366 仮面の神⑤
あーあ、雨が降ってきちゃったよ。どうしたものかね。
窓の外。どんどん激しさを増す雨足を見て、僕は深々とため息をついた。
身支度を整えている間に降り出した雨は止む気配がなかった。それどころか、遠くから雷鳴のような音まで聞こえる。
さっさとセレンの家に行くはずだったのに、完全に機を逸していた。
ハンターたるもの、雨に降られる事などしょっちゅうだ。僕とて今更濡れる事の一つや二つ拒むつもりはないが、雨が降ると視界も悪くなるし、テンションの低下は止められない。雷が狙ってくるかもしれないし。
やっぱりセレンの所に行かなくてもいいかな……今日のルークの解呪作業はそんな大変な作業ではない。元々僕もセレン達の所に顔出しするつもりはあっても、解呪の作業に同行するつもりはなかった。具体的に役に立てるわけでもないし、顔出しもカットしてしまっても大丈夫だろう。僕が来なくてもシトリーがうまいことなんとかしてくれるはずだ。
………………さすがにまずいかな?
心の内で怠け心と責任感がせめぎ合っていた。今のところは結果はイーブンだ。いや、こうしてだらだら過ごしていればその間にセレン達が解呪を終わらせてくれるんじゃないかとか考えている辺り、怠け心優勢か。
大きく欠伸をしながら窓の外をぼうっと見ていると、僕の目がふとおかしなものを捉えた。
そう……ルークの石像を抱え、カーくんに乗って高速で空を飛ぶティノの姿を。
思わず目を擦るが、見間違いではなかった。ずぶ濡れの状態で必死にカーくんを駆るその姿はどこか鬼気迫っている。
それだけでも意味がわからないのだが、その後ろを、小さな人影が追いかけていた。
幻影が被っていたものとも違う奇妙な仮面に、見覚えのない出で立ち。翼もないのに空を飛び、その速度はカーくんにも決して負けていない。
そして、その後ろを更にアンセムが、リィズが、セレン達が、追いかけていた。
距離があるので詳しくは分からないが、リィズが謎の人影に飛びかかろうとして、見えない壁にぶつかったかのように空中で弾かれる。腕を伸ばし人影を捕まえようとしているアンセムが何かに脚を引っ掛けたのか、盛大に転倒する。地響きがこちらまで伝わってきた。
何をやっているのかわからないが、なんというか…………ちょっと楽しそうだね。ルシアまで参加している。
もしかしてあれは…………本気鬼ごっこかな?
なんでもありの本気鬼ごっこは《嘆きの亡霊》でよく行われていた訓練である(ちなみに鬼にタッチされても鬼にはならないので勝敗の基準は謎)。
飛び交う魔術が大地をえぐり、追いかけているセレン達が何の前触れもなく盛大に吹き飛ばされる。それでもすぐに復帰し走り出すあたり、精霊人もなんだかんだけっこう頑丈だ。
しかし、今日はルークの解呪の予定だったはずなのに、何をやっているんだか……まぁ、今日やらないって言うならそれでもいいけどね。今更、一日くらい遅れてもルークなら大丈夫だろう。
せっかくなのでスマホを取り出し、撮影してみる。
転倒から即座に復帰したアンセムが大地を強く蹴り跳び上がる。アンセムは巨体で体重も相応だが、動きも決して遅くはない。
アンセムがその腕を伸ばし、謎の人影に掴みかかる。他のメンバーと比べて明らかに縮尺のおかしい腕が謎の人影に届きそうになり――そして、アンセムの体がピタリと空中で停止した。
「!?」
謎の人影に対してリィズが、キルキル君が、次から次へと飛びかかり、アンセム同様、空中で固められたように停止する。カーくんに乗って逃げていたティノもいつの間にか動きが止まっていた。精霊人が魔法を、矢を放つが、それも全て空中で止まる。
原理はわからないが、ショーでも見ているような気分だ。雨が降っていて見えづらいのが残念でならないが…………まぁ、もういいかな。
何をやっているのかわからないが、何かあったら僕の方に人が来るだろう。なんだか少し眠くなってきた……もう一眠りしよっと。
大きく伸びをして欠伸をする。そして、スマホをしまおうとしたその時――スマホの画面に映っていた謎の人影がこちらに顔を向けた。
ぽっかり空いた二つの眼窩。随分趣味が悪い仮面だ……精霊人の民芸品だろうか? そんな事を考えたその時――不意に激しい揺れが全身を襲った。
何が起こっているのかわからなかった。
悲鳴をあげる間すらなく、視界が回転し、結界指が発動する。一瞬、完全に身体が宙に浮く。そして、地面に、壁に叩きつけられた。
結界指のおかげでダメージはないが、僕の能力でどうにかなるレベルではない。
気がついた時には、僕は大の字になって倒れていた。
天地がめちゃくちゃになっている。大きく引き裂かれた天井――壁から強い風雨が流れ込んできていた。漆黒の雲の間には瞬くような稲光が見える。
どうやら、家が作られていた大樹が完全に横倒しになったようだ。家がここまでふっとばされるのは地味に初体験かもしれない。
ちょっと飛行船が落ちた時と似た感じだったな。しかし、一体何がどうしてどうなったのか。雷が落ちた? いや……そんな感じではないな。地震かな?
