453 神隠し③
窓から差し込む薄っすらとした月明かりのみが廊下を照らしていた。
宝物殿【星神の箱庭】。ゼブルディアと重なりあうようにして存在しているその宝物殿には基本的に、昼というものが存在しない。
それは恐らく、人間という生物が本能的に闇を恐れているからだろう。かつて人間に撃退された星神が人間の恐れるものを知るために生み出されたその宝物殿が闇に包まれているのは必然と言える。
宝物殿に顕現する幻影もまた、かつて存在していた恐怖の象徴だ。夜闇に乗じて襲いかかってくる殺人鬼。極秘実験施設で生み出されたモンスターに、都市伝説として恐れられていた死者の魂。
かつて――特に子ども達の間で囁かれ恐れられた『咽び泣くレディ』もまた、マナ・マテリアルにより呼び起こされた恐怖の象徴だった。
夜の校舎で、病院で、あるいは灯りのない街角で出現したシンボルとしての少女の亡霊。時に潜み、時に忍び寄り、時に呪い、恐れられた亡霊の象徴はしかし今、人語を解さない者も多い【星神の箱庭】の幻影達の中で、まとめ役としての立ち位置に置かれていた。片言でしか話せない殺人鬼――モンスター・ディギーがまだ【箱庭】の幻影達の中では話の通じる方だと言えば納得できるだろう。
人間に撃退され出ていった星神が帰還する気配は未だない。だが、恐怖を集めるという使命は順調といえた。
多少のアクシデントはあった。ディギーやレディへの恐れを乗り越え襲ってくる騎士を捕まえてしまったし、宝物殿に流れ込む力が減ったせいで本来ならば然るべき時まで隠されているはずだった神隠しが明らかになってしまった。これまで見たことのない怪物が町の外を闊歩していたし、隠れているはずのレディを見る女まで現れた。
だが、少なくともその後は順調だ。
今、宝物殿の内部は攫ってきた者たちの声なき悲鳴によって、恐怖に満ちている。それに伴いレディ達の力も上がってきているし、この宝物殿にはまだ封印された魔性が幾つも存在している。
外の連中が神隠しについて調べ始めているが、気を付けて対象を選定すれば何も問題はない。
この宝物殿には――招かれない限り決して入れないのだから。
リノリウムの廊下。並ぶ古びた窓から暗い空を見上げていると、後ろから湿ったような足音が聞こえてきた。
「う……おで、やっだ……」
「ここに連れてこないで、好きな場所にぶち込んでおきなさい」
しわがれた声。くたりと気絶した人間を横抱きにしたモンスター・ディギーに、レディは眉を顰める。
どこから攫ってきたのかは知らないが、殺人鬼や怪物の噂は幾つも帝都で広まっているらしいので、その内の一つを利用したのだろう。
モンスター・ディギーは異形の怪物である。あのヒューとかいう騎士には通じなかったが、一般人ならばその姿を見れば恐怖のあまり意識を失うだろう。
神隠しは噂に乗じて行われる。それを最初に広めたのはレディだが、既に噂はレディの手を離れ勝手に広まり続けていた。どの噂が神隠しに繋がるのか、外の連中が調べ始めているが、無駄な事だ。
全てだ。全ての噂が、この宝物殿への入口なのだ。噂は噂、本物も偽物もない。レディは噂を試す愚かな人間をそっと隠すだけでいい。
「ゔゔ……おで、殺したい。首が、ほじい……」
「あなたまで……気持ちはわかるけど、やめなさい」
モンスター・ディギーは首を集める殺人鬼としてのアイデンティティを与えられて生まれた。その本能をこらえるのは大変な事だろう。
だが、死が恐怖なのは既にわかっている。レディ達の使命は、死を恐れずに星神と戦ったような人間が恐れるものを探すことなのだ。
俯き殺意をこらえるディギーに、レディは声を落として宥めるように言った。
「いい子だから……私を、怒らせないで。話を聞けないのはあれだけで十分よ」
そう言ったと同時に、僅かに廊下が振動した。あれがきたのだ。
