306 ラストスパート
「フランツ団長、帝都から連絡ですッ! どうやら我々が帝都から離れた後、襲撃があったようで――」
「…………ふん。やはりか…………だが、抜かりはない。光霊教会はアーク・ロダンを始めとした優秀なハンター達を配備している」
部下からの報告に、フランツは苦々しげな表情で答える。
精霊人の呪術師を受け入れる準備は順調に進んでいた。精霊人のいる大森林までの街々に騎士団を配備し、精霊人の生態に明るいゼブルディア魔術学院教授のセージ・クラスタにも協力を求めた。
街中の守りはハンターに任せた。ハンターの手を借りる事に難色を示す者もいるが、冷静に判断を下した結果だ。予言を止めるためならばあらゆる手を尽くす。
《星の聖雷》は既に森に入った。今フランツにできるのは一刻も早く呪術師を連れ帰りマリンの慟哭を浄化してもらう事だ。
如何に強力な組織でも、『九尾の影狐』のメンバーは所詮は人間、《銀星万雷》と《不動不変》のコンビを短時間で突破するのは不可能だ。他にも実力者は何人もいる。
飛行船が落とされた時の経験を生かし、あのふざけた男の考えを考慮に入れた見事な読みだ。
自分の慧眼に頷くフランツに、報告にやってきた部下は困惑したような表情で言った。
「い、いえ…………それが…………帝都に多大な被害が――《千変万化》がフランツ団長の名を呼びながら呪いに追いかけ回され空を飛び回っている、と」
「………………あ?」
§ § §
まずいまずいまずい。
心臓が破裂しそうな勢いで鳴っている。恐らく、今鏡を見ればティノの顔はこれ以上ないほど真っ青だろう。
必死にカーくんを駆り、帝都の空を疾走する。後ろからは雪崩のような勢いで呪いの精霊人が迫っていた。絶え間ない破砕音が振動となり、脳を揺さぶる。
きっと、帝都には相当な被害が出てしまっているだろう。だがそれ以前に捕まれば間違いなく――殺される。そして、マスターがやられれば帝都を守る者はいなくなる。
疾風の如き速度を見せたカーくんももうヘトヘトのようだ。クランハウスは目と鼻の先だが、そこまでギリギリ持つかどうか――。
振り向かなくても、距離がどんどん詰められているのがわかった。先程まではこちらの方が速かったのに、相手のスタミナは底なしだ。
喉がからからに乾いていた。久々の千の試練は相変わらず試練とは思えないくらいに、手に負えない。
ぶらぶらしているマスターに弱音を吐く。
「ま、ますたぁ…………お、追いつかれます……」
「ッ…………仕方ない、この手は使いたくなかったけど――『狗の鎖』ッ! 『弾指』ッ!」
ティノの弱気を笑うかのように、マスターが精霊人を煽り始める。
違う……違うんです、ますたぁ。私は励まして欲しかっただけなのですッ!
魔法の弾丸と鎖をただ前に進んだだけで弾き飛ばした精霊人が咆哮する。その身に纏った瘴気が一層、密度を増す。
「ニ、ン、ゲ、ンッ!!」
ぴしりと、世界が崩壊する音をティノは確かに聞いた。ぼろぼろと、通り過ぎた周囲の建物が崩れていく。これほどまでに物理的な影響を与える呪念が存在するなんて、知らなかった。
今足を止めてしまえばティノの身体は凍りつき二度と動く事はないだろう。そんな錯覚すら覚える。
使命だ。今のティノを動かしているのはただの使命感だった。
マスターが襲われているのはティノが指輪を渡したせいなのだ。何としてでもティノはマスターをクランハウスのラウンジまで連れていき、みみっくんの鍵を開けねばならない。
これまでいつ如何なる時でも平静に解錠作業ができるように鍛錬してきたが、正直今のコンディションでみみっくんの鍵を瞬時に開けられるかまったく自信がなかった。
みみっくんの錠前はそこまで複雑なものではなかったが、呪いとの速度の差を考えるに、使える時間はほとんどないだろう。短くて一呼吸の間、長くても十数秒だろうか。
正直、マスターはティノを買いかぶりすぎている。だが、やれないなどとは言えない。ティノはマスターに、開けますと一度言ってしまったのだッ!
意識を集中する。追いかけてくる精霊人の事を一端、頭から追い出し、身体の震えを止め呼吸を落ち着ける。
解錠は平時ならば簡単なのだ、絶対に、うまくいくはず――。
決戦の場所。クランハウスが見えてくる。ヒューが箱を持ってきて倒れたのが遥か昔の事のように感じた。一体彼はどこであのような物を手に入れたのだろうか?
ラウンジに飛び込み、絨毯から飛び降り、鍵を開ける。ラウンジに飛び込み、絨毯から飛び降り、鍵を開ける。
ぶつぶつと自分のやるべきことを呟く。いける。いける、はずだ。成功を確信しろ、ティノ・シェイド。これまでの試練の成果を、成長をマスターに見せるのだ!
