335 嘆きの亡霊は引退したい⑧?
――こうして、僕達は窮地を脱してユグドラまで撤退した。
ひっそりと、しかし可能な限りの早足で、ひときわ巨大な樹の上に作られたセレンの家までたどり着き、ようやく一息つく。
新生アドラー軍に【源神殿】に発生した仮面の幻影達。双方ともが間違いなく、高レベルハンターでも容易く相手をする事などできない、恐るべき相手だ。
何か一つでもボタンの掛け違いが発生していたらこちらからも死者が出ていたはずだ。まさしく、薄氷を踏むような戦いだったと言えよう。
「やれやれ、今回ばかりはもう終わりかと思ったよ」
額を腕で拭う。快適だったおかげで汗はかいていなかった。
だが、快適な状態でもはっきりやばいとわかる状況だったのだ。もしも快適じゃなかったらとても平静ではいられなかったかもしれない。
と、ほっと一息をつく僕に、一緒についてきたクリュスが甲高い声で言った。
「こら、ヨワニンゲンッ! 何全てを終わらせた雰囲気出しているんだ、です! 全く何も解決していないだろ、です!」
「目的だった解呪も行えていません。乱入者があったのは予想外でしたし、助かったことは間違いないですが――」
クリュスの言葉に、セレンも戸惑いがちに言う。
うんうん、そうだね。僕も予想外だったよ。そして、クリュスの言葉も正鵠を射ている。何も……解決していない。
ラピスが僕に冷ややかな(いつも通りである事は言うまでもない)視線を向けて言う。
「賊共と接触もせずに誘導したのはさすがだ。ふん……相手を警戒させただけかもしれないが、な」
「ラピス、クーにはクーの考えがある…………かもしれない」
「エリザはヨワニンゲンに甘すぎだ、です! そもそも、考えがないわけないだろ、です! ラピスは考えがある前提でああいう策を取ったことに文句を言っているんだ、です!」
考えなんてないよ。そもそも、策ですらない。あれは全て偶然が招いた結果だ。
アドラー達がやってこなかったら成すすべもなく死んでいた可能性もあるのであれが不運かどうかは判断が難しいところではあるけど……。
「だ、大丈夫だよ! 《千鬼夜行》なら全ての幻影を倒してくれるはずさ!」
「…………ヨワニンゲン、オマエ敵味方見境ないんだな……全てって、神殿型宝物殿が発生するほどマナ・マテリアルの濃い場所で幻影が尽きるわけがないだろ、です!」
いや…………そういうわけじゃないんだけど、確かにその通りだ。
一時的に全滅させたとしても幻影は宝物殿が健在である限りほぼ無限に発生する。今回の相手が容易く屠れる相手ではない以上、全滅させるのは不可能に近い。
ルークを救うにはなんとか隙を見つけるしかないのだ。今回も一応隙をついたつもりだったんだけどな……。
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けると、疲れ切っている皆をぐるりと見回し、努めて明るい声で言う。
「まあ落ち着いてよ。とにかく、経緯はどうあれ、《千鬼夜行》が幻影を減らしてくれる事に変わりはないんだ。今回は少し間が悪かっただけさ」
「今回は? いつもの、の間違いだろ、です」
ごもっともだな。さて、どうしたものか……。
皆、顔色はあまりよくなかった。ラピス達も危うく挟撃を受けるところだったのだから致し方ないだろう。
だが、《千鬼夜行》がこちらを追ってきた事で敵が二組になってしまったが、冷静に考えれば悪い話ではない。
敵の敵は味方ではないのだ。こちらの目的は《千鬼夜行》の撲滅でも【源神殿】の攻略でもないのだ。なんとか状況をコントロールすればルークを解呪するだけの時間を稼ぐ事くらいはできるはずだ。
今こそ目覚めよ、僕の神算鬼謀!!
