324 神樹廻道⑤
ハンターにとって状況判断能力は最も重要な能力の一つであり、索敵や先導を担当する盗賊以外にも、パーティ全員に求められるものである。
戦場では状況は目まぐるしく移り変わる。特に、人知を超えた宝物殿では一人の判断の遅れが全滅につながる事だって珍しくない。
まぁ、何を言いたいかと言うと、優秀なハンターならば持っているべき能力を、ハンターの資質ゼロと言われた僕が持っているわけがないという事だ。
まだ《嘆きの亡霊》のリーダーとして冒険に参加していた頃、僕のような無能がハンターのリーダーを務める事ができたのは、各々のメンバーが優秀過ぎたからである。
ルシアが突然攻撃を仕掛けたのは驚いたが、それだって――帝都最高峰の魔術学院で魔術の研究に明け暮れる我が妹が判断したのならば、間違いなく正しいのだろう。
大雑把な指示をすれば皆適切に動いてくれる。問題は、そういう風に事を進めると僕が状況を全く理解できないというただ一点だった。
そして、僕は今、状況に流されて適当にやった結果、謎の精霊と至近距離で見つめ合っていた。
膨れ上がった球状の身体。その頭部についたつぶらな瞳がじっとこちらを見ていた。
その目からは害意のようなものは感じないが、僕の感覚が麻痺しているだけの可能性もあるだろう。
仲間達はかなり疲弊していた。特に《星の聖雷》のメンバー達は先程までの猛攻撃の反動か、もはや立つことすらできないようだ。まだハンターになりたての頃によくルシアが陥っていた状況である。
ルシアやアンセム達はまだ動けるようだが、息を殺し、いつでも間に入れるよう態勢を整え、見つめ合う僕と謎生物を見ている。
どうしてこんな状況に陥っているのか、さっぱりわからなかった。
何しろ僕がやった事は、流れ弾的な精霊の攻撃に当たった事と、隙を見せた精霊に攻撃命令を出した事くらいだ。
《星の聖雷》と《嘆きの亡霊》という帝都でも知られた二つのパーティから猛攻撃を受け、精霊には目に見えた変化がなかった。リィズが中に囚われた精霊人を助け出すために切り裂いた身体も既に元通りになっている。
精霊がこの世界でも屈指の力を持っている事は知っていたが、あの攻撃を受けて撃退どころか傷を負わせる事すらできないとは、信じがたい話だった。こうして見つめ合ってても攻撃される気配はないのでもしかしたら表面上は無傷なだけで効いているかもしれないが、判断する術が僕にはない。
まぁ、とりあえず、目の前の精霊さえどっかにいってくれれば解決かな…………だが、どうしたものか。
万事において卒のないシトリーや精霊に詳しそうなエリザも、今回は僕の事を助けてくれないらしい。こういう時に頼りになりそうな《星の聖雷》のメンバー達の方も見るが、皆身体を硬直させて僕を見ている。一人の唇が微かに動いているが、何を言おうとしているのか全くわからない。まぁ、どうするつもりだとか言ってたし、声が聞こえたとしても期待はできないだろう。
相手が人間だったら話し合いを試すんだけど――いや、待て。クライ・アンドリヒ、諦めちゃいけない。
目の前に浮かぶ存在はどう見ても怪物そのもので、話しかけるだけ無駄に思える。ラピスだって意志を失っていると言っていた。