一体いつの時代の何から引っ張られてきた幻影なのか……ため息をつき、廊下の先を見る。
鈍く光を反射する廊下に、奇妙な三角形が突き出していた。三角形は音もなく、左右に揺れながら滑るようにこちらに動いてきている。
あれを見て、あれが何なのか答えられるものはいないだろう。レディだって最初にそれを見た時は己の目を疑ったのだ。
モンスター・ディギーが床に気絶した人間を横たえ、首の繋がる鎖を持ち上げ、ぐるぐると振り回す。
高速で接近してくる三角形。
いや、三角形ではない。
それは――背びれだ。
人間から数メートル離れた辺りで、大きく背びれが持ち上がり、床に隠れていた全容が露わになる。
それは――サメだった。尻尾の先から頭の先まで漆黒の、地面を自在に泳げるサメ――本人が自己紹介できないため、レディ達がデーモンシャークと呼ぶ幻影だ。
大きく跳び、人間を噛みちぎろうとしたデーモンシャークに向かって、モンスター・ディギーが鎖で繋がれた首を思い切りぶつける。
首がひしゃげる音。鉄骨を軽々と振り回す怪力によって反撃されたデーモンシャークは大きく吹き飛ばされ、そのまま床に潜って消えた。
「よくやったわ。しかし、あんな怪物、いつの時代に生息していたのかしら」
そりゃ恐ろしい事には恐ろしいが、水ではなく床や壁を自由に潜航できるサメがかつて存在していたなんて信じられない。
レディ達に下された使命を理解しているのかも不明だし、まだあれが外に出られない幸運を外の人間は知るべきだろう。
地面を自在に潜航して襲いかかってくるサメの噂なんて仮に流したとしても誰も試そうとしないだろうけど。
レディとしては、命令を聞かない、生き物を発見したら即座に喰らおうとするサメなど厄介極まりない。かろうじてレディ達に噛みつく事はないが……レディやモンスター・ディギーに立ち向かってきたあのヒューと言う騎士はデーモンシャークも恐れないのだろうか?
あのレディへの恐怖を乗り越え襲いかかってくるヒューとの遭遇は予想外だったが、一つの気づきを与えてくれた。
この時代の人間にはこの時代の恐怖がある。恐怖という感情そのものを持たない者など、この世に存在しないという事を――そして、ヒューから読み取り再現した恐怖――『呪いの精霊石』はきっとこの時代の強者を恐れさせる強い味方になるだろう。
そして、レディ達が多くの恐怖を集めたその時、この宝物殿を残した星神も帰還するのだ。
「おで、さがず……」
モンスター・ディギーが人間を抱きかかえ、再び歩き出す。そのおぞましい背中に、レディは声をかけた。
「気をつけるのよ。もう皆、神隠しを警戒している。戦える人間を送り込んでくるかもしれない。外では、私達は無敵じゃないんだから」
「…………」
モンスター・ディギーは何も答えなかった。
人間の動きに気をつける。縦横無尽に人を襲う系のモンスターにとって存在意義を揺るがす行為だろう。
この宝物殿はレディ達の縄張りだ、基本的に負けはしない。
だが、外の世界では違う。宝物殿の持っていた認識阻害の能力が効いていない以上、捕まる可能性だってゼロではない。使命のために動いているレディとしては、そのような危うい行為を許すわけにはいかなかった。
そこで、レディは天井を見た。
感じる。誰かがまた噂を試そうとしているのを。
外の世界では神隠しの現象が認知されつつある。このまま状況が進めば、いずれ噂を試す者はいなくなるかもしれない。その前になるべく大勢の人間を確保しておく必要があった。
もちろん、相手は選ぶが――。
「この感じ……ゼブルディア魔術学院ね」
レディが普段着ている服はゼブルディア魔術学院の制服である。
あの学院はレディにとって好都合な場所だった。
神秘に適度に慣れていて、向上心や冒険心が高い子供が大勢いる。