「エリザ、悪いんだけど、《千鬼夜行》と幻影達の戦いの結果を確認したい。後でまた偵察をお願いできるかな?」
あれほどの数の幻影が現れたのだ。いくらマナ・マテリアルの蓄積速度が早いなどと言っても、次の顕現が出現するまで少しだけ時間がかかるだろう。
脱出する直前に見た感じではアドラー軍は幻影軍相手にかなり善戦しているように見えた。今回だってもうちょっと宝物殿を訪れるのが早ければルークの解呪は間に合っていたんだし、空白の時間ができる可能性はそれなりに高い……はず。
腕を組み、ない頭を必死に回転させながらハードボイルドな笑みを浮かべる僕を見て、エリザは、こくりと大きく頷いてくれた。
§
神樹廻道最奥部。不意に空間に黒色の金属の刃が飛び出し、大きく宙を切り裂くように動く。
発生した空間の裂け目から、ユデンの首が這い出る。胸部から下は何もなく、背には半死半生のアドラーとクイントを乗せていた。
最後にウーノが息も絶え絶え裂け目から下ると、大きな鋏を持った人形が飛び出し、殿を努めたカード兵一体がよろよろと這い出すと、亀裂が静かに閉じる。
「はぁ、はぁ……死ぬかと、思いました……」
まだ心臓が激しく鼓動していた。ウーノ・シルバの従魔――リッパーは空間を操作する極めて稀有な力を持つ聖霊だ。ウーノの人形に宿ったその聖霊はウーノの従える唯一の魔物であり、いざという時の《千鬼夜行》の生命線でもある。
だが、敗走で使うのも、こんなに連続でその力を行使するのも初めてだ。
ユデンの首から崩れ落ちるようにアドラーとクイントが仰向けに倒れ込む。
防御に専念していたウーノはまだいいが、二人は自らも戦闘に参加したのだ、それだけ消耗も激しかったのだろう。
神樹廻道で苦労して作り出した新生アドラー軍も壊滅的な被害を受けている。だが、導手が全員生きているというだけでも奇跡のようなものだ。
槍を投げ出し、血と汗でぐしょぐしょに汚れたアドラーが、疲れ果てたように言う。
「相打ちか…………勝てると思ったんだがね」
「ちょっと強すぎましたねー、まさかマナ・マテリアルであんなに強化された星喰百足や神樹廻道の魔物達でも勝てないなんて――あれ、外の世界だったら、しばらく無敗でしたよー」
「つよすぎんだろッ! 乱戦だったとは言え、ゾークが殺されるなんて。幻影の方がつええのか?」
クイントが吐き捨てるように言う。言葉こそ気丈だが、顔色は真っ青だった。
ゾークは従えて以来クイントの片腕だった魔物だ。手に入れたばかりの兵隊を皆殺しにされた事よりもそちらのショックも大きいのだろう。
最初は拮抗しているように見えた。確かにアドラーが神樹廻道で手に入れた魔物達はあの幻影軍に匹敵する力を持っていた。
問題は、先頭に立ったあの赤き鎧の騎士の幻影だ。その戦いっぷりを思い出したのか、アドラーが身を震わせる。
明らかにただの幻影ではなかった。他の幻影もアドラー達がこれまで戦った中ではトップクラスの力を持っていたが、格が違う。
「ありゃ相当名の知れた古代の騎士の幻影だね。超高濃度のマナ・マテリアルの力で過剰再現されてる…………悪夢の顕現だねえ」
その声には恐れと興奮が入り混じっていた。
従えたばかりの強力な幻獣・魔獣が一方的に殺された。魔物の群れは数も重要だが、一騎当千の個体は更に重要だ。相手の群れを被害なく減らせればこちらの群れが優勢になる。
星喰百足ユデンやダーク・サイクロプス、ゾークも一騎当千となりうる魔物だが、ユデンもゾークも一対一と言うよりは軍勢相手に真価を発揮する魔物だ。今までそれで困った事もなかったが、甘かったという事だろう。
なんとか数の力で押しつぶす事ができたが、ユデンは首から下を失ったしゾークは戦死してしまった。
