345 枯らす者②
セレンがやったのは、ただクライから手渡された派手な柄のシャツを着る事だけだった。
それはまるで奇跡のような効果だった。
視界が開けたような感覚。世界が変わった。まるで重い鎧でも脱ぎ捨てたかのように全身が軽くなった。
いや、正確に言えば軽くなったわけではない。恐らくこれは――これまで感じていた重圧が全てなくなったのだ。
『快適な休暇』。
そのシャツはそのニンゲン曰く、持ち主を快適にするというただそれだけの宝具らしい。
だが、セレンにとってその変化はあまりにも衝撃的だった。
常に脳の片隅にあった現状に対する悩みも、世界の危機を前にほとんど寝ずに対応した事で蓄積していたストレスも、何もかもが溶けてなくなり、そこでようやくセレンは最近の自分がどれほど気を張っていたのか自覚した。
快楽と表現するに相応しい心地よさの次に押し寄せてきたのは強い眠気だ。
宝具が提供してくれるのは快適さであり、疲労そのものを消す効果はないという事だろう。
普段のセレンならばそれらの衝動を押し殺し、活動していただろう。世界の危機を前に休んでいる暇などないと考えていたはずだ。だが、今のセレンの考えは変わっていた。
プレッシャーがなくなれば心境も変わる。極度の緊張で回っていなかった頭も冷静に回り始める。
ぼーっとしていると、ノックの音がして扉が開く。部屋に入ってきたクライは椅子にだらりと座り込むセレンを見て瞠目した。
「おー、随分快適そうだね。別人みたいだ……僕が初めて着た時はそこまで変わらなかったけどなあ」
「渡された時は何かと思いましたが……貴方が私にこの宝具を渡した理由がわかりました」
人間が着ていた宝具だ。セレンもそれを借りるのに多少の葛藤はあったが、今では言うことを聞いて着てよかったと思える。
張り詰めた状態では脳も正常に働かない。精神は肉体にも影響を及ぼす。きっと、抗いがたい眠気は肉体が眠りを欲していた証だ。
動きたくない。ただこの安らぎの中に身を委ねたい。そんな感覚にセレンは小さく息を吐いた。
「この宝具を着ていると……全ての事が些細に思えます…………世界樹の暴走も」
「うんうん、そうだね…………え?」
クライがおかしなものでもみるような目でセレンを見る。
セレンは宝具の力を借り、全ての柵から解き放たれた事で悟りに至った。
「世界樹の暴走は必定、自然の流れ、自然と共に生きて死ぬ事を信条とする我々精霊人がそれを止めようなど、元々、おこがましい話だったのです。そもそも、恐怖など感じる必要はなかったのです。全力を尽くしてどうにもならなかった以上、我々は滅びの運命に身を委ねるべきだった。後百年、世界に感謝し安らかに過ごすことだけが私達に残された道ではないでしょうか」
そもそも、世界の法則を前に精霊人ができることはなかった。たとえ今止める事ができても、次はどうなるのかわからない。
ユグドラの守護精霊、ミレスはマナ・マテリアルに侵され、暴走してセレンに牙を剥いた。それもまた、神の意志だったのかもしれない。
セレンの言葉を聞き、クライは目を瞬かせ首を傾げる。
「いくらなんでも意見変えすぎじゃ……いや、まあ百年後の話ではあるけど――ちょっと待った。それなら石化したルークはどうするのさ?」
「………………」
「なんか言って?」
完全に忘れていた。もちろん、セレンもルークの石化解除には全力を尽くしたが、それは世界樹の暴走解決の過程に過ぎない。
冷たい空気を大きく吸い込み、慰めるように言う。
「…………まぁ、長い人生そういう事もありますよ」
「……人間の寿命は精霊人程長くないけど」
「なんだか今、すごく眠いんです。後で考えましょう」
「…………宝具に欠陥がある可能性が出てきたな。僕はなんともなかったんだけど――もう脱いでくれる?」
この宝具を、快適さを…………捨てる?