だがしかし、そもそもリィズ達の猛攻撃を受けて倒れも逃げもしていない以上、選択肢は限られているのだ。僕が真にレベル8に相応しい実力を持っていたら追っ払うという手も使えたんだろうけど、力がないんだから仕方ない。
しかし最近やばいヤツとか関わってばかりだな。
「…………仕方ないな」
ルシアは昔、精霊との交渉は心と心で行うものだと言っていた。
よくわからないが精霊の攻撃は止まっているし、今からでも真摯に話し合えばきっとなんとかなるはずだ。言葉は通じないだろうから、身振り手振りも交えて――。
一度深呼吸をして覚悟を決めると、大きく両腕を開く。口を開きかけたその時、精霊がちかちかと強く発光した。
目を見開く。鈴の音にも似た不思議な音がどこからともなく聞こえ、精霊の形が球体から人間を模したものに変わる。
一瞬新たな攻撃かと思ったが、その様子もない。腕を広げたまま硬直する僕に、精霊がゆらゆらと腕を持ち上げてみせる。
何が起こってるんだ……? そして、この音は一体――。
その時、よくわからない状況に混乱の極みにいる僕に、それまで膝をつきこちらの様子を食い入るような目で見ていたラピスが、絞り出すような声をあげた。
「こ、この格の、精霊が、まさか、精霊の方から、人間と対話を試みるとは……つくづく、貴様には驚かされる」
「!! ………………ま、まぁ、たまにはそういう事もあるよ」
そうか、なるほど。この音、精霊の声ね! そう言われてみれば目の前の精霊から聞こえてきているような気もする。全く、紛らわしいんだから。
だが、相手が音によるコミュニケーションを試みていると分かればこちらのものだ。こういう時こそ、通訳能力を持つ宝具の杖――『丸い世界』の出番である。
ルークの意思の確認にも使えたし、高かった割には役に立っていなかったが今回は使う機会が多くて嬉しいよ。
頻りに鈴の音で何かを訴えかけてくる精霊にうんうん頷きながら、隅っこの方で待機していたみみっくんを手招きする。だが、いつでも呼べばすぐにやってきていたみみっくんが今に限って近づいてこようとしない。
呼ばれたら来るのも機能のうちの一つだったんじゃ…………今は遊んでいる場合ではないんだけど?
何度か手招きしていると、ティノが僕とみみっくんのやり取りに気づき、慌ててみみっくんの近くに行ってその頭をばんばん叩いてくれる。それでようやく、みみっくんが動き出した。
…………もしかしなくても本当に宝具の扱い、ティノの方がうまいんじゃ――いやいや。さすがにその分野で負けたら僕がティノに勝てるのはレベルだけになってしまう。ここで名誉挽回したい。
近づいてきたみみっくんの蓋を開け、『丸い世界』を取り出す。ここからが僕の出番だ。
意気揚々と精霊の方に向き直り、宝具を起動する。不思議な音が意味をもってこちらに伝わってきた。
『――それでは、頼みました。人の子よ』
「…………あ、はい」
…………え? ちょ、ちょっと待って?
精霊は内心戸惑っている僕に気を払うことなく満足げに頷くと、蓋を開けたままになっているみみっくんの方を向いた。
『それでは、また力に意識が呑み込まれる前にその中で、眠りにつく。最近のこの世界は…………マナ・マテリアルが強すぎる』
精霊がみみっくんの中に消える。制止する間もない。
そして、場に静寂が訪れた。一見、精霊が現れる前と変わらないように思えるが…………えっと、僕は何かを頼まれたのかな?