部屋の中は確認するまでもなくめちゃくちゃだ。だが、幸いあんな状況でも、スマホはしっかり手に握られていた。
家にいたのは僕とみみっくんだけだ。みみっくんは相当頑丈だし、心配いらないだろう。
追加の揺れはないようだ。なんとか立ち上がり、頭を振る。
部屋は本当に酷い有様だった。テーブルも椅子もベッドもお皿も何もかもひっくり返され、ばらまかれている。
ユグドラの騒動も収束してもう何もないと思っていたのに――一体僕が何をやったって言うんだよ。
眉を顰めていると、ふと頭上から押し殺したような声が降ってきた。
「クライ・アンドリヒ。遊んでいないでさっさとお前の仲間を止めろ」
え……?
引き裂かれた天井。その縁で、ティノを追いかけていた奇妙な仮面をつけた謎の人が腕を組み、こちらを見下ろしていた。
骨ばった手足に、眼窩から覗く得体のしれない眼光。長身の多い精霊人にしては随分と小柄だ。もしかしたら、子どもなのかもしれない。
格好もユグドラの戦士とは随分違う。品がないというか、蛮族的と言うか……。
状況が把握出来ず、しばらく瞬きをしていると、謎の子どもがゆっくりとまるで言い聞かせるかのように言う。
「お前の仲間は、理解し難いッ! だが、いい。お前が、話を通していなかったのも、全て許す。お前の仲間は、確かに、そこそこやる。だが、これ以上、この我を、苛立たせるな」
どうやら、この人は僕の事を知っているらしい。困ったな…………まるで見覚えがないぞ。
けっこう強烈な見た目だ、さすがに会ったことがあるなら忘れたりはしないと思うのだが…………もしかして、黒き世界樹に乗っている間に助けた人かな?
「?? 何を黙っている、クライ・アンドリヒ。聞いているのか!? さっさと、あの馬鹿共を、黙らせろッ! 契約が果たせん」
小柄な身体から放たれる、僕でもはっきりわかるレベルの凄まじいプレッシャー。ちょっと尋常ではない。子どもに見えるからって油断はできない。
なんとかして機嫌をとらないと……しかし、僕には名前もわからない。
「ま、まあまあ、落ち着いて。聞いてるよ。えっと……」
それで…………君は、誰? 契約って何? 誰か説明しておくれよ……。
「如何にこの時代の英雄でも――愚鈍な信徒など不要。試そうと考えているならば、無駄な考えは捨てよ。人間に我は――…………あ?」
と、そこまで言ったところで、謎の子どもは言葉を止めた。
プレッシャーが消える。状況がわかっていない僕をじっと見下ろす謎の子ども。
見れば見るほど精霊人らしくない格好だ。だがユグドラに僕達以外の人間はいないはず――なんたって前人未到の地なのだから。
しばらく何も言わずに見つめ合う。とりあえず笑みを浮かべ友好を示す僕に、謎の子どもが絞り出すような声で言った。
「ま、さ……か…………貴様、何も、覚えていないのかッ?」
あ、バレた。
まずい。経験でわかる。この人、かなり怒っている。
この消失したプレッシャーは嵐の前の静けさだ。ぷるぷると震える肩――どうやら僕はかなり重要な何かを忘れているらしい。
いや、まだだ。まだ諦めちゃダメだ。確かに僕は何も覚えていない。インパクトが強烈なので覚えてないも何も人違いではと思わなくもないが……まぁ、人違いではないんだろうな。なんたって名指しされてるし。
だが、失敗は挽回できるはずだ。
僕は大きく深呼吸すると、恐る恐る言った。
「も、もしかしたら……言ってくれたら、思い出すかも」
「あ、ありえん…………脳に直接流し込んだのだぞ? 信者にもあそこまで強く働きかけたことは、ない。確かにッ、確かに…………ありえないレベルの、受信の弱さではあったが…………契約を、覚えていない、だとッ!? なんったるッ、愚鈍ッ!! 貴様、それでも英雄かッ!?」
「…………英雄だなんて、言った記憶ないし」
契約? 脳に直接流し込んだ? なんだかめちゃくちゃ言っているが、そもそも契約ってのはそんな、口頭で交わされるものではないはずだ。
少なくとも、うちのクランでは契約は書面で交わすことになっている。そうですね……僕がすぐに忘れるからですね。
がたがたと、床が――倒壊した家屋全体が震えていた。まるで謎の子どもの怒りが伝わっているかのように。
一体何者なのだろうか?
