437 囚われのレベル8の場合
《夜宴祭殿》の力を試せと言われていたのだ。剣尾の言葉に、サヤはピクリと身体を揺らした。
だが、それ以上動く気配はない。
陽光の下。その眼窩の奥の黒の瞳は戸惑ったように瞬きしている。
「? もう一度言うわ。能力で、奴らを殺しなさい」
聞こえなかったのだろうか? もう一度命令する。
しかし、やはりサヤは動かなかった。
サヤやカイザーの精神を縛っている仮面――『懲罰の白面』は絶対だと聞いていたのだが……実際に、同じレベル8であるカイザーは動いている。
状況は完全に負けようのない状況だ。クラヒ達を睨みつける空尾に、彫像のように停止しているカイザー。剣尾だっていつでも剣を抜けるようにしている。
別に今更サヤが動かなかったとしても何も問題ではないが――。
剣尾はもう一度強い口調で、サヤに命令した。
「《夜宴祭殿》、もう一度命令するわ。能力を発動し、奴らを始末しなさい! これは、命令よ!」
そう叫んだ、その時だった。
こちらをじっと見ていたサヤ。その仮面に存在する目の穴の奥に見えていた双眸が、ぎゅっと閉じられる。
そのまま、ふらふらと手のひらが眼を隠す。
もしかして、諦めた? 殺せないという事だろうか?
彼女はレベル8だ。命令に従わないならば、放置するのは危険すぎる。処分するしかない。
声を上げようとした、その時だった。
――どこからともなく、さらさらという奇妙な音が聞こえる。
まるで砂がこぼれるような、まるで布がこすれ合うような――。
「?? なんだ、その女は――どういう、事だ?」
「ッ!?」
思わず、一歩後退る。サヤの顔を隠した手の内側から、何か黒い煙のようなものが漏れていた。
煤のような黒ではない。闇のような黒いそれは、またたくまに空全体を覆い隠す。
それは、魔術ではなかった。サヤの身体からは魔術発動時特有の気配がない。クラヒ達の表情も強張っている。
その時、軍勢の一部――先程ドンタンファミリーを名乗った男が恐怖したように叫んだ。
「こ、この、音は――さらさらという、この音はああああああああああああああ!?」
敵も味方も、軍勢も、その場にいる全員がこの状況に呑まれていた。唯一反応を示していないのは仮面に支配されたカイザーだけだ。
そして、世界が薄暗闇に包まれる。
さらさらという音はますます増すばかりだ。
嫌な予感がした。この能力は――何か、おかしい。
その目から漏れていた暗闇が止まる。サヤの手が仮面から離れる。眼窩から溢れるその瞳は先程とは違い――血のような赤をしていた。
慌ててもう一度命令する。
「奴らを、殺しなさいッ!!」
感覚が狂っている。おかしい。気配がする。先程まではなかった、無数の気配が。
いつの間にか、道路には無数の足跡がついていた。真っ赤な裸足の足跡。それは、道路の向こうから始まり、サヤのすぐ手前で消えていた。
そして、不意にサヤの顔を覆う懲罰の仮面に、血のような赤い手の平の跡がつく。
まるで――何かに、触られているかのように。
「これは、異能だ、まずいぞ、剣尾!」
「わかってるわッ!」
明らかに、おかしい。サヤの思考は縛っている。
だが、命令が実行されない。
抜刀。サヤの首を飛ばす。射程範囲内だ。剣尾の腕ならば刹那の時間もいらない。
「ッ!? これ、は――」
さらさらという音が聞こえる。どこかその音は、根源的な恐怖を煽っていた。
首を落とすはずだった刀は抜く事すらできていなかった。『何か』が、剣尾の腕を抑えている。万力のような力で――手首に、指の跡が残っていた。だが、透明な生き物などではない。
「空尾ッ!」
「ぐッ……クソッ……」
空尾の身体は、宙に吊り下げられていた。首に手形が残っている。何かが、空尾の首を握りしめ持ち上げているのだ。
絶対的な空を生み出し干渉を跳ね除ける力が全く働いていない。
いや――違う。剣尾は直感した。
剣尾の腕を抑えているこれは唐突に生じた。恐らく、空尾の首を絞めているあれも、結界の内側から生じたのだ。
サヤの懲罰の仮面が音を立てて歪む。何かが、サヤの仮面を無理やり剥がそうとしている。
サヤが悲鳴をあげるが、それは全く容赦しない。
そして――無理やり引きちぎられた仮面が地面に落ちた。
これは、まずい。
距離を取るが、剣尾の腕を抑えている力は全く緩まない。
そして――サヤの顔が仮面から解き放たれた。