その言葉に、セレンは半開きだった瞼を開き、まじまじとクライを見た。
もともと宝具はクライから受け取ったものだ。返すのは当然だが、まだ着たばかりだ。
「…………脱がせられるものなら脱がせてみなさい…………ただし、私に触れたら呪われますよ」
まだ蓄積したストレスの影響は消えていない。この目の前の人間がセレンの体調を慮って宝具を貸したのならば、目的を達していないはずだ。
頭の中でそんな言い訳をしながら椅子にしがみつくセレンに、クライは困ったように眉根を寄せていたが、何か思いついたように懐から板を取り出した。
かしゃかしゃと不思議な音がする。
「? なんの音ですか?」
「いや…………後でラピス達に見せようと思って」
何の話だろうか? 少し気になったが、もう考えるのも億劫だ。今はただこの心地よさに身を委ねたい。
情けない姿を見せてしまっている事は自覚している。だが、もう精霊人の誇りなどどうでもいい。こんなにも――快適なのだから。
椅子に全身を預け、ただ視線だけを向けるセレンに、クライがぽりぽりと頬を掻いて言う。
「そういえば最初にシトリーの家に招待された時の僕もこんな感じになってたなあ……まさか『快適な休暇』に弱点があるとは……」
いや……この宝具は完璧だ。借り物である以上いずれは返さなくてはならないのはわかっているが、できる限り引き伸ばしたい。
暑くもなく寒くもない。一切の苦痛はなく、ここしばらくセレンを苛んでいたマナ・マテリアルの過剰蓄積による影響も、世界樹から伝わってきていた得体の知れない気配も、セレンの精神を悩ませるものの全てがシャットアウトされている。今ならばあの宝物殿内部でも快適に過ごせるに違いない。
と、その時、ふと遠くから激しい音が聞こえた。細かな揺れが部屋を襲う。
音の遠さ的にユグドラの内部か……どうやら、何かが起こったらしい。セレンの精霊人特有の優れた感覚器は強力な魔術が使われた気配を察知している。
ユグドラの結界が発動した様子はなかったが、敵襲だろうか?
マナ・マテリアルが蓄積してからユグドラの外の森は魔境と化していたが、内部まで入り込まれるのは初めてだった。
ユグドラの結界は神樹廻道同様地脈からの力を利用して張ったものであり、あらゆる外敵を寄せ付けないはずだ。それを、(力づくで突破するのならばともかく)セレンに知られることなくすり抜けるとは――神クラスの力があっても困難だろう。
現時点での襲撃は予想外だったのか、クライもきょろきょろと頻りに周囲を窺っている。
「どうやら……異常事態が起きたようですね。まさかユグドラの結界が突破されるなんて。何が起こったのか皆目見当もつかないです」
どうしようもない事だ。セレンがこれまでユグドラを維持できたのは仲間の助けがあっての事、所詮ユグドラの皇女などと言ってもセレンは神算鬼謀でもなんでもない、一人の精霊人でしかないのだから。
「それってやばいんじゃ…………でも随分余裕そうだね?」
「……今更じたばたしても仕方ないですからね。この服を着る前なら大騒ぎしていたでしょうが……」
ストレスから解き放たれたセレンに怖いものなどない。この快適さを失う事すら怖くないのだ。
しがみついていた椅子からずり落ちそのまま床に転がっていると、クライがため息をついて聞いてきた。
「まったく……まさかこんなにひどい状態になるなんて。で、どうするの?」
「? どうする、とはなんですか?」
「どうするとはなんですかって…………何か起こったんでしょ? 確認しないと」
確かに…………確かに、この目の前のニンゲンの言う通りだ。
セレンはユグドラの皇女、セレンの双肩にはユグドラの未来がかかっている。この型破りな言動でさんざんセレン達を振り回してきたニンゲンに言われるのは癪だが――。
セレンは眠気に耐えながらとろんとした目つきでクライを見ていたが、
「…………はぁ…………そうですね。私に何かできるとは思えませんが…………そうだ、ニンゲン。貴方がなんとかしなさい。ユグドラの全権を貴方に授けましょう。ユグドラの民の命令権も周囲の土地や術式も全て預けます。これはユグドラの長い歴史でも前代未聞ですよ」
「!???」
いいアイディアだ。セレンはユグドラの皇女として精霊人屈指の能力を持っているが、経験が足りていない。翻って、クライは脆弱なニンゲンだがこれまでその脆弱な身で数々の修羅場を潜ってきたという経験がある。
同じ精霊人である《星の聖雷》の信頼も厚いようだし、既に協力する事は決めているのだ。全ての権限を押し付けて――与えてしまっても何も変わらないだろう。
こうしている間も、揺れは断続的に発生していた。相当激しい戦いが繰り広げられているのだろうか、強い魔力の乱れが伝わってくる。これは高位の魔導師同士が戦っている証だ。
魔力の気配からして一人はクライの仲間――ルシアだろう。もう一つの気配は――覚えがあるようなないような、不思議な感じだ。こちらが敵だろうか?