神樹廻道で一週間もの時間を掛けて仕込んだ新たなる魔軍も、クイントが面白がって交渉したカードの兵隊、一体しか残っていない。結果だけ考えるなら、戦力は壊滅的だ。
アドラーが目元を腕で覆い、悔しげに言う。
「後少し……後少しだったんだよ。後一体でも魔物が残っていれば、《千変万化》の余裕を崩せた」
「幻影と違って魔物は有限ですからねー…………探す手間もありませんし」
《千変万化》は自らの軍と《千鬼夜行》の衝突を見ても目を僅かに見開くのみでその表情には焦りの一つも浮かんでいなかった。それどころか、気がついたら戦場からいなくなっていた。
それが自信によるものなのか、幻影など簡単に補充できるとでも思っているのか、あるいは戦いそのものに興味がない故なのかはわからない。
だが、ウーノ達がその眼中になかった事だけは確かだろう。
大きく息を吸い、リッパーが持っている鋏を確認する。空間を切り裂いた鋏は真っ赤に輝き罅が入っていた。
リッパーの能力は強力だが連続で使えるものではない。使えて後一回か、二回だろう。
「アドラー様、どうします? リッパーは多分後一回くらいしか使えませんが」
一度鋏が砕ければ再生するまで時間がかかる。それはもう一度窮地に陥ったら次は逃げられない事を意味していた。
結果はどうあれ、今回の激突で全力を出し切ったのだ。ウーノの問いに、アドラーは仰向けに転がったまま、隣のユデンを見る。
ユデンは身体の大半を失っても平然と生きていた。時間さえあれば再生し再び戦えるようになるだろう。
「そうだねえ………さすがにこれ以上戦うのは危険、か。幻影まで従えるんだ、あの男は。あんな導手が存在するなんて、考えもしなかった」
ウーノ達でも幻影を従える事はできない……というよりも、そんな発想自体、出てこなかった。幻影と魔物は似て非なるものなのだ。
珍しく反省した様子のアドラーに、クイントが意外そうな表情をする。
アドラーはしばらく目を瞑り何かを考えていたが、覚悟を決めたように大きく頷くと信じられない事を言った。
「よし、決めたよ。新たなる力の可能性を知ることができたんだ。この際、《千変万化》に頼んで幻影の従え方を教えてもらおうじゃないか!」
「マジで? 戦ったばっかの相手だぞ!?」
「鉄は熱いうちに打てと言うだろう? 何よりここには、我が魔軍にふさわしい強力な幻影がいるようだ。なにあの男はきっと頼みに行っても気にしないと思うよ」
確かに、ほぼ無尽蔵に顕現する幻影を率いる事ができればそれこそ無敵だ。少し考えただけでも問題は何点も発生するが、《千鬼夜行》にとって大きな力となるだろう。うまく行けば。
肩を竦め言い切るアドラーに、クイントは数秒目を瞬かせていたが、
「…………確かに、そうだな。ゾークを破った幻影を従える事ができればゾークも報われる、か」
まさか…………最後のリッパーをそれに使えと?
嫌な予感に慄くウーノの前で、アドラーが眉を顰めて続ける。
「それに…………あの騎士は、ユデンに噛みちぎられる寸前に、確かに言っていた。たとえ自分が滅ぼうが神の復活は止められない、と。あの幻影には先がある。それを先に見つけ調伏することができれば――神の力が加われば、我が軍勢は無敵だ!」
「お…………おお! やろう、アドラー! 俺達ならできる! 弔い合戦だ」
神の幻影。確かに……確かに、うまく行けばこの上ない戦力増強になるだろう。だが、どうして倒すだけでも伝説となれる神の幻影を従える事ができると思えるのか。ウーノ達は幻影の従え方すら知らないというのに。
熱のこもった様子で話すアドラーと早速流されているクイントに、ウーノは慌てて叫び声をあげた。
「いい加減にしてください! 私は絶対に行きませんよー!」




