325 ユグドラ
「けほっ、けほっ…………あ、あぁ……」
捕らわれていた精霊人が咳き込み、掠れたうめき声をあげる。
細身で華奢な身体。後ろで結ばれた薄い緑がかった長い髪に、同じ色の瞳。輝くような白い肌は人間の考える精霊人のイメージそのものだ。髪の隙間からはぴんと尖った耳が露出していたが、その人並み外れて整った容貌はたとえ耳の特徴がなくても彼女の種族が人間ではない事を物語っている。
そして、少し期待していたのだが、その顔は僕が導を渡してしまった人とは全く違っていた。身長も違うし、声も違う。あれは一体誰だったんだ……。
ルシアが何かに気づいたように目を僅かに見開く。だが、ルシアが話し出す前に、ラピスが感心したように言った。
「その体内から感じる連綿と循環する強い魔力。そしてその目の色――自然と共に生き世界の秩序を保つユグドラの民か」
え? そういうのって見てわかるものなの? 薄緑の髪と目がユグドラの民の証?
周りをそっと確認するが、誰も異を唱えていなかった。ティノなんか、ほうっと感嘆のため息まで漏らしている。
「体内に、地脈に流れる力と同質の力を感じます。しかも、一切の淀みがない。ラピス達の力も人間とは一線を画していましたが、まさかその上があるなんて――」
「静の魔力の極致だ。自然と同化し力を磨く事でようやく到達し得る――ルシアとは正反対の力よ。私もこれほど静かな魔力は見た事がないが――この域に達するとむしろその存在は生物よりも精霊に近いだろうな」
眉を顰めるルシアに、ラピスも感心したように補足する。僕もいつか魔力が見えるようになる宝具を手に入れてそういう格好良い事を言ってみたいものだ。
そこで、エリザがユグドラの民の前に出る。
そして、喉の奥に精霊でも入ったのか、頻りに咳き込むユグドラの民に手を差し伸べながら言った。
「彼女は恐らく……案内人。表で待ち合わせる予定だった……あの精霊は世界に破滅が近付いていると、言っていた。一体、ユグドラで何が起こったの?」
へー……世界の破滅とはまた物騒な――世界の破滅?
思わず顔を顰めそうになり、なんとかポーカーフェイスを保つ。
俄然、ユグドラに行きたくなくなってきた。ルークも何もこんなタイミングで石化しなくてもいいのに…………ちょっとした頼みなら聞くのもやぶさかではないが、これは明らかにアーク案件だよ。
みみっくんの中に引きこもってここでお留守番していたいが、みみっくんの中には精霊がいる。詰んでいた。
「けほっ、けほっ…………ッ!」
表に出さずに動揺していると、ようやく落ち着いたのかユグドラの民がこちらを見上げた。
目と目が合う。薄緑の瞳は正面から見ると心の奥底まで見通せそうなくらい透き通っていた。あの球体の精霊よりもずっと神秘的だ。
その目が戸惑ったように周囲を確認し、桜色の唇が小さく開く。
「貴方がたは…………そうか。外から来ると言っていた――そうだ! ミレスは!?」
「あの精霊なら無事。意識を取り戻して、安全な場所に待避している。簡単な事情は精霊が話していたけど、詳しい話を聞きたい。…………一体何があった?」
僕は聞きたくないなあ。聞かないわけにもいかないけど。
感情が顔にでないようにハードボイルドな表情で固定していると、エリザが腕を取り、まるで押し付けるようにユグドラの民の前に突き出してきた。
「彼が呪石を見つけたクライ・アンドリヒ。帝都では屈指の知恵者として知られている。話してみれば解決策が見えるかも」
「!? やめてよ、エリザ。僕は知恵者なんかじゃない。知らない事だらけだ」
なんでエリザがそんな評価をしてくれているのかも知らないし…………もしかして僕みたいに適当に言っているだけかな?