レディ達はこれまで大勢の人間を攫ってきたが、一番多いのが学生だろう。誘うのも簡単で捕らえるのも簡単だ。もちろん、ゼブルディア魔術学院の生徒がほぼ全員が強力な魔導師である点は忘れてはいけないが――。
だが、ゼブルディア魔術学院も神隠しの認識阻害が働かなくなり、警戒が非常に強くなっている。先日生徒を攫ったばかりなのにこうも短期間で次の獲物がくるとは考えにくい。
「しかも、試そうとしているこの噂――『開かずの幽霊教室』ね。この間繋げたばかりなのに」
『開かずの幽霊教室』は特に難しい条件なども存在しないシンプルな噂だ。
現在物置として使用されている、滅多に人も訪れない第66教室で幽霊が魔術の真髄を教えてくれるという噂。
神隠しの噂は幾つか流したが、獲物が全く引っかからないものも多い。ゼブルディア魔術学院に流した噂の中では、試す者がまったくおらず繋がりが消えてしまった『告白のマジックツリー』が失敗例に該当するが、幽霊教室は流した噂の中でも有効だったものの一つだ。
幽霊教室は人通りの少ない場所に存在する。レディは噂を試そうとしている生徒を品定めし、罠ではないと判断した時にだけ、この宝物殿とその教室の扉を繋げ、攫ってしまえばいい。
だが、先日生徒を消した直後に、その教室は消した生徒とは比べ物にならない強力な魔導師率いる複数人によって検証されていた。
あれからまだ時間が経っていないのにまた人がくるとなると、生徒が噂を試しにきたと考えるよりは再度調査がやってきたと考えるべきだろう。
ぱちんと指を鳴らすと、周りの風景が廊下から教室に切り替わる。
ゼブルディア魔術学院第66教室を模した教室だ。ただし、現実世界の教室の中に置かれている物は存在しない。
代わりにあるのは、並べられた机と教壇。そして、黒板に描かれた魔法陣――噂の幽霊教室を模した舞台だ。
現在、第66教室と宝物殿は重なった状態だ。レディの意思一つで切り替えられる万全の状態である。
だが、切り替えるまで、現実世界から宝物殿に干渉する術はない。
「やはり調査部隊ね。いくら調べたって何も出るわけがないのに……」
マナ・マテリアルの供給が減り、神隠しを隠蔽する能力こそ失われたものの、【星神の箱庭】は強力な宝物殿だ。別次元に存在するという特性は魔術的な仕掛けによるものではなく、強いて言うのならば星神の御業である。人間が調べたところでわかるわけがない。
現実世界の様子を覗き見る。
調査部隊の人数は十人近かった。恐怖の度合いを調べるためにいずれ一度大人数を一度に攫いたいとは思っていたが、さすがに初回でこの人数を【星神の箱庭】に引き込むのはリスクが高すぎる。
しかも、恐らくこの調査部隊は神隠しに遭遇した時の事も考えて編成されているはずだ。次にこてんぱんにやられたらモンスター・ディギーのトラウマになってしまうかもしれない。
現実世界の教室の扉の鍵がかちゃかちゃと音を立てている。
やはり今回は様子見だ。そう決めたレディの前で、扉が音を立てて開いた。
先頭に立って教室に入ってきたのは――二人の女だった。思わず、レディは息を呑んだ。
一人目は、先日神隠しの後に調査にやってきた魔導師の女だ。
攫った学生とは比べ物にならない強力な魔力を秘めた魔導師。これはこれで、レディが絶対にターゲットにしたりしない人間なのだが、問題はもう一人だった。
もう一人は――町中で、見かけた女だ。爛々と輝く真紅の双眸を持ち、レディでも見たことのない異形を連れていた女。
頑強さなど欠片も見えないその細身の肉体から迸るその奇妙な力は、マナ・マテリアルを大量に吸っているなどという言葉では表現できない程、異質だ。
魔導師の方の女が所狭しと棚が並べられた第66教室を眺めて言う。
『やはり、私達は対象外みたいですね。さっさと何もないか調べて次に行きましょう』