一つわかっている事があるとするのならば、魔導師同士の戦いはそう長くは続かないという事だ。
「早く行かないと手遅れになりますよ…………まぁ、滅びるのが早いか遅いかの違いだけですが」
「そんな事言われても…………僕にできることなんてないし。仕方ないな…………」
何をするつもりだろうか。ふわふわするような心地よさに身を委ねながら観察するセレンの目の前で、クライはみみっくんの中から一振りの剣を取り出した。
宝剣と呼ぶに相応しい美しい剣だ。鞘から引き抜いたその剣身は驚くべきことに透明で、その武器が普通の武器でない事を主張していた。
「私を脅すつもりですか? 無駄です。全然怖くありません」
「いや……精霊人は人よりも軽いけど運ぶのは結構大変でね…………まったく、なんで僕がこんな事を…………危機感がないってのはこの事か」
クライは剣を鞘に収め腰にくくりつけると、セレンの身体の下に手を差し込み軽々と担ぎ上げた。
§ § §
なんか最近、精霊人を背負う事多いなあ。
心の中で愚痴りながら音の方に向かって歩く。『快適な休暇』の力に当てられてしまったセレンは背負われても何も文句を言わなかった。
精霊人は人間と比べて軽い。軽いが、それでも大きさは人間大なのだから、相応の重さはある。貧弱な僕がセレンを軽々背負って運べるのも、重量操作の力を持つ剣型宝具――『静寂の星』のおかげだ。
セレンの身体は華奢だ。肌は少しひんやりとしていて歩いていると垂れ下がった髪が頬をくすぐってくる。
羽のように軽い身体を背負っていると、なんだかおかしな気分だった。そもそもこうして人を背負って戦場に連れていくなど本来僕の仕事ではない。
セレンが背負われながら、小さく耳元でため息をついて言う。
「…………ニンゲン、貴方はどうしてそんなに戦いたいのですか? 精霊人の皇女たる私がもういいと言っているのに」
誰が戦いたいって?
思わず鼻で笑ってしまう。このユグドラに来てから僕が戦いたかったタイミングなんて一秒も存在しない。
こうしてセレンを背負って戦場に行くのも、仕方なくだ。僕にはセレンに快適な休暇を着せてしまったという罪がある。僕は宝具を使っても何も変わらなかったのに、まさか普段真面目な人が使うとこんなにダメになるとは、完全に予想外だった。
今のセレンを見たらラピス達になんと言われるか、考えただけでお腹が痛くなりそうだ。
だが、まだ勝ちの目はある。『快適な休暇』はただ装備した者を快適にするだけであって、本人の人格に作用するような宝具ではないのだ。
きっと、敵を前にすればセレンも元に戻るはずだ。戻ると思う。戻ったらいいなあ。
僕はセレンのあまりに的外れな問いかけにハードボイルドな笑みを浮かべて答えた。
「そりゃもちろん…………僕がハンターだからだ。理由なんてそれだけで十分さ」
ちなみに、言うまでもない事だが僕は敵を前にしても何もできない。今の僕は快適ですらない、ただの一人の無能である。
戦いの音は今も尚響き続けていた。何が起こっているのかわからないが、敵が侵入してきてリィズ達が黙っているわけがないので戦い続けているのだろう。
「それに、さっき何もできないって言っていたけど、セレンにもできることはあるよ」
「…………」
何しろ、魔導師としての資質の高さで知られる精霊人の、おまけに皇女である。ただのヨワノウブルのラピス達でもゼブルディアで名を轟かしているのだから、ツヨノウブルがどれほど強いのか想像もつかない。
まあルークの呪いは解けなかったみたいだけど……。
黙ってしまったセレンを背負い、ただ音のする方向に進む。しばらく歩いていくと、僕の五感でも戦闘の余波を感じられるようになってきた。
冷たい風。びりびりとした振動。僕の鈍い感覚では魔力は感じられないが…………これはさては、激戦だな?
ルシアの姿が見えたところで足を止める。ユグドラの中心部で、巨大な水の龍と漆黒の龍がぶつかり合っていた。
水の龍はルシアの魔法だろう。漆黒の龍は敵の攻撃だろうか? 相変わらず近接職同士の戦いとはまた違った、派手な戦いだ。
大きく旋回して襲いかかる水の龍に漆黒の龍が絡みつき、みるみる黒に侵食される。それを真上から発生した光の柱が貫き、爆発した。
水の龍の破片が雨となって僕のところまで降り注ぐ、どうやらあまり優勢ではなさそうだ。
と、そこで、背負っていたセレンが小さな声をあげた。
「あ……あれは………………もしかして、フィニスの枯渇? どうして、フィニスが――」
「知ってるの?」
もしかしてユグドラの周辺に生息している幻獣か何かだろうか?
情報があるなら弱点も知っているはずだ。期待を込めて確認する僕に、セレンはゆっくりとしたトーンで言った。
「…………はい。知り合いというか、あれはユグドラの守護精霊の一柱――生命の終わりを司る『終焉』のフィニスの権能です。同志と一緒に宝物殿に挑んでそれっきりだったのですが…………」
!? けっこう重要そうな事をまたのんびりと…………快適な休暇は封印だな。