肩を竦め自分の無能を主張する僕に対し、ユグドラの民はこちらの真意を見透かそうとするかのようにじっと目を見ていたが、小さく頷き立ち上がった。
「わかりました。もともと、シェロの呪石の発見は偉業。種族など関係ありません。それに、どうやら……助けられたようですね。本来ならば人間に話すような事でもありませんが、借りは返さねばなりません。私の名はセレン…………ユグドラの案内人です。道すがら、全てをお話ししましょう。現在ユグドラが直面している世界の滅亡にも繋がりうる状況の全てを」
あ、話すのね……僕、ルークを治して貰いに来ただけなんだけど、今更そんな事を言えるような空気ではなさそうだ。
リィズ達のようにノーと言いたい時にノーと言える人間になりたい。
リィズが目を見開き、面白くなってきたと言わんばかりの表情で言う。
「え!? 世界滅亡するのお? なになに? あの精霊の言葉、全然わかんなかったんだけど!」
どうやらノーと言いたい時に言える人間も今回はイエスらしい。危険に首をつっこみたがるんだから……。
セレンが鞄から僕達も持っている導を取り出し、紐を持ち吊り下げる。導はくるくる回ると、ピタリと一方向を指して停止した。先程までの暴走っぷりが嘘のようだ。
エリザが目を見開き、自分の導を取り出す。導はセレンの持っていた物同様、さも当然のように一箇所を示し停止した。
「…………導が直ってる」
「…………導が狂っていたのならば、それはミレスの影響でしょう。彼女はユグドラでも屈指の力を持つ精霊なので――」
「待て…………まさか、あの神格に限りなく近い精霊はユグドラの魔導師が使役しているのか!?」
精霊は力に比例して契約するのが困難になると聞く。僕はどんな魔物にも簡単に負けるので、先程相対したあの精霊にどのくらい力があったのかはわからないが、ルシア達の猛攻を受けてほとんど堪えていないのだから相当だったのだろう。
ラピスの質問にセレンは一瞬不服そうに眉を顰めると、首を横に振った。
「…………いえ、協力を受けているだけです。ユグドラでは精霊とは太古より親密な関係を築いているので…………普段は森の守護を担当してもらっていて――最近物騒なので護衛としてついてきて貰ったのですが、まさか長きに亘り森を守った守護精霊が我を失うなんて事があるなんて……前代未聞です。完全に予想外でした」
「なるほど、完全に予想外か……」
思わず漏れた言葉に、セレンが僕を見る。
「………………何か?」
いや、別に…………何が起こったのかわからないが、今回のトラブルは伝説の国を護り続けた精霊が狂う程の出来事だという事実に、思わず彼女の言葉を反芻してしまっただけだ。ああ、とか、うん、とかそういう相槌と何も変わらない。
なんとなく空を見上げる。神樹廻道などという大層な名前はついているが、空の青さは外と何も変わらない。
たっぷり空を見上げ現実逃避すること数分。ようやく覚悟を決め、顔を元に戻す。
そして、大きく一つため息をつくと、無言で僕の現実逃避を待っていてくれた面々を順番に確認して言った。
「…………いや、なんでもないよ。とりあえず、時間も余りないみたいだ。なんとかしてあげるなんて軽々と約束なんてできないけど、とりあえずユグドラに案内してもらおうかな」
§
セレンの先導を受け歩く事十数分、森の中、突如立ち込めた霧を抜け、視界が一気に開ける。
それは、帝都と比べてずっと質素で、そしてお伽噺の中に紛れ込んだかのように美しい村だった。
さらさらと流れる川に、太い樹木の上に建てられた家々。森に住む精霊人は自然の中で生まれ、自然に調和して生きるという話は知っていた。
金属が苦手という話を聞いて文明レベルが低いのかと思っていたが、全く違う。
これは、発展の方向性が違うだけだ。
セレンの話では、ユグドラに住む精霊人の数はそこまで多くないそうだが、全員が魔術の達人であり、精霊の協力を借りて生活基盤を築いているらしい。
思わずため息が出る。まさかこんな村がこの世界に存在していたなんて――未踏の地に踏み込む事に喜びを見出すハンターの気持ちが今ならば少しはわかる。
そして、何よりも目につくのは――樹だった。天を仰げば視界に入る、巨大な樹。
数キロは離れているらしいというのに、余りにも大きすぎて目の錯覚を疑う。こんなに離れているのに、頂点が見えない。
その影には青々とした葉が無数に舞い落ちており、その様子はかつて発生に遭遇した新たなる宝物殿――『白亜の花園』の花吹雪を想起させた。
ここが全ての精霊人の故郷――ユグドラ、か。
目の前に広がる伝説の国(規模は村、程度だが)の光景に、冒険に慣れているリィズ達の表情にも少しだけ興奮しているのが見て取れた。
道中セレンから重めの話を聞かされたのだが、何事も全力で楽しめるのは彼女達の長所である。
自らの手のひらを見下ろしていたシトリーが感心したように言う。
「なるほど…………マナ・マテリアルが濃い。高レベルの宝物殿並ですね。むしろ、これまで宝物殿が出来上がらなかった事がおかしいくらいに――」
「世界樹が世界中に循環するマナ・マテリアルの中心点という話もあながち間違いではないみたいですね、リーダー」