どうやら精霊は僕が精霊語? を使えない事に気づいていなかったらしい。うんうん頷きながら聞いていたのが裏目に出たようだ。どうしよう。
息を潜めるようにして僕と精霊のやり取りを見ていたルシアが駆け寄ってくる。
「に、兄さん、大丈夫ですか!? 精霊と交渉するなんて――」
…………まぁ、別に交渉しようとしていたわけではないけどね。なにはともあれ、精霊を追い返すという目的は達成したのだ。みんな無事で本当によかった。
少し回復したのか、ラピスがふらつきながらも立ち上がり背筋を伸ばす。
「ふん……力に飲まれた、か。攻撃指示は膨れ上がった力を削って正気に戻すためか…………確かに空気中の魔力濃度の高さは気になっていたが、あのクラスの精霊でも暴走するほどの力が集まるとは、どうやらユグドラは少し複雑な状況にあるようだな」
「!! うんうん、そうだね!」
『丸い世界』の効果は使用者にしか適用されない。どうやらラピスは精霊の言葉をしっかり理解できていたようだ。
不幸中の幸いだ、僕が何を頼まれたのかも聞いていた事だろう。後で確認しよう。危うく何も状況がわからずに事が進んでいくところだった(よくある)。
ほっと息をついていると、続いて、ラピスはまだへたり込んでいる仲間達を見下ろし、真剣な声で言った。
「そして、先程の賭けはどうやらお前達の負けのようだな。今の精霊の言葉が真実ならば、此度の事件、この男とは無関係だ。加えて、この男は精霊からの依頼を躊躇いなく受け入れた。言うまでもない事だが、精霊人としてこの借りは余りにも大きい。わかっているな?」
「だから、ヨワニンゲンのせいじゃないと言っただろ、です!」
ラピスの厳しい視線と呆れたようなクリュスの言葉を受け、《星の聖雷》のメンバー達がしおらしくうつむく。
いつもあたりが強いので、そう態度を変えられると逆に落ち着かない。
そもそも、受け入れたというか、何を言われていたのかわからなかったというか…………てか、借りとかないんじゃない?
風評被害を受けるのは言うまでもなく厄介だが、誤解で評価されるのもそれはそれで厄介だ。慌ててラピスに言う。
「大丈夫だよ、ラピス。今回の件、貸しだなんて思っていない。僕は自分がやりたいようにやっただけだよ、賭けについても気にする必要はない。あれはフェアじゃなかった」
自分に非がないことはわかっていた上にこちらが負けていた時の条件が有耶無耶だったあの賭けは僕側に有利すぎる。僕が実際に負けたら改めて要望を言ってきていた可能性もあるが、それだってシトリーが上手いこと誤魔化していただろう。
今回の精霊からの頼まれごとについても、まだ受けるかどうか決めたわけではない。うっかり「あ……はい」とか言ってしまったが、まだ取り返しがつくはずだ。
問題は、いつラピスに内容を確認したものか…………いいタイミングがあればいいんだけど。
眉を顰めそんな事を考えていると、《星の聖雷》の一人が勢いよく立ち上がった。こちらをギロリと睨みつけると、まだ少しふらつきながら僕の前に立つ。
すっと通った目鼻立ちに、静かに輝く宝石のような瞳。その得体の知れないプレッシャーに思わず身を固くする僕に、その女魔導師は低い声で言った。
「わ、私が――私達が、間違えていた。《千変万化》。これまでの暴言、あらぬ疑いをかけてしまった事、全て謝罪しよう。許して欲しい…………です」
まさか全面降伏とは、完全に予想外だった。
深々と頭を下げる女魔導師と、それに合わせて頭を下げる他のメンバー達。
僕が彼女達の名前すら覚えていないと知ったらどう思うだろうか? だってほら……めったにクランハウスに来ないから接する機会もないし。
クリュスが何故か気の毒そうにその頭を見ながら、僕に言う。
「ヨワニンゲン、許してやってくれ、です。アストルもしっかり敬語を使って謝罪している。ただ、その……ヨワニンゲンの事を余り理解していないだけなんだ、です」
「いや、もちろん問題ないけど……確かにあの状況だったら疑われても仕方ないと思うよ、僕も」
そもそも、謝罪とかいらないし…………てか、この敬語、クリュス特有のものではなかったんだね。そっちの方が驚きだよ、僕は。
どうしていいのかわからない僕に、クリュスからアストルと呼ばれた女魔導師が頭をあげる。
同時に、後ろに控えていた《星の聖雷》の他のメンバー達がこちらに群がってきた。
「お前、いいヤツだな、です。どうやら、誤解していたようだ、です。レベル8、人間の作った下らぬ尺度かと思っていたが、それなりに正しかったようだな、です」
「神格に近い力を持つ精霊を元に戻した上に、囚われていた仲間まで助け出すなんて……人間にしておくのがもったいない、です。さすがルシアがあれほど評価していたのも納得だ、です」
「しかも、あのような精霊からのお願いに躊躇いなく応えるなんて! お前を私の友にしてやろう、です!」
興奮した様子で話しかけてくる《星の聖雷》の面々。その表情に先程まで浮かんでいた侮蔑は欠片もない。
余りの変貌っぷりにルシアが頬を引きつらせ、クリュスもむっとしている。
え? 精霊人ってこんなに人懐こかったっけ?