漆黒の長い髪に、どこか血の気のない容貌。そして――血のように赤く輝く双眸。聞こえていたさらさらという音が更に多くなる。
レベル8ハンター。《夜宴祭殿》サヤ・クロミズ。
剣尾や空尾は高レベルハンターにも匹敵、凌駕する力を持っているが、眼の前の娘の力は違う。
余りに異質過ぎる。腕が……動かない。剣が、抜けない。
ここには何もいない。少なくとも、剣尾が見る限りは。だが、気配だけがあった。それもかなりあやふやな、気配が。
そして、サヤは敵である剣尾に視線すら向けずに小さく呼吸をすると、初めて声を出した。
「ふぅ……危なかった。まさか、本当に……朝に、能力を使えるなんて……」
「ッ……」
だが、まだだ。サヤは油断している。
見誤った。失敗した。能力を使わせるべきじゃなかった。即座に殺すべきだった。腕を封印される前に。ジーンの要望を聞くべきではなかった。
これは――間違いなく、組織ならばボスにもなり得る能力だ。
だが、確かに能力は強力だが、本体は脆弱だ。サヤをとらえた時の話は聞いている。
サヤの呼吸を読む。ほんの僅か、完全にこちらに向けられている意識が途切れたその瞬間に、剣尾は思い切り地面の瓦礫を蹴った。
頭部程もある巨大な瓦礫が狙い違わず高速でサヤに迫る。それとほぼ同時に、剣尾はサヤに向かって駆け出した。
腕はまだ動かない。確かに、剣尾の本質は剣技だが、剣なしで戦えないわけではない。
ここで――確実に仕留める。
一瞬で接近する剣尾に、サヤが初めて反応を見せる。赤く輝く瞳。
「貴女は――何もわかっていない。貴女はさっさと――私を殺すべきだった。私が力を使うその前に」
「ッ!?」
完全に虚をついて蹴ったはずの瓦礫がサヤに到達するぎりぎりでバラバラになる。耳元でさらさらという音が聞こえる。
剣尾の身体が何かにぶつかる。人一人くらいならば容易く殺せる膝蹴りは、その小柄な身体には届かない。
剣尾はそこでようやく気づいた。
剣尾に向けられたサヤの真紅の瞳――そこに、自分以外の何かが映っている。
サヤが小さくため息をつき、囁くような声で言う。
「カイザー、最後くらい仕事しよう」
命令を待っていたカイザーがその場に崩れ落ちる。
いや――あれは、何かが上から押さえつけているのだ。
潰れそうなカイザーの被るその仮面に無数の手の平が浮き上がった。
「初めまして。私はサヤ・クロミズ。《夜宴祭殿》のサヤ。そしてこれが――私の『さらさら』。見えないでしょう? 私の目にははっきり見える、この子達が」
魔女は悪魔との契約で力を得るという。だがこれは、何かを召喚しているわけじゃない。
これは――魔眼だ。
自律思考する悍ましい何かを『認識』し、操る力!
いや、ただ操るわけではない、のか。
操るだったら、サヤは剣尾の命令通り、このさらさらはクラヒを殺したはずなのだ。
現状わかっている事はただ一つ。
この力で、この女は、七日七晩戦わせたのだ。
まさか、このようなレベル8が存在するとは――奇襲とはいえ、空尾と剣尾、二人をまとめて相手するなんて!
カイザーの仮面が引きちぎられ、精神が解放される。
地面に崩れ落ちたカイザーは、しかしすぐに立ち上がると、盛大に舌打ちした。
「クソッ、やれやれ、とんだヘマをしてしまったものだ。まさか、レベル9試験で、このカイザー・ジグルドが、何もできないなんて。まったく、サヤ君がいなければ我が人生最悪の醜態になっていたよ。それとも……ここまでが《千変万化》の計画通りかな?」
この異質な状況を気にする気配もないカイザーに、サヤが呆れたように言う。
「まだ、後始末くらいは残っている」
遠くから、ジーン軍とその他王族の連合軍の戦いの音がする。
空尾が首を絞められ空中に吊り上げられたまま、腕を持ち上げ、手のひらをカイザーに向ける。
取り囲む他の軍勢は完全に気圧され役立たずになっていた。サヤから距離を取り、呼吸を整える。
それまで固まっていたクラヒが雷光を身にまとう。
まだだ、まだ勝負は決したわけではない。
カイザーは肩を竦めると、気を取り直したように笑みを浮かべて言った。
「その通りだ! 全く、その通りだよ、サヤ君! この《破軍天舞》に、恥じる暇などなし! それに実のところ――後始末も大の得意なんだよ。なんたって、十五の国の戦争の後始末をしているからね。本命は《千変万化》にまかせて、最後くらいは踊らせてもらおうか」
ただ夜よりも深い闇の中、耳元ではさらさらという音が響いていた。




