第9話「報告と不穏な兆し」
迷いの森を抜けた帰り道、俺たちは静かな林道をゆっくりと歩いていた。森の奥から差し込む光は、まるで柔らかなカーテンのように揺れている。さっきまでの激しい戦いが嘘のように、辺りは穏やかだった。
「ふぅ……とりあえず無事に戻れてよかったよね」
美月が小さく息を吐く。彼女の銀髪が風に揺れ、額の汗を少し光らせていた。戦闘後の緊張がようやく解けたらしい。
「ああ。スティールビートル……あれは今までで一番の強敵だったな」
俺は歩きながら、さっきの戦闘を思い返していた。あの急降下突進は、ほんの一瞬でも判断が遅れていれば貫かれていたかもしれない。大剣の迎撃突きが間に合ったのは、博士の課題で鍛え続けた反応速度のおかげだ。
蒼真は俺の隣で、静かに拳を握りしめたまま歩いている。先ほどの崩撃連拳──あれは彼にとっても新たな境地だったに違いない。
「……スティールビートル、動きは単純だったけど、硬さがヤバかったな。あんな鉄板相手に拳で殴るオレもだいぶイカれてると思うが」
「そうだな。普通、素手で戦おうとは思わん」
俺が苦笑すると、蒼真はニヤリと笑った。
「そこが求道者って職業の面白いとこだよ。隙を消して、動き続けるのが俺の生き残り方だ」
「私も……晴翔くんと蒼真くんが前に出てくれて、本当に助かったよ」
美月の声が柔らかく響く。彼女はずっと支援に徹してくれていた。バフの発動タイミングも絶妙だった。俺が迎撃突きを決められたのも、美月の《ブレイブブースト》が間に合っていたおかげだ。
「それにしても──アリアも、怖かったよな?」
俺は後ろを振り返った。小さな足音を鳴らしながらアリアは俺たちのすぐ後ろを歩いていた。相変わらず名前タグの表示はなく、NPCなのか何なのか判断がつかない。
「……はい。でも、お兄ちゃんたちが守ってくれたから、平気……」
はにかむような笑みを浮かべる彼女を見て、美月は優しく頷いた。
「もう大丈夫。街に戻れば安全だから」
そう言いながら、美月はアリアの頭をそっと撫でた。アリアは少し照れたように俯く。
◆
リーヴェルの東門が見えてくると、どこかホッとした気持ちが湧いてきた。木々の隙間から現れた城壁が夕日に照らされ、オレンジ色に染まっている。
街に戻ると、いつもの活気が迎えてくれた。広場には露店が並び、子供たちが走り回り、NPC商人たちが客引きをしている。リアルと見紛う精巧な仮想世界の情景だ。
ギルドホールの扉を開くと、カウンター奥から受付嬢のレイナが笑顔で手を振ってくれた。
「おかえりなさい!迷いの森の任務、無事に終わったみたいね」
「ああ、無事にね。スティールビートルって奴が厄介だったけど」
俺たちは報酬処理のためにカウンター前に立つと、すぐに《監視結晶》の提出処理が始まった。
「さすがです!こちらが報酬となります」
レイナが差し出したのは、金貨の袋と新たなアイテムチケット。それとは別に、博士からの依頼報酬も直接転送されてきた。
──《システム報告:依頼報酬 追加ボーナス:高額支払い済》
博士の報酬は相変わらず破格だ。
「さて、博士にデータも送っておくか」
俺はギルド内の専用端末にログインし、博士宛てにデータを送信した。
◆
「いやー、無事に戻れてよかったなー。よし、祝勝会だ!食堂行こうぜ!」
蒼真がいつもの調子で提案してきた。俺たちも特に反対する理由はない。
ギルドホールの裏手にある定番の食堂は、ちょうど夕食時で賑わっていた。いつもの料理NPCがシチュー鍋をぐつぐつと煮込み、大皿に取り分けている。
「はい、いつものね!」
出されたのは、たっぷり具の入った煮込みシチューと焼きたての黒パン。素朴だが、ここでの定番だ。
「ふわぁ……美味しそう」
美月は手を合わせてから食事に手を伸ばす。蒼真は早速シチューをかきこみ、俺も一口食べる。
(この味も、もうだいぶ慣れたな……仮想世界とは思えないクオリティだ)
◆
食事をしながら、美月はふとアリアの方を見つめた。
「そういえばアリアちゃんは、どうしてあんな奥にいたの?」
「……それは……」
アリアは少し言葉を詰まらせた。俺も蒼真も、彼女の様子をじっと見守る。
「私……よくわからないの。でも、あそこに導かれるように歩いてたの……気がついたら、森の奥にいて、狼たちに囲まれて……」
アリアの声は不安定だったが、嘘をついている様子はなかった。むしろ、自分でも理由がわからないように見える。
「うーん……バグイベントにしては、よく作り込まれ過ぎてるよな」
蒼真が顎をさすりながら呟く。俺も同感だった。博士の作ったこのVRMMOのNPCは確かに高度だが、ここまで自然な"人間らしさ"を持つキャラクターは初めてだ。
その時だった。
──ピコン。
視界にシステム通知が浮かんだ。
《博士からの緊急通信要求》
「ん?なんだ?」
俺は食事を中断して通信を開いた。
「──おお、晴翔くん!データは届いたよ。だが、少し予想外のことがわかった」
博士の声は、いつもの芝居がかった調子ではなく、やや緊迫していた。
「監視結晶の解析データから、幹部AIの進化度が当初の想定より遥かに早い速度で進んでいるのが確認された」
「進化……って?」
「単純な行動学習を超えて、シナリオの枠を自ら逸脱しつつある。元々は高難易度の学習型AIだったが、どうも魔王配下の一部が独自に“自己目的”を形成し始めているのだ」
「自己目的……?」
「簡単に言えば、『自分たちはなぜ存在するのか』を考え始めている。これは本来あり得ない現象だ」
博士の言葉に、背筋が冷たくなる。
「……それって危なくないのか?」
「理論上は大規模なバグにもなりかねん。……そして、問題はもう一つだ」
博士の声がさらに低くなる。
「その異常進化の中心に、君たちが保護した“アリア”が関わっている可能性が出てきた」
「え……」
俺も美月も蒼真も、思わずアリアを見つめた。だが、彼女はきょとんと首を傾げているだけだった。
「……博士、アリアは普通に助けを求めていただけだ。自分でそんな進化だの支配だの、考えている様子はまったく──」
「もちろん、今はまだ自我が安定していないのかもしれない。ただ、今後彼女を巡るストーリーが進行する中で、大きな影響を及ぼす可能性が高い。君たちには引き続き保護兼調査を頼みたい」
博士は深刻な声でそう告げると、通信は切れた。
◆
静かな食堂に、微妙な緊張感が残る。
アリアは、少し不安そうに俺の袖をつまんだ。
「……わたし、何か悪いこと……したの?」
その瞳は純粋で、曇りのないものだった。俺は小さく首を振る。
「大丈夫だ、アリア。何があっても、俺たちが守る」
蒼真も頷き、美月は微笑みながらアリアの手をそっと握った。
静かな夜のリーヴェルの街──
新たな火種が、静かに灯り始めていた。