だが、このままではダメだ。代替案を出すのだ。
僕が一体、謎の子どもとどんな契約を交わしたのかは知らないが、結んだ契約を無視するつもりなど毛頭ない。
僕は咳払いをすると、持っていたスマホを持ち上げて言った。
「だ、大丈夫だよ。覚えていなかったのは申し訳ないけど、もう一度改めて契約を交わせば良いんだ。そうだろ?」
スマホには録音機能がある。それを使えば、二度と契約を忘れたりなどしないはずだ。
降り注ぐ雨に、強い風。時折瞬く稲光。すでに天候は嵐と言っても過言ではなかった。凄まじい轟音と光が脳を揺らす。どうやら近くに雷が落ちたらしい。
謎の子どもが指をくいと動かす。手に持っていたスマホが、不意にかかった力にすっぽ抜ける。スマホは宙を滑るように奔ると、謎の子どもの手に収まる。
押しつぶされるような激しいプレッシャーが復活した。雨風も気にならない。
その怒りに、世界が震えていた。謎の子どもはスマホをギュッと握りしめると、吐き捨てるように言った。
「もう良い。覚えていないのならば――二度と、貴様と契約を結ぶつもりはないッ!」
そんな――なんで!?
反論する間もなく、謎の子どもが叫ぶ。
「むしろ、清々したわッ! 貴様のような人間と関わるのはうんざりだッ! もはや、愚弄だッ! 我が、この、ケラーが、貴様のためにどれほどの力を使ったか、わかるかッ!? 自らの神殿を食らってまで、早期復活を試みた理由が貴様だなどッ! 恥だッ! もはや、一切が度し難いッ!」
「ッ!! あ……あぁ…………君、ケラーか……」
「あ……あ…………ああああああああああああああああああッ!!」
ケラー。それは、【源神殿】の最奥に存在するという神の名前。
さすがの僕も覚えていた。なるほど、どうやら僕が気づいていなかっただけでユグドラでの事件はまだ収束していなかったらしい。なんでさ……宝物殿の弱化は成功したって言ってたじゃん。
という事はあの鬼ごっこも鬼ごっこじゃなかったのか……いつもとあまり変わらなかったから気が付かなかった。
神の幻影など僕の手に負えるはずがない。言葉は通じるようだが、もうかなり怒らせてしまっている。
「お、落ち着いてよ、ケラー。ほら、謝るから……そ、そうだ! その、良かったらなんだけど、許してくれたらそのスマホあげ…………あげ…………いや、なんでもない」
「もう、何も言うな。その声が耳に入っただけで虫唾が奔るわッ!!」
「そ、そんな怒らないでッ! 大体、脳に直接流し込んだって言ったけどそれって本当!? ちゃんと僕、契約結ぶって言った!?」
「言ったわッ!!!!!!」
スマホを握りしめ、怒り心頭のケラー。仮面で表情はわからないが、その声が、その眼窩から漏れる眼光が、激情を示していた。
ケラーの眼の前の空間が歪む。叩きつけるような雨風を巻き込み、空気が渦巻く。なんだかよくわからないが、攻撃してくるつもりだ。
僕は大きく深呼吸をすると、ハードボイルドな笑みを浮かべた。
受けるしかない。攻撃を受け、ケラーがそれで溜飲を下げて少しでも冷静に戻るのに賭けるのだ。結界指は残っているのでまだ数撃は受けられる。
「仕方ない、一発殴らせてあげるよ。でも、それが終わったらもう一度話し合おう。ちょっとした誤解なんだ。後、スマホ返して」
「ふ……くく…………面白い事を言うッ! とでも、言うと思ったかッ! もうお前の話を聞くつもりはないッ!!」
く…………ダメか。そもそも話を聞いてくれたとしても交渉が成功する可能性はかなり低いだろう。
【迷い宿】の時はいつの間にかなんとかなっていたのに……これが本物の神の幻影、か――。
新たなる策を考える間もなく、ケラーが大きく腕を振りかぶる。いつの間にか空気の歪みは鋭い槍と化していた。
炎でも、雷でもない、不可思議な力で作られた槍。触れればどうなるか、想像すらつかない。まあ、結界指は貫通しないだろうし、結界指なしならどんな攻撃食らっても死ぬから僕にとっては普通の攻撃とあまり変わらないけど――。
一応、身を低くして構えを取る。だが、ただのパフォーマンスだ。僕に回避の余地はない。回避しようとして転んで結界指を無駄に消費するくらいなら潔く受けたほうがマシだ。
息を止め、攻撃の時を待つ。その時だった。
視界が光で満ち、地面が爆ぜた。雷が落ちたのだ。それだけならば不運の一言で済ませられる事象だったが、今回はそれだけでは終わらなかった。
脳みそが状況を理解する前に、すぐ目の前から声がした。ケラーのものとは異なる、しかし同じくらい苛立った声。
「我慢のッ、限界ッ。スマホをッ返してもらうッ」
戻った視界がケラーのものとは異なる仮面を捉える。
白い狐の仮面。白い着物に、白い髪。顔をあわせるのは久方ぶりな、【源神殿】に祀られていたものとは異なる神の眷属。
とっさに声をあげる。
「……そこにいると危ないよ?」
「ッ!?」
ケラーは攻撃を放つ寸前だったのだ。タイミングは最悪だ。妹狐が慌てたように後ろを見る。
そして、正体不明の力の奔流が、唐突に現れた妹狐ごと、僕を呑み込んだ。
まだだ・・・まだ十巻は発売していませんッ!
十巻発売日は5/30です!
/槻影
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