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第二章:香りが呼び覚ます



「初めまして。ニューウェーブ・コーポレーションのケネス・リーです」


車から降りてきた黒いコートの男は銀縁眼鏡の奥から切れ長い目を微笑ませた。


「初めまして」


――李笙霖(り・しょうりん)です。


昔、パナマ帽に象牙色の背広を着て現れた男も、黒縁眼鏡の奥から同じ笑顔を向けた。


どきつく胸を押さえて頭を下げる。


「溝口ゆかりです」


この人はあの李笙霖ではないし、私ももう市川サダメではない。


「ご案内致します」


儀礼的な笑顔で告げると、どこか寂しい笑いに変わった相手はゆっくり頷いた。


「お願いします」


*****


「日本料理、お口に合うと嬉しいのですが」


BGMに琴の音が流れ、幽かな竹の香りが漂う店の席。


課長はどこか畏れを交えた笑顔で新たに取引契約を結んだばかりの若いシンガポール人実業家に告げる。


部下の私たちにはまず見せない慇懃さだ。


「学生の頃、東京に一年、留学してすっかり日本食が好きになりましたから、日本のお料理なら大体おいしくいただけますよ」


――東京に来て一年だけど、日本料理は大方あっさりしてるから、どれでも割り増しで食っちゃうな。


記憶の中にいる上海から来た李笙霖と比べると、このシンガポール人のリー社長は幾分浅黒い肌をしている。


けれど、日本語で話す時のおっとりした口調は一緒だ。


「ここ、牡蠣の天ぷらと柚子サワーがおいしいですよ」


李笙霖は私の揚げた天ぷらを天かすまで残さず平らげてくれた。


柑橘類が好きでまだ青い蜜柑はもちろん、レモンでも平気でかじるのには驚いた。


「溝口」


苦々しく振り向いた課長や怪訝そうな中村や田口の顔にぎくりとする。


この場では差し出がましい口を利いてしまったようだ。


「あはは」


ケネス・リーは銀縁眼鏡の奥の目を細めた。


「僕の好みを良くご存知ですね」


*****


「あー、疲れた」


ドライヤーもそこそこにベッドの毛布に潜り込む。


エアコンを精一杯効かせた狭いワンルームだが、この時期は毛布にくるまってあらゆる冷気を遮断しなければ心から「暖かい」と思えない。


微かに濡れの残る髪からコンディショナーの香りが立ち上ってくる。


ちょっと癖のある、甘い椿に似た匂いだ。


宴席で隣や向かいに座っていた課長や中村の煙草の臭気が纏い付いていたので、今日は特に念入りに洗った。


――初めて会った気がしない。


お手洗いに立って擦れ違った時、銀縁眼鏡のあの人は囁くように密やかな声が告げた。


――そうですか。


こちらは曖昧に微笑んでやり過ごした。


だが、こうして床の中で湿った花じみた香りをかいでいると嫌でも蘇る。


椿油を私の髪に塗り込んでくれた李笙霖の手、抱き合って重ねた唇の柔らかさ。


体の芯がカッと熱くなる。


「淫婦」と呼ばれ、数多くの男と関係を持ってはいたが、それまで本当に快楽を覚えたことはなかった。


でも、李笙霖だけは違った。


この男は危険だ。


分かっていてもどんどん押し流された。


熱を持て余して身体を捩らせた弾みに頭が毛布から出て、ひやりとした空気に曝される。


ブーン。


エアコンの吹出口の閉じる機械的な音がした。


タイマー運転の切れ時が来たらしい。


「もう、おしまい」


ケネス・リーは表社会の正業で活躍する実業家だし、私はしがない、しょぼいOLだ。


まあ、リー社長も直にシンガポールに帰るだろうし、後はせいぜい仕事のメールでやり取りするだけだ。


体の奥に燻る熱を振り切るように目を閉じる。


そうすると、すぐ意識に霞が懸かってきた。


想像以上に疲れていたらしい。


――どうしてそうなるんだ。


大きく真っ直ぐな目で私を揺さぶった貴方にはまだ現世で逢えてない。


今度は逢えるかも、分からない。

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