第40話 衝動【吉瀬来那side】
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今日のライブ配信が終わり、カラオケの個室には、静寂が訪れる。
なんだか井戸川さんの顔を見れなくて、自分の足ばかり見ていた。
「——ねぇ」
井戸川さんの声が、空気を震わせるように美しく響く。
顔を上げると、「さっきは、急に抱きしめてごめんね」と謝った。拍子抜けをした。
「気にしていないよ。だけど——」
「だけど?」
「ライブ配信でしたことは、リスナーに見せることが前提のものに感じるかな。だからさ」
わたしは、ごくりと唾を呑んだ。
「井戸川さんが良いなら、もう一度抱きしめてほしい。やり直しをしてほしい」
そんな大胆なことを言ってしまった。
彼女は目を丸くしていた。わたしは下を向く。
「……いいよ」
彼女は小さな声で、確かにそう言った。
「——じゃあ。ど、どうしたらいいの?」
打って変わって、弱気になる。
彼女はライブ配信のときとは違う。わかりやすく、うろたえている。
わたしは思わず口元を緩ませる。
「井戸川さんから抱きしめてほしい。さっきみたいに。わたしはここで、待っているから」
「ん……」
井戸川さんは腰を上げて、わたしの隣に座り直した。
——そのまま、そっと優しく包み込むかのように抱きしめてくれた。
安心する。自然と目を閉じてしまう。
今は、誰にも見られていない。リスナーにも。もちろん他の人にも。
わたし達だけの空間だ。
キスのときもそうだった。
ライブ配信でしたことは、どうしてもパフォーマンスに見える部分がある。だからこそ、こうして配信が終わった後に、"本気の行動"を見せてもらうために、リピートする。
つい、井戸川さんを抱きしめる手に力が入る。指先が彼女の背中を静かになぞった。
「あっ……」
淡い吐息を漏らした。
その声を聞いた瞬間、安心感がほどけていき、井戸川さんに惹かれる想いが熱を帯びていった。
かわいい。もっと声を聞きたいと思ってしまい、今度はわざと指をかすめた。
「っ……」
今度はかすかに息が漏れるだけ。
肌で感じるほど、場の空気が少しずつ変わっていく。
「吉瀬さん」
「んっ?」
「触る手、やらしい」
直接的に言葉にされてしまうと、今度はわたしが恥ずかしくなる番だった。
わたしきっと、おかしい。友達にこんなことをしてしまうなんて。
気を取り直して息を整えようとしたら、井戸川さんが体を震わせた。
「くすぐったいよ」
きっとわたしの吐息が首に当たったのだろう。
そんなさり気ない仕草さえ、心をかき乱してくる。
わざとだろうか? 天然だろうか?
たまらない気持ちになってしまい、そっと彼女の首筋に顔を近づける。
「な、なに?」
不安そうな声が耳に届いた途端、わたしはそっと歯を当てていた。
「やっ……」
高い声を漏らす井戸川さんは、わたしを押しのけようとはしない。
嫌がっていないのかな。息が詰まるほどの近さに体が一気に火照っていく。
手を出されるなら、距離を取り、全力で謝るつもりだった。
井戸川さんは汗をかいていた。しょっぱいと思う気持ちと同時に、首元から漂う彼女の香りに酔いしれてしまいそうになる。
舌先で軽く舐めると、彼女が肩を震わせてしがみつくように、わたしに覆い被さってきた。
あっ。わたし、やばいかも——。
カシャカシャカシャカシャ。
そのとき、ドアの向こうから楽器を鳴らすような音が聞こえた。
「マラカス鳴らすの早いってー」
「いいじゃん。持ってたら、誰でもこうなるって!」
微かに、そんな声が聞こえてくる。
ここはカラオケの個室だ。
薄いガラスの向こうには常に人の気配がある。
わたしは、なんとか理性を保つことができた。
「ごめん、井戸川さん」
そう言って彼女から離れた。体がやけに熱かった。
「……ごめんなんて言わないで」
「そ、そうだよね。ごめん」
あっ。また言っちゃった。
だって、でも、謝る以外の言葉が見つからなかった。
「謝るようなことしたの?」
「……」
「ねぇ。吉瀬さん」
井戸川さんが不意に近づいてくる。気づけば、彼女の顔がまたすぐ目の前にあった。
「目、閉じてよ」
「うん——」
プルルルルルルル。
そのとき、個室の電話が鳴った。二人の間に沈黙が走る。
井戸川さんが急に立ち上がり、手に取った。
それは、利用時間がそろそろ終わることを知らせる電話だった。
受話器を置いた後、二人の間に元の雰囲気が戻ることもなく——彼女は一言「帰ろっか」と、そう言った。




