第7話 王子レオナードの胸中
王子宮の奥、重厚な扉が閉じられた一室。
その中心で、第一王子レオナード・エルディナは苛立ちを隠そうともせず、飾られた花瓶を床に叩きつけた。
「くそっ!!」
陶器の割れる音が響き渡り、従者たちはびくりと肩を震わせて顔を背ける。
だが、誰もレオナードに声をかけようとはしなかった。
王宮で誰よりも気性が荒く、そしてプライドが高い――それが第一王子だった。
怒りのままに室内を歩き回り、何度も床を踏み鳴らす。
「俺は、この国の第一王子だ。次期国王となるはずの、唯一無二の存在だった……!」
レオナードは、両手を握りしめながら鏡越しに自分を睨んだ。
そう、もともと何一つ問題などなかった。
自分は第一王子として生まれ、すべてを持つはずの存在だったのだ。
公爵令嬢アルティア・ブライトウッドとの婚約も、幼い頃から決められていた。
自由ではなかったが、それも運命だと受け入れてきた。
だが――なぜ、こんなことになった?
思い出すのは、数日前の学園パーティーだ。
堂々と壇上に立ち、皆の前で婚約破棄を宣言した。
あれこそが、アルティアという鬱陶しい婚約者を振り払う最良の機会だった。
すべて完璧に仕組んだはずだった。
……なのに。
「なんで……あいつらが反論なんてしてきた!?」
レオナードの声は、悔しさと怒りに満ちていた。
セレナ・リンウッド。
アルティアの忠犬のようにいつも傍にいた取り巻きの令嬢。
そして、ラファエル・アスター。
アスター公爵家の嫡男で、掴みどころのない男。
「余計なことを……っ!」
歯噛みしながら壁を殴る。
だが、自業自得などという思考は、レオナードには微塵もない。
もともと、アルティアとの関係など良好とは言えなかった。
高圧的で気位が高く、近寄りがたい。
会話もほとんどせず、ただ形式的に婚約者として過ごす日々。
そして学園に入ってから――それはますます耐えがたくなった。
彼女は常に成績優秀。
魔法の実技でも常にトップクラス。
いつだって賞賛され、自分よりも前に出る。
『さすがはアルティア様ですね』
『水属性の制御が完璧ですわ』
周囲の評価が耳につくたび、レオナードの心に小さな棘が刺さった。
自分より、婚約者の彼女のほうが優秀。
それが、劣等感になった。
王子としてのプライド。
次期国王としての自負。
それを踏みにじるような、彼女の才気。
『――ムカつくんだよ』
心の奥に巣食った小さな黒い感情が、じわじわと膨らんでいく。
――そんなときだった。
『レオナード様……今日も助けていただいて、ありがとうございます』
ふわりとした微笑みで、自分に寄り添ってきたのは、平民出身の少女。
ミランダ・フェリシティ。
彼女は特待生として学園に入学したが、その実力は本物だった。
希少な光魔法を扱えるだけでなく、全ての属性に対応する才能を持っていた。
まさに奇跡のような存在、天に愛されているような才能。
その彼女が――。
『私、誰にも頼れなくて……でも、レオナード様だけが、私の味方でいてくださるんですね』
そんな風に、しなだれかかるようにすがってきた。
その瞬間、胸の中が満たされるような感覚があった。
――これが、求めていたものだ。
称賛でも、実績でもなく、必要とされること。
それが、王子であるレオナードにとって、何よりも甘美だった。
「アルティアには、俺が必要なかった……でも、ミランダは違った。俺を頼ってくれた……!」
彼女を守りたい。彼女のために動きたい。
王子として、いや、一人の男として――。
だから、アルティアを排除しようとしたのだ。
『私、虐められているんです……』
と涙ぐむミランダを、疑うことはできなかった。
王子の権威を使えば、アルティアを罪に問うことは容易だった。
完璧な根回しをした。
元取り巻き令嬢たちを買収し、噂を広めさせ、証拠も用意した。
学園の空気を作り上げた。
あとは、決定的な場で断罪すれば、全てが終わるはずだった。
周囲の信頼を失わせ、あとは「可哀想な平民のミランダを守る王子」として立場を盤石にするはずだったのだ。
完璧な計画だった。
それが――
「セレナ、ラファエル……奴らさえいなければっ!」
机を蹴飛ばし、積まれていた書類が宙を舞う。
あの女、セレナ。
あそこまでしてくるとは思っていなかった。
自分の立場も顧みず、まるでアルティアの忠犬のように吠え立てて。
そして、ラファエル・アスター。
あいつは公爵家嫡男、ただの貴族の坊ちゃんではない。
あそこまで証拠を押さえ、状況を逆転させたのは、あいつの力もあってこそだ。
「許さない……絶対に許さんぞ……!」
指からは魔力がにじみ出る。
王子としての威厳も、力も……全てを奪われた怒りが魔力に混じって暴れ出しそうになる。
「俺は、俺のために……そしてミランダのために……必ずあいつらを潰す!」
今度こそ完璧にやる。
もう、王位継承権は弟に移ってしまった。
あれだけ大事に育てられ、王としての教育を受け続けてきた自分が。
たかが一度の舞台で、すべてを奪われるなど……許されるはずがない。
だが、まだ終わったわけではない。
ミランダはまだ自分のそばにいる。
光魔法の力を持つ彼女と、第二王子派が失策すれば、再び這い上がれる。
それまでに――セレナとラファエル、そしてアルティアを引きずり下ろす。
今度は誰にも邪魔させない。
燃えるような瞳でレオナードは呟く。
「アルティア、ミランダを泣かせたことを後悔させてやる。セレナ、お前の忠誠心を叩き潰す。ラファエル、お前の名誉を地に堕としてやる……!」
低く、絞り出すような声が、王子宮の奥でこだました。