第64話 太ももの秘密<井戸川萌子side>
「おはよー」
——諏訪部さんが、来那の元へやってきた。私は慌ててスカートを整える。
彼女は日焼けをしていた。海にでも行ったのかなと、ぼんやり考えてしまう。ワイシャツの第二ボタンまで開けて、涼しそうだ。
「おはよう! ラブ今日、早いねー」
隣で言葉が交わされている中、私の意識は太ももへ向かっていた。夏服のスカートの上から触れた指先は微かに熱を持っていた。
「——井戸川さん」
諏訪部さんから急に声をかけられて、ビクッとする。
「おはよう」
彼女はちゃんと私にも、挨拶をしてくれたのだ。
「お、おはよう」
だけど、まるで一部始終を見られていたかのような気まずさを感じる。
「って、来那、手にインクついてるじゃん!」
「えっ? あっ、本当だ」
来那の右手には油性ペンを触ったからか、黒い横線がついていた。
なんとかして取れないかと、擦ってみるものの、逆に広がってしまう。
「一緒に洗いに行こっか」
諏訪部さんはそう言って、自然に来那の手を取り、教室を出た。
何気ないが、友情の深さが感じられる行動だった。
一人になった私は本の世界に戻る——でもなく、意識はやっぱり太ももに集中していた。
……。
そっと、スカートをたくしあげようとしたところ——なんと山崎美音に見られてしまった。
「し、師匠!?」
まん丸な目を、大きく見開いている。教室の入り口にいた彼女が、そのまま勢いよく私の席に向かってきた。
「何しているんですか?」
「あ、暑くて! 風通りを良くしようと思ったの!」
ナチュラルに上級生のクラスに入ってくることができる山崎美音は肝が据わっている。
私は適当な言い訳をして、その場をなんとかやり過ごした。それより——。
「な、何か用事?」
「あっ。いえ、大したことじゃないんですけど——。というか、昨日、来那先輩と何かあったりしましたか?」
その質問をされたとき、頭に真っ先に浮かんだのがキスのことだった。
来那の家で浴衣姿になり、ベッドの上でイチャイチャ……。
目の前の後輩に、すべてを見透かされているような気がして、顔が火照ってしまう。
「……応えなくても、わかりました」
山崎美音はニヤリと笑う。
そういえば昨日のライブ配信で、彼女がリスナーとして来ていたことを思い出した。画面越しに、動揺が伝わってしまっただろうか。
私は、こほんと一つ咳払いをした。
「も、もういいでしょ。自分のクラスに帰ってよ!」
「えー! 師匠、冷たいですね」
そんなことを言って、先ほどまで来那が座っていた椅子を引いて自分が座る。
何がそんなに楽しいのか、私の顔をにこにこと見つめ続けていた。
正直、顔立ちは整った方だと思う。だけど、予測不可能すぎて、ついていけないときがある。
山崎美音は、身を乗り出して距離を詰めてくる。
パーソナルスペースがやけに狭い子なのかもしれない。彼女の白い二の腕が視界に入る。
「——ねぇ、なんで太ももに『来那』って書いてあるんですか?」
山崎美音は囁くように言った。
——見られていたのだ。
先ほど、すぐにスカートを整えたけど、目ざとい彼女は見落としていなかったのだろう。
「……っ」
「私、視力2.0あるんですよね♪」
本当のことだからこそ、上手にごまかせず、私は黙り込んだ。
「今ここで、大きな声で指摘したら、周りの人がきっと集まってきますよね」
——私の目の前に、良心のカケラもない悪魔がいる。
つい、ギリと奥歯を噛み締めた。
「何が目的なの?」
「やだなぁ。脅している訳じゃないですよ? まぁ。師匠に頼みたいことがあるのは事実ですがっ」
山崎美音は、自分の唇にそっと人差し指を当てながら、含みのある口調で言葉を紡いだ。
その唇はふっくらと形がよく、艶やかな光を帯びていた。
「いいよ。言って」
「私に、ライバーのコツを教えてくださいっ」
「えっ?」
「実は私も最近、配信を始めたんですよー。だけど、中々上手くいかなくてー」
初耳だった。
話を聞くと、キラライブで顔出し配信を始めたものの、まったくファンがつかないようだった。初見さんが素通りしていくらしい。
意外だった。
山崎美音のかわいさと、スター性があれば、その気になればトップを目指せると思った。何がいけないんだろう。
「今日も配信する予定なんですけど、よかったら師匠アドバイスくれませんか? 私をプロデュースしてくれたら、太もものことは秘密にしてあげますっ」
「別にいいけど」
そのくらいならお安い御用だ。"私の奴隷になってください"みたいなお願いじゃなくて本当に良かった。
「ありがとうございます。じゃあ今日の放課後、空き教室に来てくださいっ」
「えっ」
「その場で配信しちゃいますから! 師匠はがっつり見届けてくださいね! 終わったら即フィードバック、お願いしますっ♪」
キーンコーンカーンコーン。
ちょうど良いタイミングで予鈴が鳴った。
「じゃ! そういうことなんでっ」
私の返答を待たず、山崎美音は一目散に教室から出ていった。
彼女の連絡先を知らない私は、断ろうにも断れない。
一つため息をついて、背もたれに体を預ける。
窓の外をふと見ると、名前も知らない鳥が空を滑るように舞っていて、その気ままさが少し羨ましくなった。




