあった。
へぇ。美味しいグルメ特集かぁ。
……。
「そうだ!!」
わたしの声が大きかったからか、近くにいたおじいちゃんと目が合う。こほんと一つ咳払いをして、萌子に囁く。
「一緒に北海道に行かない?」
「えっ?」
「前にフタコンの打ち上げで旅行しようって話をしたよね? 旅行の行き先、ここにしようよ! きっとキツネも見られるよ!」
キツネの姿を想像すると、広大な北海道の大地が、ふと脳裏に広がった。
どうせ出かけるなら、萌子が楽しめる場所にしたかった。
「……」
彼女は考え込むような素振りをする。
……しまった。
北海道に行くなら、日帰りは難しい。自然と泊まりが前提となる。
萌子はそれを渋っていた。だから、きっと断られるだろう……。
「……いいよ」
「えっ?」
「だから、北海道に一緒に行くって言ったの……」
耳を疑った。
萌子をまじまじと見つめるけど、視線が交わらなかった。
——夏休みに北海道。涼しくて過ごしやすそうだ。
萌子と旅行……。付き合っている彼女との初旅行……。
「楽しみっ!!!」
わたしは、また大きな声を出していた。今度は近くに人がいなかったけど、反射的に口を覆う。
「日程はこれから決めようねっ」
「……」
萌子はそっぽを向いている。
もしかして、恥ずかしいのかな?
そんな顔されたら、今何を考えているのと聞いてみたくなっちゃうよ。
さっきまでは嫉妬でいっぱいだったのに、今はふわふわとした気持ちになっている。わたしって単純だ。
えへへっ。ワクワクするなぁ。