レディは眼の前にいるのだが、その視線は完全にレディを通り過ぎている。
そもそも、レディのいる幽霊教室は見えていないだろう。それが普通だ。レディは別の次元、異なる位相に存在しているのだから、見えるはずがない。
――だが、もう一人の女の真紅の瞳は、完全にレディを捉えていた。
その見開かれた双眸にははっきりと、呆然とするレディの表情が映っている。
見られている。確実に。
これは、魔眼だ。異界を見通す極めて稀有な能力を有した、魔眼。
周りには、道路でも見かけた影のような異形が複数体、まるで女を守るように取り囲んでいた。それらの生き物もその女同様、レディの事が見えている。
だが、まだ見えているだけだ。レディがいるのは宝物殿の中、現実の教室ではない。
息を殺すレディに、女が目を瞬かせ、一度頷いた。
『なるほど…………理屈はわからないけど……確かに、これは私が最適かも。やはりクライは正しい。彼には勝てない』
『……へ? サヤ、何かわかったんですか?』
『ルシア、教室から出て。試してみる』
『…………わかりました』
どうやらこの女はサヤという名前らしい。
サヤが、ルシアと言う名らしい魔導師と共に教室から出て、扉を閉める。他に伴っていた調査メンバーも不思議そうな表情をしている。
試す? 一体何を試すつもり?
眉を顰めるレディの前でサヤが、扉に手をかける。
だが、手をかけたのは現実の教室の扉ではない。これは、幽霊教室の扉――宝物殿に繋がる扉だ!
「!? な、何……?」
ありえない。ずれた位相に存在する教室の扉に干渉するなんて!
予想外だった。だが、間違いない。
この女はこの宝物殿の天敵だ。
このままではこの宝物殿に侵入されてしまう。
慌てて扉に取り付き、開かないように力を込める。サヤが、開かない扉に目を瞬かせ、首を傾げた。
『開かない……? 噂では、幽霊教室の扉は鍵がかかっていないはずなのに……』
選ばれた生徒しか入れないって噂だったでしょう!! 諦めて!
祈るレディの前で、ルシアが言う。
『おかしいですね。そもそも、さっき鍵は開けたはずなのに……』
『私が触れている扉は別の扉だから――』
まずい……この女、レディよりも力が強い。
そもそもレディは霊的な存在として恐れられているのであって、こういう肉体的な部分ではほぼただの人間なのだ。
その時、モンスター・ディギーが窓をぶち割って入ってきた。この教室にその姿は似つかわしくないので入ってこないように言いつけておいたのだが、レディのピンチを察知したのか。
レディは必死に後ろを向いて、ディギーに叫んだ。
「ディギー! 助けてッ!」
「お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!」
モンスター・ディギーが扉に取り付き、思い切りその扉を押す。物理的に人を襲う系怪人、モンスター・ディギーの膂力はレディの比ではない。
全力で扉を押すレディ達に気づいているのかいないのか、サヤが呑気にルシアに話しかける。
『なんか声が聞こえない?』
『……そうですか?』
しかしこのサヤという女……力が強い。モンスター・ディギーが全力で押しているのにぎりぎりだ。
全力で抵抗していると、サヤが手を離した。
諦めたのだろうか?
祈るような気持ちのレディに、サヤが事も無げに言う。
『開かない。仕方ないから、扉を破壊する』
「は……はああああああああああああ?」
意味がわからない。思わず声を上げるレディの前で、サヤの後ろに控えていた人型の異形が思い切り腕を振りかぶる。
慌ててモンスター・ディギーを引っ張り扉から離れる。離れると同時に、扉が大きく吹き飛んだ。
9月末に新刊でますよちゃんと!
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