割れたラウンジの窓が見える。カーくんが頑張ったおかげか、呪いの精霊人に捕まらずにここまでたどり着けた。
今こそ、飛躍の時――。
と、前を覚悟と共にきっと睨みつけたその時、不意にがくんと姿勢が崩れた。一気に速度が失速する。
「カーくん!?」
「!?」
魔力切れだ。気づいたその時には、もう遅かった。凄い躍動感と共にティノ達を助けてくれたカーくんは完全にただの絨毯となり、身体が一気に重力で引っ張られる。
はるか上に流れるラウンジ。推進力はまだ少し残っているが、高さが全く足りない。
失敗した。近づいたらカーくんを捨てて乗り移るべきだったのだ。錠前を開ける事だけに集中してしまったティノの完全なるミスだ。
落ちていく身体。丸くなるマスターの目。後ろから迫る精霊人。
悲鳴をあげようとしたその時――真下から硬いものがティノの身体に突き刺さった。
けほりと、息を吐きだす。骨まで響く、重い衝撃。それは、ずっと慣れ親しんでいたものだった。
ほぼ反射的にマスターの手を強く握る。ティノの身体が下からの衝撃に大きく上昇する。視界の端にピンクブロンドが流れた。
「ッ……おら、てめえ、さっさと行けッ! 鈍くさいんだよッ!」
ありがとうございます、お姉さまッ!
痛みなど、感じなかった。意識を集中する。受け身を取り、ラウンジの中に滑り込む。
床をバウンドし、みみっくんの近くに転がったマスターが引きつったような、壮絶な笑みを浮かべて言う。
「『ゼロ』だ」
その言葉の意味を考えるような余裕はなかった。後ろからつっこんできた呪いの精霊人がラウンジに降り立つ。
ティノは必死にラウンジの中心に放置されたみみっくんに駆け寄った。
鍵を開ける。鍵を開ける。鍵を開ける。それ以外の事は――考えない。
精霊人の足元を闇が侵食する。床も、壁も、天井も。闇が迫ってくる。
駄目だ、開ける時間などない。そんな予感が脳裏を過ぎったが、やらずに諦める事などできない。
そして、ティノは宝箱に取り付き、何度目かになる驚きに、目を見開いた。
「鍵が……開いてますッ!」
錠前は床に転がっていた。みみっくんの蓋を開ける。中は奈落に続いているかのように、闇に満ちていた。
お姉さまだ! お姉さまが、事前に状況を察して開けてくれたのだ!
鍵開けは、お姉さまの役割だったのだ。ならばティノの役割は――。
と、そこでティノは頭から抜け落ちていたとんでもない事に気づいた。
………………こ、この呪いの精霊人、みみっくんの中に入れる方法、あります?
「終、わ、り、だ、ニンゲンッ! 貴様は、私が出会った中でも、最も憎たらしい、相手であったぞッ!」
呪いは冷静だ。うっかりみみっくんの中に入ったりもしないだろう。宝箱を持ち上げ突進してもいいが、それで相手を閉じ込められると考える程ティノは現実を舐めてはいない。
マスターの方を見る。マスターはまるで何かを待つように目を瞬かせていた。
このような窮地に至ってまだ平常とは、さすが神だった。できればティノにご加護を与えて欲しい。
鬼のような面で歩みを進める呪いの精霊人。ふと、その精霊人の後ろからマリンの慟哭と黒騎士が出てきて、精霊人の前に立ちはだかる。
マリンの慟哭は慟哭とかではなく、泣きそうだった。
黒騎士の方は甲があるので表情が見えないが、恐らく似たりよったりな感じだろう。二つの呪いは人間基準で言えばかなり強力だが、明らかに目の前の怪物よりも数段落ちる。
黒い杖を振り上げるマリンの慟哭と、魔剣を構える黒騎士を見て、精霊人が眉を顰める。
精霊人がやったのは、それだけだった。
何の前触れもなかった。マリンの慟哭と黒騎士が後ろから放たれた黒い触手に薙ぎ払われ、飲み込まれる。
恐ろしい速度だ。盗賊であるティノが瞬き一つする間すらなかった。恐らく、相対していたマリンの慟哭と黒騎士は自分の身に何が起こったのか理解できなかった事だろう。
たった一体、残った最強の呪いがマスターを見る。
「くだ、らん……弱さに、共感したかッ……絆されたか――これが、最後の策かッ? クライ・アンドリヒ」
ひくひくと頬を引きつらせながら、精霊人が静かに言う。
マスターは以前「精霊人は美人だから怒ると怖い、クリュス以外は」と言っていたが、まさしくその顔はこの世のものとは思えない程美しく、そして恐ろしい。
「うわっ……酷ッ……仲間になんてことを――」
さすがのマスターもこれは予想外だったのか、あるいはその迫力に圧されたのか――口を押さえ退る。
そして――口が開いたままだったみみっくんに躓き、逆さに吸い込まれていった。
「…………」
精霊人が引きつった表情のまま、沈黙する。ティノと目と目が合い、ティノは思わず首を横にぶんぶん振った。
あ、わかりました、ますたぁ! 私の役割は――ますたぁを外に引き上げる事だったのですね! いくらでも引き上げます、殺されなかったら!!
精霊人の華奢な肩が震え、その姿が強く明滅する。そして――
「コ、コロス………………私を、私を、馬鹿にするなああああああああああああああッ!」
「ッ!?」
――咆哮。
臓腑がひっくり返るような衝撃に、膝が砕ける。
その姿がぐずぐずに崩れ、どろどろとした黒い液体になる。
悲鳴すらあげられないティノの前で、液体は濁流のような勢いで、みみっくんの入り口に殺到した。
予想外の連続に、判断が遅れた。いや――判断が間に合ったとしても、耐える力など既にない。
精霊人はティノをターゲットにしていなかったが、黒い液体はみみっくんの近くにいたティノを有効射程に含んでいた。
その濁流の如き勢いに、身体が滑り流される。凍りついている身体を動かしもがくが、何の抵抗にもならない。身体が呪いと一緒にみみっくんの中に吸い込まれる。
ティノは最後の力を振り絞って、叫んだ。
「お姉さまあああああああああ、ごめんなさあああああああああいッ!」