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第1話 私、吉瀬さんのこと嫌いだから

 わたしはわたしに興味がない人が好きだった。その素っ気ない顔を振り向かせてみたくなる。好意的に振る舞うと、大抵の人は同じように愛想よく返してくれる。たとえ陰口を言われたとしても、にっこり笑って話しかけてしまえば心を溶かすことができる。対面で悪意をむき出しにできる人なんか、ほんの一握りだ。


 でも、井戸川萌子(いどがわもえこ)は違った。


「私、吉瀬(きちせ)さんのこと嫌いだから」


 まっすぐな目をして、わたしのことを嫌いと言う。少しも遠慮がない。


 言われた瞬間、心が沈んだ。ひゅっと背中に冷たいものが走る。

 だけど、そんな"嫌い"という言葉にゾクっとした快感を得たのも事実だった。


 彼女のはっきりとした物言いをするところに痺れたのかもしれない。


「……そっか。わたしは井戸川さんのこと、好きだけど」


 完全に言葉の綾だった。

 嫌いと言われたら、誰だってカチンと来るだろう。だけど同じように言い返しては駄目。心の余裕がなく、追い詰められた上での言葉だった。

 

 それなのに。


 井戸川さんは、面白いくらいに顔が真っ赤になっていた。


 えっ。


 何か言葉にしようとしたけど、喉の奥で消えた。


 井戸川さんはとっさに腕で顔を隠そうとした。どうやら、わたしに見られたくないらしい。

 眉間にシワが寄っているから、怒っていることはわかる。


 ——かわいい。


 わたしの不意打ちの告白?に、井戸川さんは恥ずかしくなってしまったんだろう。


 直視できなくて、視線がさまよう。


 彼女はどうしていいかわからなくなってしまったのか、そのまま空き教室を飛び出した。「待って」と言う隙も与えてくれない。


 "嫌い"と言われた後に、あんな真っ赤な顔を見せられたら、がぜん興味が出てきてしまった。嫌いになることなんてできなかった。





 わたし吉瀬来那(きちせらいな)は、明るくて話しかけやすいと友達から言われることが多い。親友のラブからも、「来那は人気者だからさ。声かけるのちょっと勇気いったんだよね」と言われたことがある。


 そもそもわたしは人が好きだった。この世に悪い人はいないと信じているほどに。

 一人ひとり考えが違うのは当たり前だし、すれ違って喧嘩しても、先に歩み寄れば、相手も素直に応えてくれた。


 クラスのみんなとも、楽しく話すことができていた。ただ一人、井戸川さんを除いては——。


 井戸川さんとのファーストコンタクトは忘れもしない。先生から頼まれて、ノートを集めているときのことだった。


「井戸"田"さん、数学のノート出してもらえるかな?」


 そのときのわたしは、井戸川さんのことを完全に井戸田(いとだ)さんだと思っていた。


 だからかな。


「……」


 冷たい目を向けられて、無言を貫かれてしまったのは。


「あれ? 井戸"田"さん?」


「私、井戸川だけど……」


「えっ。あっ。ごめん。い、井戸川さん!」


「……吉瀬さん。はい。ノート」


 井戸川さんは謝罪をスルーして、机の中から華麗にノートを取り出した。わたしが受け取ったのを確認すると、クールにその場を去った。


 やってしまった。

 名前を間違えて覚えられるのって、本当に嫌だよね。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 ……それなのに、井戸川さんはわたしの名前はしっかり覚えていてくれていた。ノートに書いてある「井戸川萌子」の字を見つめる。とめ、はね、はらいが、きちんとできていて、きれいな字だなぁ。


 わたしだって吉瀬じゃなくて、瀬吉(せきち)と呼ばれたら凹むだろう。きっと、井戸川さんはショックを受けたはず。


 その日を境に、クラスみんなの名前を、ノートに書いてしっかりと覚えた。これでもう間違えることはない。

 結局、間違えて名前を呼んでしまったのは井戸川さんだけだった。


 井戸川さんはクラスでは鳴海(なるみ)さんといることが多い。鳴海さんはピアノを弾くのが得意だ。音楽室で、「エリーゼのために」を弾いているのを、この目で見たことがある。


 井戸川さんが鳴海さんを見る目は優しい。まるで壊れ物を扱うみたいに接している。二人が教室の後ろでおしゃべりしている様子を、そっと盗み見る。


 井戸川さんが何かを言ったら、鳴海さんがクスクスと笑う。誰にも入れない二人だけの空気感が漂っている。例えば、わたしがラブと一緒にいても、到底出せない儚さだ。——羨ましいと思ったのかもしれない。


「ねぇ、二人何の話をしてるの?」


 何の前触れもなく、声をかけてしまった。


 井戸川さんは固まっていて、鳴海さんは目を丸くしていた。

 あちゃー。まずかったかなと思ったものの、後悔はしてない。

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