いや、その前にあの精霊、一体僕に何を頼んだんだ? 断ろうと思ってるんだが、断りづらいなあ。
「そうだ、人間。代価というわけではないが、無礼の詫びに私の宝物をくれてやる、です! 大事にしろ、です!」
「い、いや、いらないって――そんな……」
あまつさえ、自ら身につけている緑の宝石のついた指輪を渡そうとしてくるアストル。
人間には塩対応な精霊人も身内には甘いとは聞いた事があったが、一気に態度変えすぎでしょ。
宝物なんて受け取るわけにはいかない。ますます断りづらくなってしまう。もう指空いてないし。
断固として拒否する僕にアストルは一瞬傷ついたような表情をしたが、すぐに何かを思いついたように、懐からナイフを取り出し、躊躇いなく自らの長い髪に滑らせた。
ばっさりと金糸のような髪の束が落ちる。アストルは意味不明な行動に目を見開く僕に自信ありげな笑みを浮かべ、髪を差し出してきた。
「そうだ、宝物がいらないのならば、私の髪を少し分けてやるです! 精霊の依頼を聞き入れてくれる礼だ。精霊人の髪は魔術の稀少な触媒になる。本来ならば人間が手に入れられるものではない、感謝しろ、です!」
その行動に、皆が呆然としていた。特にシトリーなんかは手を口元に当て、表情に驚愕と歓喜を滲ませている。
このシトリーの表情、本当にありえない幸運が舞い込んだ時に浮かべる表情だ。こんな状況でそのマイペースさがかなり羨ましい。
「…………………………あ、はい……」
さすがに受け取らないわけにもいかなかった。何しろ、既に切り落とされてしまっている。
ここまでされたら精霊のお願い、断れないじゃん…………吐きそう。
髪の束は本当の金のように艷やかで美しく、少しだけひんやりとしていて、神秘的だ。魔術の希少な触媒になると言う話も本当なのだろう。
しかし、僕にこれで何をしろと? そして、本当に、精霊は一体僕に何を言ったんだ!?
クリュスがそそくさと近づいてきて、恐る恐るといった様子で尋ねてくる。
「ヨワニンゲン…………その……私の髪もやろうか? です」
「…………とりあえずアストル達に変な敬語やめさせて? 紛らわしいから」
「!?」
何を張り合ってるんだ…………いらないよ! というか、自分の髪を渡されるってだいぶ重いよ!?
とりあえず受け取ってしまった分は……シトリーが欲しそうにしているし、シトリーにあげるか。
しかしこの期待の眼差し、凄く落ち着かない。精霊が正気に戻ったのだって、頼み事を受けてしまったのだって、僕の意図した事じゃないんだよ。
《星の聖雷》のメンバー達の熱い視線が全身に突き刺さっていた。これほど態度が変わるような事をやってしまったという事実がただひたすら怖い。(ルークを除いた)《嘆きの亡霊》のほぼ全員がかかって倒せなかった精霊が頼むような事ってなんだろう?
と、そこで、《星の聖雷》の群れの外からどこか不機嫌そうな声がかかった。リィズの声だ。
「クライちゃーん、ちゃんとクライちゃんの言う通りに看病してあげてるんだから、ちゃんとこっちも見て!? そろそろ意識が戻るみたい!」




