第21話 闇魔法の力とは
ラファエル様の公爵邸は、いつ訪れても広々としていて落ち着いた空間だった。
日差しが差し込む応接間には、高い天井まで続く大きな書棚が壁一面に並んでいる。
その中から持ち込まれた文献や本が、机の上に散乱していた。
今日は、数日前に起きた訓練ダンジョンでの事件を調べるため、アルティア様、ラファエル様と共に朝からずっと調査をしている。
「……やはり、何も出てきませんわね」
アルティア様が、ため息と共に本を閉じた。
疲労感が微かに滲むその仕草に、私は胸が痛くなる。
「アルティア様、少し休憩を挟みましょうか」
「いいえ、大丈夫よ。それよりも早く手がかりを掴まないと……」
私の気遣いに、アルティア様は微笑んで返した。
その笑顔に、私はさらに胸が締め付けられた。
訓練ダンジョンでの事件以降、学園でのアルティア様への風当たりは強まるばかりだった。
廊下を歩けば生徒たちは道を避け、教員すらも遠巻きにこちらを伺い、陰口を叩く。
『見た? あの魔法……気味が悪いわ』
『闇魔法を使うなんて、やっぱり普通じゃないわよね……』
『あんな人がいるだけで、怖くて授業にも集中できないわ』
そんな囁き声が耳に入る度、私は悔しさで唇を噛み締める。
誰よりも優しくて、誰よりも強いアルティア様が、どうしてこんな扱いを受けなければならないのだろう。
「故意にダンジョンを暴走させるのは、理論上は極めて難しい……。少なくとも一般的な魔法や道具では不可能だね」
ラファエル様が冷静に分析した。
「やはり、呪道具の類でしょうか」
「おそらく。でも、そんな危険な物が簡単に手に入るとは思えないな」
「だとすると……」
アルティア様の表情が少し曇る。
「やはり、ミランダ……」
その名前を口にすると、部屋の空気が重くなった。
私もゲームの記憶を掘り返していた。
けれど、あのダンジョン暴走については何も思い出せない。
そもそも、こんな事件がゲームにあっただろうか?
(もう完全にゲームと違う……)
焦りと不安が胸に広がった。
数日後、アルティア様が教師に呼び出されるという知らせを聞いた。
「私も一緒に行きます!」
「ありがとう、セレナ」
アルティア様は静かに笑ったが、その目には隠せない不安が揺れていた。
訓練場に着いたとき、空は曇っていた。
まるでこれから起きることを予感しているかのように、重たい空気が漂っている。
教師たちはすでに何人も集まっていて、その中にはミランダ、ジェラルド、そしてレオナード殿下の姿もあった。
いずれも厳しい面持ちで、私たちが来るのを待ち受けていたようだった。
「アルティア嬢、闇魔法を見せてもらう。どの程度の力を持つのか、知っておく必要がある」
中年の教師が淡々とした声で言ったが、その視線はどこか警戒と疑念に満ちていた。
アルティア様は、静かに前へと歩を進める。
その背筋はすっと伸びていて、震えひとつ見せていない。
「……わかりました」
アルティア様の声は澄んでいた。
その瞬間、空気が変わる。
気温が数度下がったかのように、訓練場を冷気が包み込んだ。
彼女が杖をゆっくりと掲げる。
――ぶわ、と。
何もない空間から、黒い霧があふれ出した。
それはまるで意志を持っているかのように揺らめき、的へと滑るように伸びていく。
「『カースフォグ』……!」
私の口から、自然とその名が漏れた。
霧が的に触れた瞬間、バチバチと火花のような音が立つ。
表面がみるみるうちに腐食し、鈍い灰色へと変色していく。
的の木製の部分はただ黒ずむだけでなく、少しずつ腐食していくようだった。
「……な、なんだこれは」
「こんな魔法……初めて見た……」
教師たちは言葉を失っていた。
訓練場にいつもいる、熟練の魔法教師たち。
それでも、明らかに異常なその威力には目を見張っている。
「続けます」
アルティア様は淡々と、次の魔法の詠唱に入った。
彼女の手のひらに、小さな漆黒の球体がいくつも浮かび上がる。
「『カースブロット』」
球体が弾丸のように放たれると、的の中央を貫いた。
瞬間――そこが腐食していき、一気にどろっと溶けるように崩れる。
そのまま木片が黒い煙と共に砕け散り、場内が一瞬、静まり返った。
しばらく教師たちが顔を見合わせたが、一人の教師が出てくる。
「今度はこちらから防御魔法を使って試す」
教師が、すかさず魔法の障壁を展開した。
彼は水魔法で半透明の壁が張って、厚みと強度は十分なはずだった。
「……っ!」
放たれた黒い球体が、それに触れた瞬間だった。
障壁が、音もなく吸い込まれていくように消えた。
防御障壁は、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消滅した。
「なっ……!」
「馬鹿な、私ができる最大の防御魔法だぞ!?」
教師たちの声が震える。
闇魔法の一番恐ろしいのは、おそらくこれだ。
普通の魔法では、防げない。
魔法では防げない――通常の対抗手段が、一切通じない魔法。
それが闇魔法で、最強で最恐と言われる所以だ。
「これが、闇魔法の本質ですか……」
ミランダが小さく呟いた。
「防御不可能な攻撃が、人に向けられたら……」
レオナード殿下が重々しく言った。
その声には確かな敵意が滲んでいる。
「やはり、危険すぎる!」
その瞬間、レオナード殿下が叫んだ。
「やはり拘束すべきだ!」
「いや、むしろ殺すべきだ!」
ジェラルドの声には明確な殺意がこもっていた。
「アルティア様は人に向けるようなことはしません!」
私は即座に反論したが、聞き入れられない。
「もちろんです。私は決して、力を他者に向けません」
アルティア様が静かに言ったが、空気は悪くなるばかりだった。
その時、ミランダがゆっくりと闇魔法の効果が残る的へ近づいた。
「ミランダ、危険だ!」
ジェラルドが叫ぶ。
しかし、ミランダは静かな笑みを浮かべたまま、その場に立った。
「大丈夫ですよ、ジェラルド様」
言い終わると同時に、彼女の身体が淡く輝き始めた。
(……光魔法!?)
ミランダの手から放たれた光が、闇魔法に侵食された的に触れた瞬間、まるで時間が巻き戻ったかのように腐食が止まる。
黒ずんだ表面が色を取り戻し、崩れていた木材が固さを取り戻していく。
「打ち消した……!?」
「闇魔法が……消えていく……?」
教師たちがどよめいた。
「やはり、光魔法なら……対抗できるようですね」
ミランダが穏やかな微笑を浮かべて振り返る。
その目は、冷たく澄んでいて――まるで勝者のようだった。
「ミランダ様こそ……!」
「なんという奇跡の力……」
「やはり聖女だ!」
教師たちが次々と感嘆し、崇拝するような目でミランダを見つめていた。
ジェラルドもまた、驚きと安堵が入り混じったような目を向けている。
――まるで、もうアルティア様が敵と決まっていて。
ミランダがいれば、何があっても大丈夫。
そう思っているようにしか見えなかった。
その時、ミランダと、視線が合った気がした。
彼女は、ほんの一瞬だけ――唇の端を、ゆっくりと吊り上げて見せた。
(あの人……)
鳥肌が立った。
まるで、すべてが彼女の掌の上にあるかのような――そんな冷たい笑みだった。
私は、奥歯を噛みしめる。
――絶対に、このままにはさせない。