「……うんうん、そうだね」
世界中に血管のように奔っている地脈。マナ・マテリアルが循環する地脈の中心点に世界樹が存在するというのは稀に聞く話だが、まさかそれが真実だとは衝撃だった。
僕達と同様、ユグドラは初めてらしいラピスが顔を顰め頷いた。
「マナ・マテリアルの吸収量が高い人間は『酔う』だろうな。《嘆きの亡霊》は高レベル宝物殿には慣れているだろうが――」
「なるほど……確かに、長居するべきじゃないな。僕は大丈夫だけど――」
マナ・マテリアル酔いとは、強力なマナ・マテリアル吸収能力を持つハンターが高位の宝物殿などで、一気に適応範囲外の多量のマナ・マテリアルを吸収した結果、発生する現象である。
マナ・マテリアルの吸収能力は基本的に高ければ高い程いいが、その現象は数少ない才能のデメリットとも呼べた。マナ・マテリアルの吸収能力がほとんどない僕にとっては羨ましい限りだ。
クリュスが眉を顰め、忠告でもするかのように言う。
「ヨワニンゲン、あまり無理するなよ、です。私達精霊人はマナ・マテリアルの吸収能力が低めだから問題ないが――マナ・マテリアル酔いだけはなかなかどうにもならないと聞くからな、です」
僕はクリュス達よりもマナ・マテリアルの吸収能力、低いんだなあ。どのくらい低いかって、あの【迷い宿】でもマナ・マテリアル酔いをしなかったくらいに低い。
酔わないだけで何もできない事には変わらないんだけど……。
「…………大丈夫だよ。長居するつもりはないし」
僕は問題なくても、リィズ達は違う。クリュスの言う通り、マナ・マテリアル酔いは対策できる類のものではない。
リィズ達はいつも高レベルの宝物殿で冒険しているしその手の現象にも慣れてはいるだろうが、慣れているのと辛くないのとはまた別の話だ。
うんうん頷いていると、クリュスがぼそりとつっこみを入れてくる。
「…………どうしてヨワニンゲンはあんな話を聞いて、そんなに自信満々なんだ、です」
「え……?」
自信満々…………僕のどこに自信があるというのか? 単純にさっさと用事を終わらせて出ていこうというだけの話なのに……。
道中、セレンが話してくれたユグドラが直面しているトラブルは概要だけ聞いてもとても僕達の手に負える規模のものではなかった。そりゃ僕達だって手伝える事があるのならば手伝うが、そもそも彼女たち自身なんとかなるとは思っていないようだ。
僕達の目的はあくまでルークの石化の解呪だ。それを忘れてはならない。もしかしたらユグドラのトラブルもゼブルディアに戻ってフランツさんあたりに話せばなんとかしてくれるかもしれないし――。
「シェロを見つけた経緯など色々聞きたい事はありますが、まずはさっさとシェロのかけたという石化の呪いを解いてしまいましょう。ついてきてください」
眉根を寄せ、世界樹の方を見ていたセレンが、気を取り直したように言うと、歩き始める。
ユグドラが危機に瀕していると聞いた時にはどうなるかと思ったが、少なくとも目的についてはなんとかトラブルなく達成できそうだな。
§
そして、みみっくんから取り出したルークの石像をじっくり確認したセレンは、深刻そうな表情で言った。
「ダメです。この呪いは余りにも強すぎる。いくら精霊人の女王の術とは言え、ここまでの呪いを受けるとは――よほど術者に嫌われていたのでしょう」
「え? 解呪できないの?」
ほとんど時間も掛けずに出された結論に思わず目を見開く。
解呪できないパターンなど考えてもいなかった。エリザの話ではユグドラの呪術師ならば解けるという話だったが、ルーク……そんなに強く呪われるなんて、君ってやつは……まぁ、いつか痛い目見るとは思っていたけど。
というか、本格的にまずい。ユグドラに来るのに随分時間を無駄にしてしまった。呪いが進行して石から戻れなくなったらさすがに笑えない。
僕の問いに、セレンがむっとしたように言う。
「正確に言うのならば、ここでの解呪は不可能です。適切な場で施術を行わなければ――」
「適切な場ってどこ?」
「………………世界樹の下です。私達はかの樹から大いなる力を受けているので――」
世界樹の下って、さっき近づけないって言っていたはずじゃ……どうやら今回も最悪のタイミングのようだ。
シトリーも得心が行ったと言わんばかりにぽんと手を打っている。いつも何かと問題が発生しているからと言って、慣れすぎであった。
念の為、恐る恐る確認する。
「………………その…………気を悪くしないで欲しいんだけど、もっと強い呪術師の人とかいないのかな? 場を整えなくてもルークを戻せるような……聞いた話では、一番力を持っているのは精霊人の皇族らしいじゃん?」
まぁ、もしかしたら、ただの人間が皇族に頼み事するなど言語道断なのかもしれないが、こちらはルークの命がかかっている。
このまま石化が治らなかったらルークはクランハウスの置物だ。珍しく食い下がる僕に、セレンの口元が一瞬痙攣し、押し殺したような声をあげた。
「ッ……………………わ、私が、その、皇族です………………わ、悪かったですね、ニンゲン」




